第32問 自己貫徹性

最近思うのは、自分が1年前、2年前の自分と同じなのかということである。

すっかり自分は自分でなくなっているし、自分はしっかり自分のままである。

周りの環境が自己を決定するという考えには根本的な誤りがあるような気がする。


しかし環境を環境として意識した瞬間に、環境はもはや自己と重なることは事実である。認識自体が我々個人の所産であるからだ。


私は他人から見ればかなり分類に苦労するタイプ、だと思う。

第31問 責任の所在 判断の拠所


浪人生として生きる中で、非浪人生即ち高校生大学生大人が涎を垂らして待ち構えているトピックがあったので今回はそのことを書きたい。

友達が増えていく中、友達の友達の不幸というか、挫折をこのところ度々と聞く。それは同じ人物についてのこともあるし、または別の輩のことが話させることがある。とはいえ、我々の話題として挫折している人間が幾度となく取り上げられることは大きく論じる価値があるだろう。それは簡単に言えば、我々は自己を挫折せずに努力しているという甘い認定をしているという事実があるということの告白である。この甘さは認めなくてはならないし、なくてはならないものである。というのもそれは我々が浪人生だからというわけではなくて、受験生としてそれは昨年も実は必要とされたものであるということである。今熟と感じるに、受験という関門には何らかの互助が必要である。皆が教室で脂汗をかくような状況は一にも二にもあってはいけない。彼らは受験生である前に学生であり、若さである。人間と人間の交渉を留めて得るものは何もない。自傷的孤独と虚無的敵意、この二つしかない。このことには大学生となった諸君も深くうなづいてくれるのではあるまいか。
そんな互助が欠けると、挫折は簡単に訪れる。今日挫折と言われるものは、私は助けがない、ということとほぼ同義だと思う。個人主義が声を荒げる分、今は個人個人に結果の責任が追及されている。たとえその個人が個人主義を望むことがなくとも、その一律凡庸な規則はあてはめられてしまうのである。人間は互助を切ることで楽をせんとしている。挫折はそして、助けのない人間に因果応報などと謳われて降りかかるのである。
さて私が今日昨日聞く挫折は以下の通りである。私の友達のAと同窓生のXという青年がα大学に入学したがどうも気風が合わず、早々に休学して予備校に入った。しかしながらその予備校も気が乗らず不登校になり、高校時代の友人皆と連絡を断ち切って、励ましのラインを送ろうものの既読もつかず心配もやまない、といったところだ。
私が挫折していると言ったのにはすなわちこの訳で、挫折が正しく現在進行形で起こっているからである。皆が楽しみにしている話題を提供できたようで大変満足である。
こうしたことがなぜ起こるのか。もちろん多元的であることは言うまでもないが、大事なのは何が起こったかと科学的に解釈しようとすることではない。人間を理解しようとするとき、人間から強く発される言葉感情行動はそれに向き合うに大いに値する宝である。我々は人間に触れ合うたびにその具体性に着眼し、法則化を避けなくてはならない。そのためにもタイムラインなどのように、一過性のある情報のアウトラインの収集をするような態度は辞め、一つの長編小説と向き合うかのように人間に向き合わなくてはならないのだ。
私が名も知らぬX君の作用を吟味するに思うことは、彼が責任の所在に困っていることが大きいと思う。簡単な話、運命の不条理と、因果関係に持ち込もうとする自らの姿勢が根本的にくいちがうことに何もできずにいるということである。もちろん無力感だとかそういうものが答えとされるものだが、そうした答えにX君が彼である必要はないのである。
そして彼には自分がなぜそういう決断をしたのかということが判然としていないはずである。一時の感情を後悔しているだろう。そうした感情の大切さに気づかず、冷たい誰かの言った自己責任という言葉に蝕まれている。こうして私が彼と彼の心を推定することは私の言及する具体性とはかけ離れたものである。しかしながら、心への接近を矛盾を建前に怠ることは許させることはない。心への接近は絶対的な価値を持つ。それは心がその持ち主にとってかけがえの無いものであることが証明する。
誰が彼に冷たくするのだろう。周りの皆は彼を気遣い、メールをし、話しかけているのに。親は彼の意思を目一杯尊重しているのに。社会である。社会と言われる誰もいない空間である。今社会と言われる社会に、我々日本人は誰も入りたがらない。入ったらそのままいなくてはならない。早く出たいと思う。そういう空間である。誰もいない空間に我々は"one of them"として飛ばされてしまう。彼の心に接近するのは私たち個人の心なのに、彼には社会が接近するようにしか見えない。

