第37問 世評

昨日狂気的な殺人事件が起きた。

それを巡る私の目から見た日本社会と、メディアについて幾つか書残す。

犯人は障害者施設を襲い、重度障害と見られる人間20人近くをナイフで殺害した。殺害後、犯人は出頭した。供述の中で犯人は、「障害者を殺さなくてはいけない」っと言った。

犯人は施設で元々働いていて、解雇されたようだ。解雇された時期に、衆議院議長宛てに障害者の安楽死を認める法案を出すことを求める手紙を書いたそうだ。

メディアは7/27現在の段階で、犯人の心理を憎悪と表現する。殺害された人の名前は明かされておらず、犯人の狂気性がうかがえる、ネットにアップされた犯人が自らについて話す動画をずっと流している。その動画はもう削除されているそうだ。


この事件から何を拾い上げるべきだろうか。

今の私は次に挙げるようなことを拾い上げた。一つは、日本社会の狂気について論じる力のなさ。もう一つは、障害者に対する日本社会のあり方。


先に述べたが、彼の狂気は「憎悪」としてメディアによって要約された。が、果たしてそれは憎悪なのだろうか。私にはそのイコール関係が成立しないように思う。憎悪とは憎む気持ちであり、憎むとは狂気とは真逆のある種理性的で人間的な発露である。容疑者は供述を聞く限り、障害者を殺したいと思うよりかは、殺さなくてはいけないという思いがどこか強かったのではないかと思ってしまう。私は裁判官ではないし、メディアのキャスターでも編集者でもないから、そこに正しさは求めない。あくまで私の感性が捉えるものとして、そうしたものを感じる。だから共感覚とも断言できるようなその感覚を無視した、断定的なメディアの「憎悪」という表現には納得できない。むしろ、彼らが二文字で、要約しようとする必死さが要素の多く欠落した報道の脆弱さを際立てるようで悲しい。狂気というものをきちんと考えてきていない、臭いものに蓋をしてきたという印象を受けざるをえない。


もう一つ、日本の障害者のあり方について。障害者がなぜまとめて殺されるなんてことがありうるのだろうか。そんなこと、障害者が一緒にいなくては成立しない。つまりそういうことなんだ。彼らは名前も明かされない。

名前を明かすことを求められていないからだ。確かに容疑者のいうように、「ゴールのなさ」は普遍的なもので、彼の心の闇以上の闇がそこにはあると思う。金を払えば、死ぬまで障害者と会う必要がない、面倒をみる必要がない、これはある種の殺人とも言えるとはおもわまいか。非常に感覚的な話をしているから、共感を得られないのは承知の上だが、どこか我々の良心に問いかけるような問題がそこに横たわるのを感じないか。


きっとメディアにおいて、口火を切ることは非常に困難だろう。しかしそれを飛び越えてきちんと論じることができる人こそ、批評家、なのだろう。

第36問 二面性の統合

昨日、今日と実感する自分の変化について少し書いておく。

今まで私という人間について、私自身違和感を感じていた部分がある。それは自分に対する自分と他人に対する自分が明らかに別のものであったということである。

素直に告白すれば、人前での自分と、自分だけの自分にはかなり大きくな断絶があった。「監視者」が自分だけになるとどうも力が漲らない、人前だと頑張れる、みたいなところがあった。人前では少なくとも頑張らなくてはいけないみたいな、エネルギーをなんとか搾り取ろうとする生き方が自分のセオリーであったように思う。

昨日今日と、その二つの自分が緩やかだが統合が進んでいるような気がする。自分を他人とするようになったのか、自分が自分の監視者たるものに変容したのか、そのどちらかはわからない。ただ、真の意味での「自立」を感じる瞬間みたいなのがあったのは事実で、その鮮烈が今もなお私を切り裂いている。肩の荷が下りたようなそんな気持ちだ。

明日の自分が再び項垂れていても、これを読んでほしい。感覚は必ずこの文章に残されているはずだ。

なんだろう、この気持ちは強烈な源となる、そんな確信で今の私はいっぱいなのだ。

第35問 当たり前のこと

一学期ももう終わりに近づいている。

近頃の夕焼けを私は見ていない。去年も今年も太陽が橙色になって、その日最後の輝きを見せるその瞬間を見ていない。

筆を動かし、頭を巡らしている間に真上にあった太陽はいつの間にか姿を隠す。

どうにも自分の気が狂いそうになる瞬間はそうした瞬間だと思う。当然を再度自覚する瞬間はとても鋭くて、ヤワな私の心臓を見事に切り裂いていくのだ。

太陽は普遍そのもので、その輝きもまた普遍である。

人間は普遍に欠ける。何かあれば考えをかえ、常に食い違う自分を連続させて生きる。変わらないことは人間にとって遠ざけるべきことなのか。愛するべきことなのか。

昨日会った友達の心の変化というのは手に取るように分かる。他人が自分をどのように思うのかは、ある程度見て考えれば分かるようなものだ。

その逆で長い間会わない友達が変わらないとき、私はその友達を自分の友達でよかったと強く思う。変わらないとは本当に変わらないことではなくて、また寄りかかれることなのである。

