第59問 半生を共に

実はここ何日かの間に悲しい別れがあった。

それが訪れてから私はずっと平気な気がしていた。正確に言えば、あまりにそれが唐突で、脳がその現実を受け入れられていなかったのであろう。何かが麻痺したように、漠然と時間が私の耳の横を流れていたのだと思う。

 

別れとは、犬との別れだった。

あまりにいきなりだった。

ここ一か月いろいろ起こる中で、あの子はあの子なりに暮らしていた。日に日にどこか毛並みが良くなっていくのを感じ、悲しそうな眼をすることがすっかり減っていた。体をひっかく癖も治ってきて、瞳を丸く見開いて、私のことを見つめていた。

数を数えてみれば、自分の人生の半分以上を一緒に過ごしてきていた。

 

初めて家に来た時、とても小さい子犬だった。テレビのスタンドの下の狭い隙間さえも通れてしまうくらい小さかった。家のそこらじゅうで糞や尿をまき散らして、何度も何度もトイレの場所を教えてやったものだった。最初は散歩になんていけなくて、家の中で抱っこしてやって、窓から外の様子をのぞかせてやった。そんな時あの子は、鼻をクンクンと鳴らして、必死で外の世界を知ろうとしていたものだった。

初めて散歩に行くときは、飼い主の私にとっても冒険だった。外は汚いものだらけで、あの子にかみつくような大きな犬には近づけまいと必死になっていた。図書館で山ほどの本を借りてきて、飼い主としてどんなことをしてあげればいいのか一生懸命勉強したものだった。別の犬の飼い主にあった時の挨拶の仕方だとか、リードのひき方はどうだとかそんなことを毎日毎日読んでは、楽しそうに両親に話していたような気がする。

小学校の間は、私の塾に行くのに毎日毎日散歩した。もしかしたらとっくに飽きたルートだったかもしれないけど、私を塾の手前まで見送ってくれたものだった。

中学高校に入って、学校が遠いこともあって、昔のように朝や放課後や散歩に連れていけなくなっていた。家族と一緒に散歩に行くということも、このころからどんどん減っていった。食事の管理を私がしなくなってからみるみる太っていって、自分の知っている子ではないような気がして、ますます面倒を見るのが億劫になっていったような、そんな記憶がある。

とはいえ、たまに散歩へ連れて行ってやると、しっぽをぶんぶんと振って以前の日々を思い出させてくれるかのような、そんな顔で一緒に散歩へ行った。

ここ1か月何度も散歩に連れて行ったけれど、あの子は昔と何ら変わらず楽しそうにあの頃通った道と同じ道を歩くのだった。

自分はこの6、7年ですっかり変わってしまったけれど、あの子と歩く道が何年たっても変わらず、いつも何ら変わらぬように草むらを歩き回り、鼻をかぎまわし、糞と尿をする姿を見ると、なにか細い一筋の線が自分の中にも通ってるようなそんなどこか苦しくてひりひりとした現実に向き合うような気がした。

 

10月の初旬に二人で外にいるときに、大きな満月が見えた。

あの子は、私が立ち止まると、息を合わせるかのように立ち止まった。単に歩き疲れていただけなのかもしれない。でも、私がぼうっと空を見上げているその間、引き綱は少したりとも動かなかった。

家に帰り、犬の脚を洗うとき、どこか優しい気持ちになる。獣のにおいがする犬を抱きしめるときも同じような気持ちになった。洗剤のにおいと獣のにおいが混ざって、どこか安心した。

 

私はあの子と別れてから、何ら変わらず過ごしているつもりだった。

今日ふと、もう使わない銀のボウルを朝何気なく瞳に収めたとき、涙がボロボロとこぼれて止まらなくなった。

 

1人で声も出さずに泣いた。

 

あの子を抱きしめて、顔を私の肩にのせてじっとしているときのことを思い出した。

家に帰ると、私の足に顔をぐりぐりとすりつけて、撫でてほしそうに片目で私のことを眺めることを思い出した。

私の部屋に入ると、窓をひっかいてベランダに出たそうにしていたことを思い出した。

冬の寒い日には、朝日が差し込む私の部屋に入ってきて、二人で遅い朝を一緒に過ごしていたことを思い出した。

私がつらそうにしているときは、静かにそばにやってきて体を摺り寄せてくれたことを思い出した。

 

