第40問 ゲーム

今回書かれる文章は全てが嘘である。虚言である。私のつく嘘に、今日はお付き合い頂きたい。


朝。私はいつも通り自分の部屋の布団の上で目を覚ました。台風一過の朝。気圧の変化はあったはずだけれど、何故か私の頭や体調はなんら変わりなくかえって、その晴れ間に心地よさ居心地の良さを感じた。

かつて消極的に自分の部屋を獲得した自分だったが、今日私はそれを積極的に獲得できた。つまり、私は自分の部屋を自分以外の人のものではない部屋というよりむしろ自分が暮らす部屋としての部屋をとうとう獲得したということだった。晴れ間が私をそうさせたのか、私には分からない。ただ空になった頭が、少し考えることをやめた頭の余白にそうした実感、充足感が隙間を埋めるように生まれたのだった。

私はうるさい朝が嫌いだ。静かな朝が好きだ。だから基本的にはテレビをつけたいと思わない。昔はなんとも思わなかったけれど、朝とテレビの相性はあまり良くないと思うのである。朝はラジオと相性がよい。一人のパーソナリティの声だけで充分だ。ボサノヴァがかかればその日はいい日になる。たったそれだけで。

寝巻きを着替えるか、一階に下りてご飯を食べるか。私は残念ながら一人暮らしではないから、うるさい朝は拭えない。仕方ないけれど、うるさい方に向かって降りてゆく。

冷蔵庫を開けてみるけれど、食べたいものも見つからない。ヨーグルトが2,3個あるけれど、今はいいや。と思う。お茶をガラスのコップに注いで飲んだ。朝の私の胃に合う食べ物はこの世にない気がする。2,3年前まで飲んでいた緑色のあの乳酸菌の飲み物だけが私の朝に当てはまる気がして、今の考えを取り消した。結局食べ物を入れないといけないという義務感で、昨日親が買ってきて手をつけなかった焼き鳥をレンジで温めた。朝から焼き鳥はキツいとは思わなかった。なんとなしに食べてみたいような気がしたから、あっためてやった。

出来上がりの合図がなって、私は皿を取り出した。焼き鳥はスーパーで買ったものらしいけれど、炭焼きだし、肉の繊維もしっかりしていて美味しい。いつもは箸で串から外して食べるんだけれど、今日の私はそのまま串にかぶりついていた。肉がしっかりしてるからこの食べ方でも肉がほぐれないし、むしろ焼き鳥を本来的に味わっている気がして楽しい気持ちになった。

4本食べて食事を終えた。終えたことにした。コーヒーをカップに注いで飲んだ。何故かコーヒーの匂いや紅茶の匂いは、私を落ち着かせてくる。中高6年間ほぼ毎日私は朝暖かい紅茶を飲んでいた。喫茶の習慣というほどでもないけれど、飲んでいた。こう思うと、私は飲み物が好きなのかなと思う。こんな日本語はないかもしれないけれど、飲み物が好きだ。水も緑茶も、牛乳もコーヒーも紅茶も、オレンジジュースもリンゴジュースも好きだ。逆に言えば、食べ物に近い飲み物は邪道な気がして好まない。果肉たっぷりとか、スイーツみたいなのとか、飲み物としては享受しない。あくまで、そういうのはそういうものとして具体的に楽しむ。だから私が「ダークモカチップフラペチーノ」が好きというのは、飲み物である「ダークモカチップフラペチーノ」が好きなのではなく、あくまで「ダークモカチップフラペチーノ」がダークモカチップフラペチーノとして好きなのだ。

そういえば私はタバコの匂いが好きだ。好きな時代、嫌いな時代を繰り返して今は好きな時代である。タバコを嫌う友達が多くて、その反動かもしれない。別に吸おうとは思わないけれど、タバコ嫌い運動に賛同しようとも思えなくて、宙ぶらりんでタバコというものを捉えている。友達がタバコを吸う姿はかっこいいとは思わないが、自分がタバコを吸う姿を想像するとかっこいいと思う。そういう捉え方だ、最近は。

ふと窓を覗くと雨が強く降っている。困った。そういえばケータイをいじってもう30分近く経っている。閉じて勉強を再開しようか。

第39問 一般とのズレ

変人タイプの友達と話す時のことである。

そういう時私たちはいかにして馬鹿げた事を話すかということに躍起になって、どうしようもない議論をする。もはやそれは議論ではなく、井戸端会議とか巷説にすらもならないような、本当にどうしようもない話をするのである。