これを読む人には私はあたかも選ぶ側としての傲慢さを感じ取るだろうが、人間は引き合う生き物ということは考えてやってもいい。同じ調を持つものは不思議と惹かれあい、そうでないものは近寄っても不思議と弾き合う。異なる調が重なり、不協和音を奏でても演奏する私もそれを遠くから聞く他人も面白いとはなかなか思えない。

新しいことはとても大切だったが、もう探る時期なのである。そこで垣間見える心が幼かったり、皺のない丸みを帯びた心臓だったらそれだけで融けることは難しくなる。

他人から見れば私はそこまで貴重なものでないものであることは分かる。私にとって遠い他人が貴重でないように。

心臓を掌で覆うことは困難を伴う。直に心臓に触れれば、生ぬるい、赤い鮮血が掌にこびりつく。血の匂いを嗅ぎ、吐くだろう。

触れなければ何もない。それが普通の生き方で、「自立」するということなんだろう。

考えない葦が立っていたところで、私は何の興味も惹かれない。




第34問 倫理の濫用

舛添氏の件について書きたくなったので書きたいと思う。

率直に言って舛添氏をやめさせることは何の意義もないと思う。彼の振る舞いについて道義的責任が強く問われているが、私はこのメディアの姿勢には疑問しか浮かばないし、呆れかえっている。ご存知の通り舛添氏は汚職でやめた猪瀬氏の後釜であり、その舛添氏さえも汚職で辞めるのは正直下手なギャグよりもつまらない。どうやらメディアを始め一部の国民は、【舛添氏をやめさせること】に責任感を感じているようが、政治とは何か、参政とは何かということが全く分かっていないようである。よく嫌韓の話で、韓国の大統領がやめた後は牢屋に入るか自殺するしかないとかいう話があるが、それと何ら変わらないのではないだろうか。人々は韓国の政治の頽廃を笑うが、日本の政治も全く同様に頽廃している。安倍政権になってやっと政権寿命が『長期化』したが、その前までは一年に一回総理が変わっていたのだ。それと全く同じ状況が都政に顕在化したのである。

これは都民だけの問題ではないのではなかろうか。日本の国民主体に政治を運営する機能が失われているということではないのか。国民は政治の客体であることが今では当然とされるが、そういう態度では「選挙権の年齢引き下げ」なぞ議論したところで何の益もない。いつまでも僕は私は関係ない、政治は難しいなどと言ってる限り我々はこの頽廃した政治から、生活から脱することはできないのではないだろうか。

メディアも多角化する中で品の低下が著しい。ネットのメディアが締め出された云々の話もあったがそれは仕方ない側面も多い。

http://m.huffpost.com/jp/entry/10448830

私はこの記事を読んで、いろいろな面でがっかりした。あなたもこの記事を読んでがっかりを感じてくれればありがたい。

この一連の騒動を経て、いつまでも国民が健全であるという幻想を捨てられない限り、我々の満足する政治は永遠に訪れないだろう。


道義的責任、言葉に強い重みがある。が、果たして我々は道義を他人に問い質せるほど道義に寄り添って生きているのか。舛添氏を「人間的に信じられない」と言っていたコメンテーターがいたけれど、果たしてその人は人間的とはどういうことか自らに問いただしたことはあるのだろうか。

普段見向きもせず踏みつける倫理をこういう場合にだけもちだそうとする人間は、不信である。倫理や徳の本質は、そうした怠惰に対してこの上なく薄情であることはまぎれもない事実であろう。

第33問 世評

多くを語れるほど知識の貯金はありふれていないから、雑感を述べる。

http://m.huffpost.com/jp/entry/10420048?ncid=fcbklnkjphpmg00000001

このニュースに限ったことではないけれど、幼稚園が近くにできるなんて明るくていいニュースじゃないかと私なんかは思う。昼に子供達の笑い声が聞こえてくるなんて素敵じゃないか。気を使って笑うのではない、心からの笑いなんてのは中々大人の世界では少ないし、少ないからこそそういうものを人々は日々欲するわけである。

逆にそういったものをままに捉えられないこころの遊びの無さがますます露見するようになっている気がする。子供を嫌がる感覚が今じゃ当たり前となっているけど、かわいそうにしか思えない。自分の内面の狂気即ち一般に言われる繊細さをアピールすることは、私にとっては恥ずかしいものだ。人の言葉を借りれば自分の不快にまるで価値があるように、それを人に見せつける。不快に思ってるということを見せつけることは実は何の価値もない。人間的幼さを表現する行為に過ぎない。くわえてその不快を束にして正当なものにさせようとしても全く無駄である。そんなに嫌なら顔を見せてテレビの前で賛同を求めれば良い。大抵こういうニュースの時、そういうやつらは出てこない。自分が恥ずかしいことが分かっているからだ。

前に書いたかもしれないけれど、匿名の時にでる本性ほど醜いものはない。性悪説とでも無知は言うだろうが、もはやそれでもない。何故ならそういった人間は悔い改めるつもりはないからだ。