つらいことがあった次の朝、またいつもどおり毎日が送れていたのは、いつもどおりなあの子が朝を教えてくれたからだったのかもしれない。

 

布団に染み付いた犬のにおいが中々にとれない。

ひっかいた後の扉の傷跡はいまだ残ったままで。

 

あくまで私の人生の欠片に過ぎない。

でもなんだか涙が止まらなくて、ほんとうにそれ以上に言葉にできない。

 

第58問 血

人間は何でできているのかと考えてみると、特に思いつくのは、血と骨と肉だと思う。

怪我をするとき、とりわけ私たちはこのことをよく感じる。普段肌に隠された血や肉や骨が痛み、自分の眼の前に現れるのだ。
先日友達と話した時、自傷行動について語ることがあった。リストカットをするというのはこの肌を己からこそぎ落とす簡単な方法なんだろう。
タバコを吸うときに感じることもこれと似た感覚になる気がする。自分の肺を自分で穢してやっていることに感じる快感である。自分の手で自分の体を痛めつけることに艶めかしい美しさと幸せを感じるのである。


ここ数日自分を苦しめるのは、自分の血のことだ。
自分の血は何でできているのか考えてみると、これはどうしてやっぱり自分の親の血を混ぜて作ったような気になるのである。科学的に考えるとやはりどこかおかしいことを言っているのはわかっているのは自覚しているけれど、どうにもこの考えがまっとうな気がしてならないのである。
私は自分の親がお世辞にも好きではない。
このことが自分の血への異様な悲しさを生み出すのである。
粘り気のある赤い液体が自分の中でドロドロと溶け合っているような気がする。
許せない。逃げられない。

自分の腕や足や顔が親のどこかに似ていると思うと、どうしてもやるせない気持ちになる。自分の体から親と似たにおいがするといやに気持ちになる。

たぶんこれは自分が一生背負っていくことになりうると思うのである。



無常。己の体に結び付く影のようなものである。

 

第57問 肌と嘘

私は法学徒としていくつか法学の基礎たる理論の部分に対して違和感を持っている。最近ホッブズを読むけれど、ホッブズからロックを経てルソーに至る流れの中で一つの基調となるのは、いわゆる「社会契約論」というやつで私はこいつがどうしても1年2年前ぐらいから、不自然な人工物みたいな物のように思えて仕方ない。というのも、自分たち人間が産み落とされたその瞬間から契約を結んでいるような感覚には到底思えなくて、むしろ、そうした理論を採用する社会の必要から仕方なく結ばされているような気がしているのだ。これは勿論一つの論点としてそもそもこの理論の母なる大地が私の住むアジアではなくて、文化を異とするヨーロッパであるというのはあるだろう。そもそも日本においては法意識の観点からしてみても「契約」の考え方みたいなものはないし、双務的関係というよりも片務的関係が日本においては旧来的な部分で大きな部分を占めて来ているというのは数々の思想家たちが明らかにして来ている事実であることは、このブログの読者ならご存知だと思う。その非真実性についてもし気になる人がいるのであれば、きちんと本をベースにして議論したいところである。

さてそういう「契約」の話もそうだけれど、我々の肌になじまない理論はいま世界に溢れてはいないだろうか。感覚的な言葉を用いるなら「脳みそを滑っている感じ」。理性的に正しい”はず”の理論を無理に覚えこまされているような、知覚を通してその真実性の判別がつかないこの感じ。学問の本源的な理由が世界の解明たるならば、それが果たされているのか皆目見当のつかない感じ。

