第62問 悲しみを食べて

悲しみを食らう生き物だ
ああ お前のつらそうな顔を思い出す

ずっとお前はそこにいたのか

俺はとっくにそのトンネルを抜けたとおもう
ああいう脂汗はもうかかなくなったんだよ
ああいうふうに心は震えなくなったんだよ
お前はまだその中にいたのか

悲しみを食うよ
あれ以来悲しみを食うよ

誰にもぶつけられない痛みを、つらみを俺らはぶつけ合ったんだ
お互いの肉を噛みちぎり、汚い時間をすごしたんだ

あれ以来俺は悲しみを食ってばかりだ
その分愛の皿はすこしずつ貯まるんだ
そうして今を生きてる

お前は手をはねのけたんだろう
俺は手を求めたんだ

それはわからないよ
俺らのことは誰もわかりやしない
でも手の先には、心

生きてれば何でも良かった

酒でもタバコでもクスリでも占いでも宗教でも
生きてればそれでいんだよ

お前のせいで俺は何も誰に返せてないことに気づくんだ
金も思いも、友情も愛も

だけどな、お前のことは綺麗さっぱり忘れてやるよ
幸せなんだなって思ってやるし
自分じゃなくてよかったって

悲しみを食らうんだ
別に旨くもない

でも悲しみなんて食い物だ

第61問 螺旋の階段

私は夢みていた。

どうやらそこはすごく白い階段で、とても多くの人がぞろぞろと登っていた。本当は最初エレベーターで上まで行こうと思っていたのに、なぜかどうしてもエレベーターじゃ行けなくて、仕方なく階段を使うことにしたのだった。

階段は普通なようなものじゃなくて、光が上から差し込むような螺旋階段だった。人が登っていることが登っている間にわかるような、そんな感じの。

みんなみんな喋りながら歩いていた。とても小さい子が多かったように思う。賑やかさは子供達の賑やかさだったのかもしれぬ。でも老人も沢山いて、老人同士も楽しそうに話して、見た目だけでは本当に心の紐を解いたような感じだった。

その中で僕は1人歩いていて、でもそれになんの悲しさも寂しさも感じなくて、むしろそういうところに包まれてる安心を得ていた。

1人の女性を見つけた。いつものように美しく長い髪で、白い花柄のワンピースを着ていた。その人も1人だった。

私たちは多分お互いのことを視認していて、もしくは見ずにでもなんとなくお互いがそこにいることを感じていた。でもなんとなく声をかけなくて、どこか他人行儀をしていた。でも何か話したかった。

階段を登る前にはなかった手荷物がなぜか階段を登る中で増えていった。白い綿みたいなものが入った袋と、色とりどりの紙を拾った。ゴミを拾うような気持ちで、手にとり、袋の中にまとめた。

階段を上がりきると少し広めの広場で、そこも白かった。遠くにはあの女の人がいて、今度は私しか気づいてないような感じだった。いつの間にか自分の隣にはおばあちゃんがいて、なにかしゃべっていた。でも私はその女の人が気になって、おばあちゃんの話はうわの空でいた。右隣には母親がいたような気がする。おばあちゃんと母親は僕を挟んで座っていたはずだったけれど、私の背の後ろで2人の影はなぜか重なっていて、すごくもやもやした気持ちになったけれど、まあいいかと思って気にしなかった。

 

目を覚まして、夢はこんなものかとどこか安心したようで、でもすこしもの寂しい気持ちになった。

朝は寒かった。

 

第60問 雪 


雪の夜の色は黄色い。
月の光がすっかり反射して、一色の世界を染めてしまう。

地面が白で覆われる。
全部が上塗りされて、色と線でごまかされた世界はすっかり身ぐるみ剥がされる。
こんなにこの道は広かったんだなあ、と。

雪の降る速さは遅い。
照明に照らされる雪をみると、雨より少し遅めで降っている。
足が積もる雪に取られないように、一歩一歩あるく。
いつもより時間がゆっくりと流れる。

車も人も深い雪の前には、みんな隠れてしまう。
話し声も、走る音もなくなって、雪を踏む音だけが聞こえる。
部屋に閉じ込められたような、そんな気がする。

家に早く帰りたい気持ち。まだ帰りたくない気持ち。
厚い雪を避ける気持ち。厚い雪を踏みたい気持ち。
まっすぐ帰りたい。寄り道したい。

そんな夜。


第59問 半生を共に

実はここ何日かの間に悲しい別れがあった。

それが訪れてから私はずっと平気な気がしていた。正確に言えば、あまりにそれが唐突で、脳がその現実を受け入れられていなかったのであろう。何かが麻痺したように、漠然と時間が私の耳の横を流れていたのだと思う。