厳しいことを書くようだが、弱者に手を差し伸べはしなくとも、共存することができないようでは、人生どんなに長くとも、その人には短いぐらい勉強することが多いだろう。

第32問 自己貫徹性

最近思うのは、自分が1年前、2年前の自分と同じなのかということである。

すっかり自分は自分でなくなっているし、自分はしっかり自分のままである。

周りの環境が自己を決定するという考えには根本的な誤りがあるような気がする。


しかし環境を環境として意識した瞬間に、環境はもはや自己と重なることは事実である。認識自体が我々個人の所産であるからだ。


私は他人から見ればかなり分類に苦労するタイプ、だと思う。

第31問 責任の所在 判断の拠所


浪人生として生きる中で、非浪人生即ち高校生大学生大人が涎を垂らして待ち構えているトピックがあったので今回はそのことを書きたい。

友達が増えていく中、友達の友達の不幸というか、挫折をこのところ度々と聞く。それは同じ人物についてのこともあるし、または別の輩のことが話させることがある。とはいえ、我々の話題として挫折している人間が幾度となく取り上げられることは大きく論じる価値があるだろう。それは簡単に言えば、我々は自己を挫折せずに努力しているという甘い認定をしているという事実があるということの告白である。この甘さは認めなくてはならないし、なくてはならないものである。というのもそれは我々が浪人生だからというわけではなくて、受験生としてそれは昨年も実は必要とされたものであるということである。今熟と感じるに、受験という関門には何らかの互助が必要である。皆が教室で脂汗をかくような状況は一にも二にもあってはいけない。彼らは受験生である前に学生であり、若さである。人間と人間の交渉を留めて得るものは何もない。自傷的孤独と虚無的敵意、この二つしかない。このことには大学生となった諸君も深くうなづいてくれるのではあるまいか。
そんな互助が欠けると、挫折は簡単に訪れる。今日挫折と言われるものは、私は助けがない、ということとほぼ同義だと思う。個人主義が声を荒げる分、今は個人個人に結果の責任が追及されている。たとえその個人が個人主義を望むことがなくとも、その一律凡庸な規則はあてはめられてしまうのである。人間は互助を切ることで楽をせんとしている。挫折はそして、助けのない人間に因果応報などと謳われて降りかかるのである。
さて私が今日昨日聞く挫折は以下の通りである。私の友達のAと同窓生のXという青年がα大学に入学したがどうも気風が合わず、早々に休学して予備校に入った。しかしながらその予備校も気が乗らず不登校になり、高校時代の友人皆と連絡を断ち切って、励ましのラインを送ろうものの既読もつかず心配もやまない、といったところだ。
私が挫折していると言ったのにはすなわちこの訳で、挫折が正しく現在進行形で起こっているからである。皆が楽しみにしている話題を提供できたようで大変満足である。
こうしたことがなぜ起こるのか。もちろん多元的であることは言うまでもないが、大事なのは何が起こったかと科学的に解釈しようとすることではない。人間を理解しようとするとき、人間から強く発される言葉感情行動はそれに向き合うに大いに値する宝である。我々は人間に触れ合うたびにその具体性に着眼し、法則化を避けなくてはならない。そのためにもタイムラインなどのように、一過性のある情報のアウトラインの収集をするような態度は辞め、一つの長編小説と向き合うかのように人間に向き合わなくてはならないのだ。
私が名も知らぬX君の作用を吟味するに思うことは、彼が責任の所在に困っていることが大きいと思う。簡単な話、運命の不条理と、因果関係に持ち込もうとする自らの姿勢が根本的にくいちがうことに何もできずにいるということである。もちろん無力感だとかそういうものが答えとされるものだが、そうした答えにX君が彼である必要はないのである。
そして彼には自分がなぜそういう決断をしたのかということが判然としていないはずである。一時の感情を後悔しているだろう。そうした感情の大切さに気づかず、冷たい誰かの言った自己責任という言葉に蝕まれている。こうして私が彼と彼の心を推定することは私の言及する具体性とはかけ離れたものである。しかしながら、心への接近を矛盾を建前に怠ることは許させることはない。心への接近は絶対的な価値を持つ。それは心がその持ち主にとってかけがえの無いものであることが証明する。
誰が彼に冷たくするのだろう。周りの皆は彼を気遣い、メールをし、話しかけているのに。親は彼の意思を目一杯尊重しているのに。社会である。社会と言われる誰もいない空間である。今社会と言われる社会に、我々日本人は誰も入りたがらない。入ったらそのままいなくてはならない。早く出たいと思う。そういう空間である。誰もいない空間に我々は"one of them"として飛ばされてしまう。彼の心に接近するのは私たち個人の心なのに、彼には社会が接近するようにしか見えない。

こうした構造は様々な場合に当てはまる。
私たちは友達を社会の一部として捉え、接している面がなかろうか。彼に、彼女にこのことを言ってはいけない。いったら社会に弱みを握られる。
不信とは私たちが早急に解決しなくてはならない大きな問題だと思う。個人主義にかまけている時代は我々が意図せずともすぐさま壊れていくだろう。