なぜこうした違和感が生じるのだろうか。単純に私の体から産み落とされた理論でないからだろうか。でも言葉として形を持った言説のうちでも、確かに自分の実感覚に淀みなく染み入ってくるものもある。つまり言説の他者性はそれ自体が私との敷居を乗り越えるものであることは間違いのない事実であり、そこにはこの問題は帰結しない。私が直感的に感じるこの差異の生じる理由は、一つにその理論の傲慢さがあると思う。これはその話者たる人間の傲慢さなのか、それとも純然としてその理論に傲慢さが含有されているのかは定かではない。これはある程度学を積み始めた人間が感じる「断定」への違和感のそれと同根なのではないかと疑っているけれど、感覚的に言えば、自分の気持ちに寄り添わずに自分の中に侵入して来ようとしているものへの警戒心なのだと思う。でもこの肌になじむ感覚というのは一重に言葉が背負う宿命なような感じがしている。もし言葉が人間の動物としての社会性を裏付ける根拠になるのであれば、これは必然たる事実である。だが時に「断定」が我々の若さを呼び起こしてくれることはあるし、仲間や師弟での会話ではそうしたものはつまずく石にもならずただの景色になる。

自分の生き様にこれを転化してみると、自分が言葉を紡ぐ時に第一に気をつけているのはそういうことだった。そうしているつもりだった。別に万人に受け止めてほしいからとかそういうのではなくて、自分の言葉をどうしても伝えたい相手がいつも何かしら具体的にいて、そうして人間にほぼオーダーメイドで言葉を紡ぎあげている。その人が抱えて来た経験が言葉からにじみ出て来た時、出てくるのを感じる時、その人にとってこの言葉はそういう意味なんだと理解して自分の言葉との色味の違いを楽しむ。そして相手が「そうした」器たる時、自分の言葉の色を伝え、二人で色の違いを楽しむ。でも結局的には私がそんな風に語り合う相手は、自分と同じように言葉を読んで来て色んな物事を吟味してきた人間になるから、本質的には二人はその重なりを楽しみにしていている。こうした上澄みみたいな楽しみは慣れていかないと味わえない。そういうコミュニケーションを大事にして生きて来た人間にしかできなくて、そういう人間だからこそそういうコミュニケーションを好む。アプリオリな、デカルトが神の存在を解き明かした時のような、結末に行き着く。

そういえばデカルトで思い出したけれど、ヴィーコにこの半年で出会えたことは本当に奇跡だった。というか反合理主義思想総体に出会えたことは本当にかけがえのない財産だった。まあそれはいいや。川端を読もう。中島を読もう。

違和感の根源は外的なものによるというのが大筋の私の意見である。勿論それを内在的な自分の心のせいにして「精神的向上心のないものはばかだ」ということもできるけれど、それが行き着く先は自殺だ。ある程度成熟を経た段階で自身の内面的問題に帰結を求めるのは、その行為の自己完結性に逃げる行為であることはどうしても認めなくてはならないし、自己の社会性を蔑ろにする姿勢は理由の見つからない孤独感を我々にもたらすだろう。勿論反省を自分の行動様式に組み込んでいることがこの議論の前提にあることは、私の仲間と呼ぶことのできる人達だったらきっとわかってくれていると思う。その孤独感は転じて、安直に人肌をくれる恋愛にその解消を求めてしまって、本質的な意味での恋愛、即ち家族に変化しうるという生来的な要素をきちんと孕んでくれている恋愛は手元から離れていってしまうのかもしれない。そういう人間を一人見たことがある。

私は「人生一生勉強」という言葉に踊らされすぎているのかもしれない。

確かなのは生き続けることは分からなくなっていくことだということだ。例外に例外を重ね、その中できちんと他者に向き合って、自分を大切にしていくためには「自分が悪い」だけでは到底足りない。世界の膨張のスピードを理解しなければならないのだろう。私は自分の儚さ、脆さ、ちっぽけさ、不勉強さを感じるからこそ”ひとまず”この考えに行き着く。それこそ海を瞳で収める瞬間に嘘がなくて。肌に嘘がなくて。

第56問 人を愛するということ

色々なことを見聞きしたので、すこし書こうかなと思った。あの人に読んでほしいけれど、今は無理そうか。

人を愛するというのは、どういうことなんだろうか。それは愛し合うということではない。あくまで自己本位な問題として捉えたい。

自分のことを深く理解してくれる、自分のことのように痛みを分かち合い、涙を流したり、喜びをてのひらで手の甲で感じることのできる、してくれる、そういう人間を私たちは愛するのかもしれない。それは同時的に、我々の痛みや喜びをその人に開示することも意味している。