 

別れとは、犬との別れだった。

あまりにいきなりだった。

ここ一か月いろいろ起こる中で、あの子はあの子なりに暮らしていた。日に日にどこか毛並みが良くなっていくのを感じ、悲しそうな眼をすることがすっかり減っていた。体をひっかく癖も治ってきて、瞳を丸く見開いて、私のことを見つめていた。

数を数えてみれば、自分の人生の半分以上を一緒に過ごしてきていた。

 

初めて家に来た時、とても小さい子犬だった。テレビのスタンドの下の狭い隙間さえも通れてしまうくらい小さかった。家のそこらじゅうで糞や尿をまき散らして、何度も何度もトイレの場所を教えてやったものだった。最初は散歩になんていけなくて、家の中で抱っこしてやって、窓から外の様子をのぞかせてやった。そんな時あの子は、鼻をクンクンと鳴らして、必死で外の世界を知ろうとしていたものだった。

初めて散歩に行くときは、飼い主の私にとっても冒険だった。外は汚いものだらけで、あの子にかみつくような大きな犬には近づけまいと必死になっていた。図書館で山ほどの本を借りてきて、飼い主としてどんなことをしてあげればいいのか一生懸命勉強したものだった。別の犬の飼い主にあった時の挨拶の仕方だとか、リードのひき方はどうだとかそんなことを毎日毎日読んでは、楽しそうに両親に話していたような気がする。

小学校の間は、私の塾に行くのに毎日毎日散歩した。もしかしたらとっくに飽きたルートだったかもしれないけど、私を塾の手前まで見送ってくれたものだった。

中学高校に入って、学校が遠いこともあって、昔のように朝や放課後や散歩に連れていけなくなっていた。家族と一緒に散歩に行くということも、このころからどんどん減っていった。食事の管理を私がしなくなってからみるみる太っていって、自分の知っている子ではないような気がして、ますます面倒を見るのが億劫になっていったような、そんな記憶がある。

とはいえ、たまに散歩へ連れて行ってやると、しっぽをぶんぶんと振って以前の日々を思い出させてくれるかのような、そんな顔で一緒に散歩へ行った。

ここ1か月何度も散歩に連れて行ったけれど、あの子は昔と何ら変わらず楽しそうにあの頃通った道と同じ道を歩くのだった。

自分はこの6、7年ですっかり変わってしまったけれど、あの子と歩く道が何年たっても変わらず、いつも何ら変わらぬように草むらを歩き回り、鼻をかぎまわし、糞と尿をする姿を見ると、なにか細い一筋の線が自分の中にも通ってるようなそんなどこか苦しくてひりひりとした現実に向き合うような気がした。

 

10月の初旬に二人で外にいるときに、大きな満月が見えた。

あの子は、私が立ち止まると、息を合わせるかのように立ち止まった。単に歩き疲れていただけなのかもしれない。でも、私がぼうっと空を見上げているその間、引き綱は少したりとも動かなかった。

家に帰り、犬の脚を洗うとき、どこか優しい気持ちになる。獣のにおいがする犬を抱きしめるときも同じような気持ちになった。洗剤のにおいと獣のにおいが混ざって、どこか安心した。

 

私はあの子と別れてから、何ら変わらず過ごしているつもりだった。

今日ふと、もう使わない銀のボウルを朝何気なく瞳に収めたとき、涙がボロボロとこぼれて止まらなくなった。

 

1人で声も出さずに泣いた。

 

あの子を抱きしめて、顔を私の肩にのせてじっとしているときのことを思い出した。

家に帰ると、私の足に顔をぐりぐりとすりつけて、撫でてほしそうに片目で私のことを眺めることを思い出した。

私の部屋に入ると、窓をひっかいてベランダに出たそうにしていたことを思い出した。

冬の寒い日には、朝日が差し込む私の部屋に入ってきて、二人で遅い朝を一緒に過ごしていたことを思い出した。

私がつらそうにしているときは、静かにそばにやってきて体を摺り寄せてくれたことを思い出した。

 

つらいことがあった次の朝、またいつもどおり毎日が送れていたのは、いつもどおりなあの子が朝を教えてくれたからだったのかもしれない。

 

布団に染み付いた犬のにおいが中々にとれない。

ひっかいた後の扉の傷跡はいまだ残ったままで。

 