こうした構造は様々な場合に当てはまる。
私たちは友達を社会の一部として捉え、接している面がなかろうか。彼に、彼女にこのことを言ってはいけない。いったら社会に弱みを握られる。
不信とは私たちが早急に解決しなくてはならない大きな問題だと思う。個人主義にかまけている時代は我々が意図せずともすぐさま壊れていくだろう。

第30問 international people

この英語は典型的な誤った英語である。和文を英文に直訳しようとするとこうなってしまう。

和文「国際的な人間」

について今日は少し書いておこう。

私を含め私の周りの人間には段々と国際社会に興味を持つ人間が増え始めた。国際的な人間とは即ち、国際社会で活躍する人間である。この国際的な人間というのは、本人の活動を類別した際に特徴から導き出される答えだから、本人がどういう意思でそうした活動をするのかは全く無関係である。ところが国際的な人間は、この意思で2つに大別できてしまう。

1つは自国の代表者として、活動をする人間。もう一つは、国籍などを問題にせず活動をする人間である。

私は国際的な人間になろうとする人々がこの分別をせずに、いわゆる上昇志向のままに活動をしているように思う。海外経験という大雑把なくくりで適合不適合を図る社会のあり方にも疑問を抱く。彼らの志向の源となっているのは、外国人との思い出であることが多い。何々人の何某さんとどうこうした、という記憶はそれは私は国際交流とわざわざ題目を打ってまで表明するものとは思えないのだ。それはあくまで個人とのつながりであり、その関係は国際交流なんていうものよりも大切な意味を持つのではないかと思ってしまう。経歴上の外国人との交流、という位置付けに置くことに抵抗感を感じながら、やはりそうしてしまう。もちろん具体的経験を明瞭な場合分けをしようとする姿勢自体かなり間違っているけれど、そもそもそれを立派な実績に類別する意識が流れる限り、この批判は避けられないだろう。もちろんこれに当てはまらないぐらい卓越した経験を持つ友人を知っているし、そうした人間にはこの批判は的外れなように聞こえると思う。

冷静になって考えれば、国際的交流の機会は富と非常に密接に関わっている。富がある人間は国の外に出る金がある。勉学をすることができる。国の外に出るのが危険とされる時代で、富が欠けて外に出ようとする人間はわずかではあるまいか。そうした人間を我々は勇敢だと思いはしないか。

安易に国際交流を自分の題目に掲げることの薄さを私は感じ取れてしまう。

先に挙げた大別がきちんと意識できていれば問題はない。自分は国の代表者なのか、それともコスモポリタンなのか。この認識は収集する経験の種類を変えるだろう。国の代表者は、私よりも公が優先されるわけである。即ち公として生きるに相応しい人間性が求められるのである。人間性とは求心力だとか人の良さだとかではない。軸とか分別とかそういったものである。なんとなくでは太刀打ちできないものたちだ。コスモポリタンは逆に公は一切存在しない。自分と気のあった人間とともに生きていく、同じ志向をその中で探す。人の命を救う、地球を守る、国と国の争いを止めようと奔走する、弱きものが殺される現実を伝え続ける。公はなくとも、それに勝る鮮烈な意思が必要かもしれない。鮮烈な意思は鋭利な私にしか宿らないだろう。そう思えば、どちらも難しい生き方かもしれない。