題目とは関係ない話だが、最近facebookで大学に通っている友達の投稿を見ても、あまり感動しなくなってしまった。魅力は相変わらず感じるし、去年受かっていればという後悔は未だ健在なのだが、彼らの投稿に対し、これは「誰の焼き直しなのか」ということを考えてしまうようになった。別にクリエイティブな活動に目覚めたとかそういうのではなく、例えば友達と並んで撮った写真を見ても、彼や彼女の本質を探ってきた自分とすれば、その友達に羅列する人々の兌換性にうんざりしてしまうのだ。けれども、皆は私を浪人生だと思って蔑ろにする目で見てくるわけで、私は彼らが望む通りいいねのボタンを押すのである。

別に今話したいのは、高校時代は最高だとかそういう話ではないのだ。もはや高校時代も精査の対象であるのだ。他者の経験の行き過ぎた相対化なのである。これは一方向には済まない。自分の記憶や想いすらもどこか相対化されてしまう。だから「またあいつは胡座をかいて人を批判する」と私を批判する人は全く見当違いであることをここで断っておく。

一般的な感覚というのは難しい言葉だ。これは「共感覚」を含めば、「常識」も含む。「共通の理想」も含む。一般的であるというのは本当に難しいことだなとつくづく思う。でも尚更、奇天烈であることも難しいのである。


最近気になったネットニュース。

http://m.huffpost.com/jp/entry/11637776?ncid=fcbklnkjphpmg00000001

感性的な話をすれば、強烈な記事だけれど、その分どこか読者のこちらは冷めてしまうところがある。核心を突いていて、現実世界に対する高度な解釈を必要とするこういう意見は、今の社会においては共感を煽れない。せいぜい立派だな程度で終わってしまって、目的は達成できない。ズレがあるのだ、本当に正しいものと今の社会が必要とするものの間には。今の社会は昔の社会と何ら変わらず強力な同調圧力を何者かによりかけられている。同調圧力は英語で"peer pressure"というらしい。それはどうでもいいけれど、何となく正しいものが、その圧力で歪になっているなとは感じてしまう。なんかまた同じことを言っている気がするなあ。




明日には忘れてしまうようなことを並べてしまった。夏の終わり。貫徹性がぼやけてしまったかな。でも有意義な夏だった。毎日に意味を感じた。何もしない日も何日もあったけれど、それでも頭を空っぽにしてやれるようになった自分は本当に成長したと思う。自分の肯定が出来るようになってきたことは大きな躍進だと思う。そんな中で頭のいい友達たちと話していけば、自分は本当に唯一無二なんだなと改めて感じるのである。

大学生活は楽しみだけれど怖くもある。自分が自分でなくなるような日々が待っているような気がする。今日霞んだように見える貫徹性が、そうした時に煌めくように私は日々私の暖炉に火を焚べる。臥薪嘗胆。


優しい読みやすい文章も書いてやりたい。

大義名分を忘れて、娯楽にもなれるような文章をかけるようになることは自分にとって財産になるかもしれない。



第38問 保守化

日本を含む世界は、今日ますます保守化へと歩みを進めている。

旧来的な政治哲学の限界が訪れているように感じる。エリートの感覚と中産階級の感覚とがずれ、エリートの政治哲学は無力となり、国家に「経営」の理念が浸透しようとしている。平和を尊重しようとする元首はその理念の尊大さは正しい評価を受けず、成果の有無で裁かれようとしている。

ヒロシマを訪れる」ことがどれほど素晴らしいことだったのか、もし再び戦争が我々の元を襲った場合我々は痛感することになるだろう。

別にいまのあり方が戦争につながるとか、そういうことを言いたいわけじゃない。ただ、人間として理性的に現代を噛み締め、ポスト現代を見据える必要がある。自分のことしか考えなくなる現代において、極めて人間らしい出来事としてヒロシマ訪問はあった。

我々は因果で現在の混沌を語ろうとするが、もはやその因は多元的過ぎて完全な判明は到底かなわないだろう。判明できた場合でも、その責任は何かに押し付けることは出来ないだろう。だから我々は我々を治める上の力に反発し、協調から退くのだろう。