あくまで私の人生の欠片に過ぎない。

でもなんだか涙が止まらなくて、ほんとうにそれ以上に言葉にできない。

 

第58問 血

人間は何でできているのかと考えてみると、特に思いつくのは、血と骨と肉だと思う。

怪我をするとき、とりわけ私たちはこのことをよく感じる。普段肌に隠された血や肉や骨が痛み、自分の眼の前に現れるのだ。
先日友達と話した時、自傷行動について語ることがあった。リストカットをするというのはこの肌を己からこそぎ落とす簡単な方法なんだろう。
タバコを吸うときに感じることもこれと似た感覚になる気がする。自分の肺を自分で穢してやっていることに感じる快感である。自分の手で自分の体を痛めつけることに艶めかしい美しさと幸せを感じるのである。


ここ数日自分を苦しめるのは、自分の血のことだ。
自分の血は何でできているのか考えてみると、これはどうしてやっぱり自分の親の血を混ぜて作ったような気になるのである。科学的に考えるとやはりどこかおかしいことを言っているのはわかっているのは自覚しているけれど、どうにもこの考えがまっとうな気がしてならないのである。
私は自分の親がお世辞にも好きではない。
このことが自分の血への異様な悲しさを生み出すのである。
粘り気のある赤い液体が自分の中でドロドロと溶け合っているような気がする。
許せない。逃げられない。

自分の腕や足や顔が親のどこかに似ていると思うと、どうしてもやるせない気持ちになる。自分の体から親と似たにおいがするといやに気持ちになる。

たぶんこれは自分が一生背負っていくことになりうると思うのである。



無常。己の体に結び付く影のようなものである。

 

第57問 肌と嘘

私は法学徒としていくつか法学の基礎たる理論の部分に対して違和感を持っている。最近ホッブズを読むけれど、ホッブズからロックを経てルソーに至る流れの中で一つの基調となるのは、いわゆる「社会契約論」というやつで私はこいつがどうしても1年2年前ぐらいから、不自然な人工物みたいな物のように思えて仕方ない。というのも、自分たち人間が産み落とされたその瞬間から契約を結んでいるような感覚には到底思えなくて、むしろ、そうした理論を採用する社会の必要から仕方なく結ばされているような気がしているのだ。これは勿論一つの論点としてそもそもこの理論の母なる大地が私の住むアジアではなくて、文化を異とするヨーロッパであるというのはあるだろう。そもそも日本においては法意識の観点からしてみても「契約」の考え方みたいなものはないし、双務的関係というよりも片務的関係が日本においては旧来的な部分で大きな部分を占めて来ているというのは数々の思想家たちが明らかにして来ている事実であることは、このブログの読者ならご存知だと思う。その非真実性についてもし気になる人がいるのであれば、きちんと本をベースにして議論したいところである。

さてそういう「契約」の話もそうだけれど、我々の肌になじまない理論はいま世界に溢れてはいないだろうか。感覚的な言葉を用いるなら「脳みそを滑っている感じ」。理性的に正しい”はず”の理論を無理に覚えこまされているような、知覚を通してその真実性の判別がつかないこの感じ。学問の本源的な理由が世界の解明たるならば、それが果たされているのか皆目見当のつかない感じ。

なぜこうした違和感が生じるのだろうか。単純に私の体から産み落とされた理論でないからだろうか。でも言葉として形を持った言説のうちでも、確かに自分の実感覚に淀みなく染み入ってくるものもある。つまり言説の他者性はそれ自体が私との敷居を乗り越えるものであることは間違いのない事実であり、そこにはこの問題は帰結しない。私が直感的に感じるこの差異の生じる理由は、一つにその理論の傲慢さがあると思う。これはその話者たる人間の傲慢さなのか、それとも純然としてその理論に傲慢さが含有されているのかは定かではない。これはある程度学を積み始めた人間が感じる「断定」への違和感のそれと同根なのではないかと疑っているけれど、感覚的に言えば、自分の気持ちに寄り添わずに自分の中に侵入して来ようとしているものへの警戒心なのだと思う。でもこの肌になじむ感覚というのは一重に言葉が背負う宿命なような感じがしている。もし言葉が人間の動物としての社会性を裏付ける根拠になるのであれば、これは必然たる事実である。だが時に「断定」が我々の若さを呼び起こしてくれることはあるし、仲間や師弟での会話ではそうしたものはつまずく石にもならずただの景色になる。