書いているだけで切ないけれど、愛するってのはなんて厄介なことなんだろう。

自分の懐に他人を入れなくてはならない、それだけでもすごく時間がかかるのに、思いが重ならないと自分は強く傷ついてしまう。

そう思うと自分は人を愛したことは一回しかないかなと思う。それはまあ、それでいいんだけど。

あの時に感じた瞳がどれほど自分の脳裏に焼き付いたとしても、相手には何が焼き付いたのか全くわからない。目に入った大きなイヤリングも、透き通るほど白い肌にはひと塗りだけした口紅も全部自分の目にしか写ってない。相手の目に焼き付いたのはなんなんだろう。そして何を思うんだろう。

心の距離が近づくというのは凄いことだ。それだけで本当はノーベル賞を取れるレベルで、芥川賞を取れるレベルで自分の人生にとっては素晴らしいことだ。

二人で歩いた街並みをまた歩くと、その時の記憶がそのままに私たちの脳みそを切り開いてくる。

夜の日本橋も、夕方の九段下も、私にとっては少し大切な空間なのかもしれない。

一人で見た一色の海も、愛だとかそういうの抜きにして色が抜けない。

場所と人間、不可分なのか。

第55問 言葉が流れない

最近のとある政治家のニュース。

ICレコーダーが使われたそうだ。

SNSでの発言も今じゃスクリーンショットに保存されるし、消さないと消えない。

どこかにずっと残ってしまう。

 

これは写真が我々の目に焼き付いた光景と違うものを見せてくるように、我々の脳に焼きつかなかった言葉を無理やり我々の脳にこびりつけていることになる。

 

それでも私は流れるような言葉が好きだし、誰かに保存されると思って言葉を書きたくない、吐きたくない。自由でありたい。本当にそれだけ。

 

好きなだけ道徳を持ち出して、人を叩けばいい。正義を好むなら正義をふりかざせばいいと思う。政治家の質は確かに下がってるし、憂慮しなければいけない状況だと思う。私も賛同する。

 

でも我々が切り取ったシーンは決して我々に向けたものでなく、我々にとって書かれた言葉でも、我々にとって吐かれた言葉でもない。相互性として担保されてない。

 

私は人にはやり直すチャンスがあると思う。やり直せるからこそ感情的になってしまうことや、人を傷つけることは、正す価値が生まれると思う。

 

 

第54問 お前が嫌いだよ

人間にとって大切なものの優劣を考えてみると、一つの区分として人とものとことの三つに大別することができる。
今回はその「こと」に密着して物事を考えたい。
なぜこんなことをいきなり書き始めたかというと、今あるアイドルの結婚発表が物議を醸しているからだ。だから実は今回話したいことはつまるところ女の人生だ。
最近はよく女というものをよく考えている。私は男だから決して女になることはできない。これは本当に興味深いもので、ある意味同じ人間であったとしても女は男とはやはり全く別の生き物でありうるということなのだ。
近年の男女平等を叫ぶ声は、簡単に言えば「男と女は同じ人間なんだから同じものが与えられるべきで、男の優位性はあくまで慣習的なものであり無根拠だ」という立場/言明が貫徹されている。私は自分の性別を抜きにして、この言明は全く正しいものだと思う。
しかしながら実際にこの言明が論理性を保つかと言えばそれは完全にそうであるとはいうことはできない。なぜなら、男女の差異は生物学的に物理的に存在するし、男女平等を理想として教育されてきたものにしかその世界は美しく思えないからだ。
感覚の断絶として、女性の中の内在的な問題がある。つまりひとえに女性を論じたところで、女性の中には男性に付き添って生きていくことを理想にしている人はたくさんいるということだ。こういう女性は私の経験則から言えば、地方で育った人や学歴的に低い人徒たちが保つ傾向ある。これは大きな問題をはらんでいて、女性のうちで学歴のある女性は何かしら、そうした女性たちを見下す傾向にある。イメージで言えば、”unenlighted"みたいなものだろうか。女性の中である種カースト的なものを作り上げ、一義的に立ち遅れていると考えているような匂いがするのだ。
きっとおそらく当の本人たちに突き詰めるとこの考えは決して認められず、むしろそういうことを思いつく私自身の人間性批判へと転化されてしまう。だからこそこうした形で書くのだけれど、私は自分のそうした醜い考え方へのセンサーは間違っているとは思えないし、直感的に感じる論理の不自然さや脆弱性は隠すことはできない。
 