国際的な、はinternationalである。

国際的な人間、はinternational-minded peopleである。

コスモポリタンcosmopolitanである。


字義が本当は全てを物語っている。


第29問 ご紹介

今日は模試だったのですが、良い文章に出会ったので是非読んで頂きたい本をここに載っけておきます。

貫成人「哲学で何をするのか」

私もまだこれを読んでないので、全部を説明することはできませんが面白かったところがありました。

第2章の『文化の中の「わたし」』

簡単に言えば、近代的自我の否定です。

出だしはメルロ=ポンティの嫉妬の話から始まり、ハイデガーの現存在の話まで行って、近代的な「わたし」を【欲望】の観点から分解していきます。

簡単に要約します。

メルロポンティは嫉妬の法則を「自己を同一化」することだと主張します。すなわち、あるものを持っている他人を持っていない自分と比較し、持っている他人になろうとするということです。この論理で「自己と他人」は混同されます。筆者はセルバンテスの『ドン・キホーテ』の例を出します。(懐かしい…)ドン・キホーテは、英雄の騎士アマディースに憧れて"mad poor fellow"になる訳ですが、彼にとってみればアマディースはこの世にはいないライバル、にあたるわけです。ライバルとはすなわち、あるものを持っている他人、です。この不在のライバルへの嫉妬が生まれる論理構造はどのようなものか。

筆者は嫉妬が生まれる条件を

1自分が持っていないものを持つ者は自分の同類でなければならない

2自分の同類が持つものは望ましい者でなくてはならなくてはならない

としました。これがその論理構造を生み出す訳です。

(私はこの部分をその論理構造とする、にはかなりの違和感があります。是非あなたの意見を聞かせてください)

で、ハイデガーに戻ります。現存在について言及する訳です。まあここが近代自我の批判だから文章もその色に染まる訳です。

そうして筆者は嫉妬という観点から、現存在である私たちが他者との関係を重視すべき、みたいなことを言って終わります。


まあ文章自体はイマイチ、な感じですが、嫉妬(欲望)は誰かのコピーだとする考え方は非常に面白い。連鎖的に自己の同一化が進む訳です。メルロポンティは名前だけ聞いてましたが、かなり面白いんだなと思いました。


今日は疲れてるから文章がかなり雑です。お許しください。最近忙しいんですよね。

きちんといつか予備校の生活について報告しますので。

言えるのは去年と違って、勉強が楽しい、ということです。この感じ忘れないようにします。


第1回 success clinic

本来はカタカナ表記ですが、クソ人間のグーグル検索に引っかからないように英語で無理やり書きました。

サク〜〜とは、基礎知識をマーク試験で確認する浪人生対象のテストです。

順位は出ず、偏差値と点数のみ開示されます。

乗せるのが恥ずかしい結果ですが、戒めとしてここに載せます。

科目  点数  偏差値

英語  263/290  66.5

数学  81/90  67.4

現古漢  143/200  64.4

現代文  64/100  62.2

古文  38/50  64.2

漢文  41/50  61.5

物理基礎  32/50  56.8

化学基礎  42/50  59.9

世界史  104/140  59.9

地理   74/140  53.8


典型的な地歴軽視人間です。世界史もあれですけど、地理がひどい。お話にならないレベルです。国語もなかなかにひどい。

細かい分析。

今後するかは分からないけれど、今回はひとまず挑戦してみます。

現代文は基礎知識と標して文学史を聞いてきて、そこでかなり点数を落としました。あと久しぶりに長時間座らされたから後半の小説で配点の高い正誤問題を幾つか落としたのが大きかったようです。

古典は実力不足ですね。明らかに。

数学で落としたのは三角関数と数列の分野でした。数2の範囲は満点だったので、現役の時の得意不得意が如実に出ました。満点取れたと思うと余計に悔しいですね。

英語は難単語の訳問題で3,4問落としました。明らかに抜けていっています。後半の内容一致問題で3問落とし、手痛い失点をしました。集中力もあるでしょうが、やはり文章を読む力は確実に落ちてます。

基礎科目は純粋に勉強不足ですね。ひとまず倦厭しないようにします。

世界史は文化史がボロボロでした。加えて、古代がごそっと抜けてました。中世近代はそこまでですが、現代も抜けてます。あとはヨーロッパ史やアメリカ史が弱いようです。東南アジアとかも。中国は強いんですけど、いけませんね。ひとまず予復習やりこみます。

地理は悲惨でした。系統地理がごっそり抜けたまま楽しい地誌だけやった代償でしょう。系統地理を完璧にしたい。本当にこれは心の底からの願いです。地誌もちろん大事ですけど、系統地理の方がいまの僕にとっては確実に大事でしょう。