本当に我々にグローバリズムは相応しいのか。グローバリズムに耐えられるほどの知能が我々にあるのか。

その答えが否だから、今こうなってしまっているのだろう。

第37問 世評

昨日狂気的な殺人事件が起きた。

それを巡る私の目から見た日本社会と、メディアについて幾つか書残す。

犯人は障害者施設を襲い、重度障害と見られる人間20人近くをナイフで殺害した。殺害後、犯人は出頭した。供述の中で犯人は、「障害者を殺さなくてはいけない」っと言った。

犯人は施設で元々働いていて、解雇されたようだ。解雇された時期に、衆議院議長宛てに障害者の安楽死を認める法案を出すことを求める手紙を書いたそうだ。

メディアは7/27現在の段階で、犯人の心理を憎悪と表現する。殺害された人の名前は明かされておらず、犯人の狂気性がうかがえる、ネットにアップされた犯人が自らについて話す動画をずっと流している。その動画はもう削除されているそうだ。


この事件から何を拾い上げるべきだろうか。

今の私は次に挙げるようなことを拾い上げた。一つは、日本社会の狂気について論じる力のなさ。もう一つは、障害者に対する日本社会のあり方。


先に述べたが、彼の狂気は「憎悪」としてメディアによって要約された。が、果たしてそれは憎悪なのだろうか。私にはそのイコール関係が成立しないように思う。憎悪とは憎む気持ちであり、憎むとは狂気とは真逆のある種理性的で人間的な発露である。容疑者は供述を聞く限り、障害者を殺したいと思うよりかは、殺さなくてはいけないという思いがどこか強かったのではないかと思ってしまう。私は裁判官ではないし、メディアのキャスターでも編集者でもないから、そこに正しさは求めない。あくまで私の感性が捉えるものとして、そうしたものを感じる。だから共感覚とも断言できるようなその感覚を無視した、断定的なメディアの「憎悪」という表現には納得できない。むしろ、彼らが二文字で、要約しようとする必死さが要素の多く欠落した報道の脆弱さを際立てるようで悲しい。狂気というものをきちんと考えてきていない、臭いものに蓋をしてきたという印象を受けざるをえない。


もう一つ、日本の障害者のあり方について。障害者がなぜまとめて殺されるなんてことがありうるのだろうか。そんなこと、障害者が一緒にいなくては成立しない。つまりそういうことなんだ。彼らは名前も明かされない。

名前を明かすことを求められていないからだ。確かに容疑者のいうように、「ゴールのなさ」は普遍的なもので、彼の心の闇以上の闇がそこにはあると思う。金を払えば、死ぬまで障害者と会う必要がない、面倒をみる必要がない、これはある種の殺人とも言えるとはおもわまいか。非常に感覚的な話をしているから、共感を得られないのは承知の上だが、どこか我々の良心に問いかけるような問題がそこに横たわるのを感じないか。


きっとメディアにおいて、口火を切ることは非常に困難だろう。しかしそれを飛び越えてきちんと論じることができる人こそ、批評家、なのだろう。

第36問 二面性の統合

昨日、今日と実感する自分の変化について少し書いておく。

今まで私という人間について、私自身違和感を感じていた部分がある。それは自分に対する自分と他人に対する自分が明らかに別のものであったということである。

素直に告白すれば、人前での自分と、自分だけの自分にはかなり大きくな断絶があった。「監視者」が自分だけになるとどうも力が漲らない、人前だと頑張れる、みたいなところがあった。人前では少なくとも頑張らなくてはいけないみたいな、エネルギーをなんとか搾り取ろうとする生き方が自分のセオリーであったように思う。

昨日今日と、その二つの自分が緩やかだが統合が進んでいるような気がする。自分を他人とするようになったのか、自分が自分の監視者たるものに変容したのか、そのどちらかはわからない。ただ、真の意味での「自立」を感じる瞬間みたいなのがあったのは事実で、その鮮烈が今もなお私を切り裂いている。肩の荷が下りたようなそんな気持ちだ。