自分の生き様にこれを転化してみると、自分が言葉を紡ぐ時に第一に気をつけているのはそういうことだった。そうしているつもりだった。別に万人に受け止めてほしいからとかそういうのではなくて、自分の言葉をどうしても伝えたい相手がいつも何かしら具体的にいて、そうして人間にほぼオーダーメイドで言葉を紡ぎあげている。その人が抱えて来た経験が言葉からにじみ出て来た時、出てくるのを感じる時、その人にとってこの言葉はそういう意味なんだと理解して自分の言葉との色味の違いを楽しむ。そして相手が「そうした」器たる時、自分の言葉の色を伝え、二人で色の違いを楽しむ。でも結局的には私がそんな風に語り合う相手は、自分と同じように言葉を読んで来て色んな物事を吟味してきた人間になるから、本質的には二人はその重なりを楽しみにしていている。こうした上澄みみたいな楽しみは慣れていかないと味わえない。そういうコミュニケーションを大事にして生きて来た人間にしかできなくて、そういう人間だからこそそういうコミュニケーションを好む。アプリオリな、デカルトが神の存在を解き明かした時のような、結末に行き着く。

そういえばデカルトで思い出したけれど、ヴィーコにこの半年で出会えたことは本当に奇跡だった。というか反合理主義思想総体に出会えたことは本当にかけがえのない財産だった。まあそれはいいや。川端を読もう。中島を読もう。

違和感の根源は外的なものによるというのが大筋の私の意見である。勿論それを内在的な自分の心のせいにして「精神的向上心のないものはばかだ」ということもできるけれど、それが行き着く先は自殺だ。ある程度成熟を経た段階で自身の内面的問題に帰結を求めるのは、その行為の自己完結性に逃げる行為であることはどうしても認めなくてはならないし、自己の社会性を蔑ろにする姿勢は理由の見つからない孤独感を我々にもたらすだろう。勿論反省を自分の行動様式に組み込んでいることがこの議論の前提にあることは、私の仲間と呼ぶことのできる人達だったらきっとわかってくれていると思う。その孤独感は転じて、安直に人肌をくれる恋愛にその解消を求めてしまって、本質的な意味での恋愛、即ち家族に変化しうるという生来的な要素をきちんと孕んでくれている恋愛は手元から離れていってしまうのかもしれない。そういう人間を一人見たことがある。

私は「人生一生勉強」という言葉に踊らされすぎているのかもしれない。

確かなのは生き続けることは分からなくなっていくことだということだ。例外に例外を重ね、その中できちんと他者に向き合って、自分を大切にしていくためには「自分が悪い」だけでは到底足りない。世界の膨張のスピードを理解しなければならないのだろう。私は自分の儚さ、脆さ、ちっぽけさ、不勉強さを感じるからこそ”ひとまず”この考えに行き着く。それこそ海を瞳で収める瞬間に嘘がなくて。肌に嘘がなくて。

第56問 人を愛するということ

色々なことを見聞きしたので、すこし書こうかなと思った。あの人に読んでほしいけれど、今は無理そうか。

人を愛するというのは、どういうことなんだろうか。それは愛し合うということではない。あくまで自己本位な問題として捉えたい。

自分のことを深く理解してくれる、自分のことのように痛みを分かち合い、涙を流したり、喜びをてのひらで手の甲で感じることのできる、してくれる、そういう人間を私たちは愛するのかもしれない。それは同時的に、我々の痛みや喜びをその人に開示することも意味している。

書いているだけで切ないけれど、愛するってのはなんて厄介なことなんだろう。

自分の懐に他人を入れなくてはならない、それだけでもすごく時間がかかるのに、思いが重ならないと自分は強く傷ついてしまう。

そう思うと自分は人を愛したことは一回しかないかなと思う。それはまあ、それでいいんだけど。

あの時に感じた瞳がどれほど自分の脳裏に焼き付いたとしても、相手には何が焼き付いたのか全くわからない。目に入った大きなイヤリングも、透き通るほど白い肌にはひと塗りだけした口紅も全部自分の目にしか写ってない。相手の目に焼き付いたのはなんなんだろう。そして何を思うんだろう。

心の距離が近づくというのは凄いことだ。それだけで本当はノーベル賞を取れるレベルで、芥川賞を取れるレベルで自分の人生にとっては素晴らしいことだ。

二人で歩いた街並みをまた歩くと、その時の記憶がそのままに私たちの脳みそを切り開いてくる。

夜の日本橋も、夕方の九段下も、私にとっては少し大切な空間なのかもしれない。

一人で見た一色の海も、愛だとかそういうの抜きにして色が抜けない。

場所と人間、不可分なのか。