第53問 過渡期

今の私ははっきり言って過渡期だ。爆発的に自分の中の何かが変わろうとしているのを感じる。獰猛な何かが蠢いている。

人間に対する拒絶感がバカになっている感じである。器の口を無理やり広げられている。色んなものが自分の体の中に入り込んでくる。漠然とした寂しさが人肌を求めている。

今日は体調が悪くて、一日中自分を落ち着いて眺めている。勉強しなくてはいけない、という焦りが私の心の時計をとても早めている。焦ると疲れる。無駄だな、とか効率が悪い、とかそんな言葉が1日に何回も出てくる。うんざりだ。

それにしてもさみしい。なんなんだろうか、この寂しさは。ラインの通知がたくさん溜まるようになった。昔はそんな人を見ると凄いなあと思っていたけれど、今はなんだか疲れる。どれほど親しい奴でもなぜか満たされない。どれほど素敵な女の子でも満たされない。つまりはきちんと会って、言葉を交わして目を見ないと、何も私の心の中の器には入ってこないということだ。

ある人について考えている。その人は自分にとってなんなんだろう。最近殊更に思うことは、ある人間に対して友達だとか、親友だとか、そういうレッテル貼りをするのはとても心が疲れるということだ。A君は私にとってA君であり、BさんはBさんである。ただ一緒に時間を過ごしたい、そんな気持ちなんだと思う。心を通わせて、安心する時間が欲しい。自分は若いけれど、ガツガツ競り合う若さはない気がする。ゆっくりじっくり太く湧き上がるなにがしかの力で生きているのだと感じる。

自由なはずなのにさみしい。そんなことを感じる時期だ。それは一緒に眠る女が欲しいのか、夜まで語り合う男に会いたいのか全く峻別がつかない。

つい最近まで自分のことを分析しきっていたような気がしていたが、どうも自分自身すら私はきちんと掴み取れないようである。

無常。

第52問 個別具体への諦念

大学生活が始まり、殊更に感じるのは人間というのは多様であるように見えるということだ。本当に千差万別というのは文字通りで、真実なように感じられる。ただ高校時代の彼や彼らが時に昔の面影を残し、時に踏み潰すのをこの目で耳で感じる時、その多様性という言葉の如何に空虚なことかを感じる訳である。役職や学ぶことが多く増え、人に様々な要素が重なることでそれは多様と呼ばれるのかもしれない。しかしながら当の本人たちはその生態系は専ら自覚していない様子である。つまり、あらゆる共同体において彼らが何らかの立ち位置を争って奪い合って、見せつけ合っていることは事実で、自分の多様ぶりの発露なんてものは彼らの頭の片隅にもないのである。しかし大学は色々な人がいる、なんていうのがありきたりの言葉として溢れかえっている。では、生態系の多様性は愚かな人間には感じ取れないほど微細で美しい、精緻なものなのだろうか。私には到底そうは思われない。人間というものを彼らが分かっていれば、その言葉には一瞥の価値があるやもしれないが、私の見る限り私を含め、人間という観念の正体がわからないからこそ、多様性という煙の中に言葉を、人間を隠すのだと思う。諦めの中に、諦めが故に多様性という言葉を我々が好んで使うことを素直に認めなくてはいけない。ある種のダンディズムとして、挨拶として、合図として、多様性は用いられる時に、その諦めは裏側で輝く。しかし、多すぎる人間に口ずさまれる時、どうしようもなく素敵に吹き抜ける風は失われてしまうのだ。

第51問 旅を終えて

一人旅を終えた。長いようで本当にあっという間だった。

分かったことがある。それはある程度自分は成長してきているということである。幹が確実に太くなったのだという実感がした。浪人という一年がくれた、私へのプレゼントだろう。

漫然に、何となくに、じゃなくて本源的に感じた。

ゲストハウスに訪れて、色々な人と知り合い、話した。町に親しみ、巡り歩き、たくさんのものを食べた。

旅人という身分はいいもんで、どこへ行っても歓迎される。幸せだった。

東京は改めて冷めているなあと思った。都心は物が、者が集まる。これは奢りに繋がってしまうのだろう。至上の感覚というか。ないモノがない、という誤った感覚が脳みそにこびりついているんだと感じる。

旅先の人々はとても謙虚だった。有り様をそのままに受け入れ、知らないことは知らない有様だった。振る舞いには純粋さが溢れ、それは言葉を通じて、笑顔を通じて、目を通じて、私のような旅人を受け入れた。

深呼吸が奥まで出来る、といって分かるだろうか。空気の汚さがひっかからない感じなのだ。ありきたりのようだ。夜の街中に溢れていたおじさんたちの陽気な笑顔と笑い声は、本当に幸せだった。大人をもう一度信じられるかもしれない、そう思えた。東京の下を向いた、早歩きの大人は可哀想だ。あまりに可哀想だ。