第28問 反省

後輩たちが頑張っていた。

第12問を書いた自分が恥ずかしい。

仕方ないけれど残さなきゃならない。

現役のみんなと話せてすごく嬉しい。

羨ましいと思うぐらい豊かな笑みをこぼしていた。



最近の自分はどこか傲慢だった気がする。傲慢にならないと生きられなかったのかもしれないけれど。


楽しい思い出をまた掴めた気がする。


楽しい思い出が重なれば、生きる意味もまた分かるだろう。


私は愚かだなあ。まあ若いからこれでいいや。



気の毒なのが、思い出だとか、関係だとかを誰かの批判とかにとらわれて壊しちゃうタイプの人間はいるんだなあと。まあ第12問は私もその要素を認めなきゃならないんだけど、やっぱり私には愛があるから。憎しみは誰にも持っていない。

思い出か。

例えばアルバムとか。文集とか。

筆が走っちゃうんだろうな。

かわいそうに。

愛とか「客観視」しちゃうんだろうな。


全部を乗り越えたい。モヤモヤする何かを全部、笑顔で乗り越えたい。

私にはそれを支えてくる仲間がいるんだから。


あの部の話はこれでおしまい。






第27問 古代ギリシアな1日

今日は数学の授業があった。担当の先生は、私が去年習っていた数学の先生をよく知っている人らしい。メプロを作ったのは、あの先生だったらしい。

Mathesis Episteme Logos

それぞれ教養、知識、論理を指し示す。

Ancient Greek Wordsである。

今じゃあ大成していて、やはりあの人はすごいと思った。

今年一年がいい一年になりそうな気がした。

あの先生を慕う人もいれば、嫌う人もいる。私はあの先生の為に数学の魅力に飲み込まれたのである。彼を慕う先生に数学をならえるのは二回目だ。好かれるということと嫌われるということは紙一重なのかもしれない。


さてその後は、プラトンの授業を受けに横浜に。人生3回目の横浜。横浜はまあまあ好きだ。少なくとも豊洲よりは全然好き。

正直、圧倒された。レジュメにはなんと、Ancient Greekが。生徒さんたちは平気で読む。解釈する。海の洪水か。津波である。やはり読めるようになりたいものだ。そしていくつも読みたい。会話についていきたい。授業自体は簡単だったけど、明らかに手加減されてたのを感じる。食らいつきたい。

先生は東大の先生。とても権威のある方らしいが、人となりはいい人だった。素直に尊敬できる方だった。

勧めてくれたというか、アルバイトを頼んでくれた先生には感謝せねば。


予備校生活というか、勉強生活は意外にも楽しい。少なくとも去年より楽しめてる。先生も味がある。平岡生はショッキングだろうけど、英語はぶっちゃけ今の塾の方がレベルが高い。要求がかなり高い。量が少ないから「ごたえ」はないけれど、研ぎ澄まされた問題が多い。地理は初の塾授業だが、行っとけばよかったというのが素直な感想。世界史は、文化史をすごく大事にしてる。自分に合ってる先生だと思う。もちろん去年の先生も実力はかなり高かったけど。ただ今年の先生は自分向き、という話。残りはまあ個性豊か、ということで。


なんか今年は結果はもちろん、いい一年にしたい、という気持ちが強い。いろんな人に頼って、迷惑かけよう、この一年は。愛情をたくさんもらおう。その分、私は勉強しよう。




あと注意事項を書いておかなくては。

最近このブログの読者層の年齢と質が少し下がっているようなので、説明しておくと、このブログは基本的に私と同輩かそれ以上の人のことを思って書いてます。だから私に興味がそもそもない人や、私を好んでいない人が読んだところでなんの生産性もない文章に変わってしまいます。私の書く文章にイライラするタイプの方は読まないことをお勧めしておきます。もちろんそういう人たちにとっては多分価値あるものではあると思うので、私としてみれば読んで成長してほしいとは思っています。でも確かに誰でも読めるものとしてブログの形をとっていますが、理解できなければ苦痛な文章も多いと思うので無理強いはしません。一緒に勉強しよう、もしくは、彼は元気かな、と思う方は楽しく読んでください。ものを書くというのは楽しいです。人間的で、らしい行為です。


一ヶ月坊主にはしませんから、安心してください。


肩の力を抜いて読んでくださいね。