さてさて本題に戻ると、お金をつぎ込んでくれていたファンの前で結婚を発表したアイドルさん。これがボコボコにネットで叩かれている。
女性の生き様。これは本当に語っても語り尽くすことはなくて、上で述べるだけでもまだまだまだまだ足りない深遠さを持っている。だから一側面からの批判や批評は本当に切り取れる世界が狭いということを肝に命じたい。
でも深遠だからこそ、一つわかるのは、それは自由でいいということじゃないだろうか。
アイドルという職業、特に彼女のいたところでは恋愛は認められていない、というのはあったかもしれない。
でも、実際に、冷静に考えてみて、そういうのはおかしいし、本当は看板に過ぎないということは手に取るようになわからないだろうか。
嘘を嘘だと思って楽しむ余裕というか、創作物、あくまで「偶像」に過ぎないアイドルへの理解が、欠けてしまうのはとても残念だ。高校生が、応援していたアイドルが結婚してしまうことに落胆する気持ちはわかるし、裏切られたとなるのも話わからなくもない。
でも世論全体が、年齢的な部分を超えてそういう風になってしまうのはどうにも目が当てられない。
彼女のどんな生き方も、彼女が選択したのだから認めてあげよう、そうなって欲しかった。
電車で漫画を読む大人、ゲームが好きな大人は昨今たくさんいるけれど、それは多様性があっていいな、と思いつつ、結局そういう多様性によっかかったまま成長しない人が中には出てきてしまう。成長って何?と突っ込まれたら何も言えないけれど、せめていうなら、成長した人、成長してる人にしかわからないものということになるのかもしれない。
多様性、私はお前が好きだけど、たまに本当にお前のことが嫌いになるよ。お前は都合が良すぎる。

第53問 過渡期

今の私ははっきり言って過渡期だ。爆発的に自分の中の何かが変わろうとしているのを感じる。獰猛な何かが蠢いている。

人間に対する拒絶感がバカになっている感じである。器の口を無理やり広げられている。色んなものが自分の体の中に入り込んでくる。漠然とした寂しさが人肌を求めている。

今日は体調が悪くて、一日中自分を落ち着いて眺めている。勉強しなくてはいけない、という焦りが私の心の時計をとても早めている。焦ると疲れる。無駄だな、とか効率が悪い、とかそんな言葉が1日に何回も出てくる。うんざりだ。

それにしてもさみしい。なんなんだろうか、この寂しさは。ラインの通知がたくさん溜まるようになった。昔はそんな人を見ると凄いなあと思っていたけれど、今はなんだか疲れる。どれほど親しい奴でもなぜか満たされない。どれほど素敵な女の子でも満たされない。つまりはきちんと会って、言葉を交わして目を見ないと、何も私の心の中の器には入ってこないということだ。

ある人について考えている。その人は自分にとってなんなんだろう。最近殊更に思うことは、ある人間に対して友達だとか、親友だとか、そういうレッテル貼りをするのはとても心が疲れるということだ。A君は私にとってA君であり、BさんはBさんである。ただ一緒に時間を過ごしたい、そんな気持ちなんだと思う。心を通わせて、安心する時間が欲しい。自分は若いけれど、ガツガツ競り合う若さはない気がする。ゆっくりじっくり太く湧き上がるなにがしかの力で生きているのだと感じる。

自由なはずなのにさみしい。そんなことを感じる時期だ。それは一緒に眠る女が欲しいのか、夜まで語り合う男に会いたいのか全く峻別がつかない。

つい最近まで自分のことを分析しきっていたような気がしていたが、どうも自分自身すら私はきちんと掴み取れないようである。

無常。