旅の終わりは寂しさで溢れる。でも何故かまた旅はやってくるという喜びは、私の背中をトンと軽く押してくれた気がする。

私の旅と交わった人々、私に旅を教えてくれた人々に心から感謝しています。

終わったら読みたい本

谷崎潤一郎 春琴抄

島崎藤村 夜明け前

安部公房 砂の女

三島由紀夫 豊饒の海

夏目漱石 明暗

志賀直哉 暗夜行路

二葉亭四迷 浮雲

坪内逍遥 小説真髄

谷崎潤一郎 細雪

武田泰淳 富士

中上健次 枯木灘

大江健三郎 レインツリーを聴く女たち

ドストエフスキー 罪と罰

マーガレットミッチェル 風と共に去りぬ

プーシキン 大尉の娘

アーネストヘミングウェイ 老人と海

チャールズデキンズ 大いなる遺産



福田歓一 近代の政治思想

丸山真男 日本の思想

三好行雄 森鴎外夏目漱石

佐々木毅 政治の精神


はあかっこつけた。

こういう自分は死ぬほど嫌いだが、こういう自分は自分から切り離せない。

時に友を失い、友を引き寄せるのだろうな。

醜さを美しさにしていきたいものだ。




第50問 鶏と卵

有名な話。鶏とその卵はいったいどちらが先なのかという命題であるが、似たような話。

12月は1月の前なのか。それとも11月の後なのか。これはとても難しい問題である。

いや最近ひたすらに思うのは、自分は何者なのかということである。本名によって定義されている。ふむ。けれど、名前はイコールじゃないし、そもそも私はそういうことならばイコールを今この世で一番気にくわないと思っている人間である。

例えば、考えてみる。

受験生。決して的を射ることがない正解といった感じである。

男。これは開成高校の人が書きそうな答えだ、そのままの意味で。

息子。うん、やるなといった感じ。俺はこの人と仲良くなれる可能性を少し感じる。OB。胸が苦しい感じで、なんとも言いようがない。誇りも感じさせないような、鋭いというか、縫い針先で刺される、そういうイメージだ。つまり鋭い訳ではない。


自分なりに答え、というかタネがストンと落ちてるからもう書くのがしんどいので、もう書くことがないけれど、私はなんとなく分かったような気がしている。

これは共通項を探すのではなくて、自分を模索する行為自体どういうものなのか、自分を語る上で自分の脳みそに浮かぶのはなんなのか、と漠然と考えるとなんとなく出てくるようなものかもしれない。

最後に受験生としての今の私について少しだけ言っておこう。

最近は模範的受験生なんてのは捨てて、模範的な18歳に近づこうとしている。受験生である前に俺は18歳なんだとようやく気付いた。とはいえ、寒い空気に触れると反射的に筆が動く、といった感じだ。


第49問 共感

最近思った、個人間で一番大切なものである。

音楽も文芸もメールも会話もラインも授業も、共感はかけがえなく大切かもしれない。

共感できればできるほど、その人はいつの間にか大切になってるし、できなければできないほどいつの間にか距離ができてしまう。

不思議なものである。

だから私は孤独な人間には共感というわずかなエッセンスがあればだいぶ変わるのかもしれないと思うのである。

共感されること、これは中々に大切なことになるだろう。でも共感されてもらったら次は、共感することが大事で、好きなアーティストの音楽をじっくりひたひたに聞いてみたりして、心をスロージャムに浸すのだ。

今日の朝日はお気に入りの朝日だった。それぐらい良い朝日だった。

誰かがいつしか言っていた想像って、共感の一つだなと遅れて納得した。

第48問 ノルウェイの森

3ヶ月前ぐらいに書いた書評を捨てたいのでここに書いておく。

ノルウェイの森は現代的な小説として我々にとらえられ、村上春樹は現代的な作家として語られてきた。今日ノルウェイの森を読んだ私には確かに村上春樹の現代性をかんじられた。もしくは、近代性、かもしれない。感じたことを書けば、この文章には人間への密着がないように思う。小説を読む上で私が感じてきた主体の重なりみたいなものがないのである。主人公の「僕」は決して私にはなり得ない。述べられる「僕」の感情はあくまで頭のいい他人が彼を、彼の感情を想像したものであるような気がするのだ。だからある意味で「感情」は分かりやすく、飲み込みやすい。それはわれわれ読者が著者即ち村上春樹の視点を借りるような、そういう体験を得るからである。この文章には素直な吐露がない。たびたび登場人物達は素直であること、正直であることが肝要であると訴える。でも私には直子もレイコも皆目素直であるようには思えない。レイコは何故悉く嘘をつくのだろうか。直子は何故本当の全てを言葉にしないのだろうか。二人とも確かに自分の過去についてはとても素直である。他人であるならば顔をしかめるような辛い過去を、「素直」であるがために何気なしに「僕」に、もしくはわれわれ読者に告白するのである。これは小林緑についても同じことが言えるだろう。(ただし彼女が患者ではないように直子やレイコのようには扱うべきではないのだろう)彼女達は決して今の自分に素直でありえない。これは直子が療養する前、自分の思いをきちんと言葉にできなかった状況が簡潔に彼女達の、ある意味での不誠実さを証明してくれる。もし真に彼女達が今に対しても素直であるならば、村上は我々に彼の思う素直さを訴えているのかもしれない。人間が漠然と他人に抱く不信感を解消する方法として、過去に潔くなり、直子のように不安と感謝を述べることが、非現実的ながらもそれしかない選択肢として示されているのではないかと思う。

一つ私が気持ち悪く感じるところを上げよう。それは作品の美しさを人間の肉体的な性質的な美に委ねようとするところである。あれほどまで人間を交渉させながら、結局は俗的な男女の違い、交わりに完結してしまうのが納得できない。もっと言うならば、肉体の美しさとは結局「モノ」的な美しさなように思えて、人間の葛藤、それも病院に入るまでのあの鋭利な戦いを、柔らかいものに包み込んでしまう。倒錯に思える。