明日の自分が再び項垂れていても、これを読んでほしい。感覚は必ずこの文章に残されているはずだ。

なんだろう、この気持ちは強烈な源となる、そんな確信で今の私はいっぱいなのだ。

第35問 当たり前のこと

一学期ももう終わりに近づいている。

近頃の夕焼けを私は見ていない。去年も今年も太陽が橙色になって、その日最後の輝きを見せるその瞬間を見ていない。

筆を動かし、頭を巡らしている間に真上にあった太陽はいつの間にか姿を隠す。

どうにも自分の気が狂いそうになる瞬間はそうした瞬間だと思う。当然を再度自覚する瞬間はとても鋭くて、ヤワな私の心臓を見事に切り裂いていくのだ。

太陽は普遍そのもので、その輝きもまた普遍である。

人間は普遍に欠ける。何かあれば考えをかえ、常に食い違う自分を連続させて生きる。変わらないことは人間にとって遠ざけるべきことなのか。愛するべきことなのか。

昨日会った友達の心の変化というのは手に取るように分かる。他人が自分をどのように思うのかは、ある程度見て考えれば分かるようなものだ。

その逆で長い間会わない友達が変わらないとき、私はその友達を自分の友達でよかったと強く思う。変わらないとは本当に変わらないことではなくて、また寄りかかれることなのである。

これを読む人には私はあたかも選ぶ側としての傲慢さを感じ取るだろうが、人間は引き合う生き物ということは考えてやってもいい。同じ調を持つものは不思議と惹かれあい、そうでないものは近寄っても不思議と弾き合う。異なる調が重なり、不協和音を奏でても演奏する私もそれを遠くから聞く他人も面白いとはなかなか思えない。

新しいことはとても大切だったが、もう探る時期なのである。そこで垣間見える心が幼かったり、皺のない丸みを帯びた心臓だったらそれだけで融けることは難しくなる。

他人から見れば私はそこまで貴重なものでないものであることは分かる。私にとって遠い他人が貴重でないように。

心臓を掌で覆うことは困難を伴う。直に心臓に触れれば、生ぬるい、赤い鮮血が掌にこびりつく。血の匂いを嗅ぎ、吐くだろう。

触れなければ何もない。それが普通の生き方で、「自立」するということなんだろう。

考えない葦が立っていたところで、私は何の興味も惹かれない。




第34問 倫理の濫用

舛添氏の件について書きたくなったので書きたいと思う。

率直に言って舛添氏をやめさせることは何の意義もないと思う。彼の振る舞いについて道義的責任が強く問われているが、私はこのメディアの姿勢には疑問しか浮かばないし、呆れかえっている。ご存知の通り舛添氏は汚職でやめた猪瀬氏の後釜であり、その舛添氏さえも汚職で辞めるのは正直下手なギャグよりもつまらない。どうやらメディアを始め一部の国民は、【舛添氏をやめさせること】に責任感を感じているようが、政治とは何か、参政とは何かということが全く分かっていないようである。よく嫌韓の話で、韓国の大統領がやめた後は牢屋に入るか自殺するしかないとかいう話があるが、それと何ら変わらないのではないだろうか。人々は韓国の政治の頽廃を笑うが、日本の政治も全く同様に頽廃している。安倍政権になってやっと政権寿命が『長期化』したが、その前までは一年に一回総理が変わっていたのだ。それと全く同じ状況が都政に顕在化したのである。

これは都民だけの問題ではないのではなかろうか。日本の国民主体に政治を運営する機能が失われているということではないのか。国民は政治の客体であることが今では当然とされるが、そういう態度では「選挙権の年齢引き下げ」なぞ議論したところで何の益もない。いつまでも僕は私は関係ない、政治は難しいなどと言ってる限り我々はこの頽廃した政治から、生活から脱することはできないのではないだろうか。

メディアも多角化する中で品の低下が著しい。ネットのメディアが締め出された云々の話もあったがそれは仕方ない側面も多い。

http://m.huffpost.com/jp/entry/10448830

私はこの記事を読んで、いろいろな面でがっかりした。あなたもこの記事を読んでがっかりを感じてくれればありがたい。

この一連の騒動を経て、いつまでも国民が健全であるという幻想を捨てられない限り、我々の満足する政治は永遠に訪れないだろう。


道義的責任、言葉に強い重みがある。が、果たして我々は道義を他人に問い質せるほど道義に寄り添って生きているのか。舛添氏を「人間的に信じられない」と言っていたコメンテーターがいたけれど、果たしてその人は人間的とはどういうことか自らに問いただしたことはあるのだろうか。

普段見向きもせず踏みつける倫理をこういう場合にだけもちだそうとする人間は、不信である。倫理や徳の本質は、そうした怠惰に対してこの上なく薄情であることはまぎれもない事実であろう。