第64問 じゃないじゃない

日本に来てから刺激不足がひどい。
今の自分にはこの物足りない気持ちを文章にぶつけることしかできない。

 

自分の今までの生き方は「じゃない」だった。

自分の目の中に入ったいやで嫌いなものにならないように、そうならないように必死でまるで逃げるかのように動き回っていた。

人の嫌なとこセンサーみたいなのがビンビンに反応して、私の行動規範と付き合う人間を築き上げていった。

それはそれで生のように美しい代物が出来上がったような気はしているけど。もうそろそろその脱皮が必要で、人に問いかけられた時になぜその行動をするのか、なぜその選択をしたのかの肯定的な動機付けが必要なのだ。

否定的なものは指向性出て来づらい。成果に言うと、指向性は色濃いんだけどどうしようもないから人に言いづらいのだ。そして言ったところで、理解はなかなか得られなくて。そういう時って自分の話してる目ってだいたい死んでいて、そんな目で人の心は揺らすことはできない。

何が欲しいのか、何になりたいのか、どう生きたいのか。

じゃないじゃなくて、である。

したくない、じゃなくてしたい。

時間はめっちゃめちゃ限られていて、なんとなく自分のことをわかってきたらもっと深く深く掘ってあげて、先を伸ばしていってやることができたらいいな。

 

自分の自分にとって自信持てるところ。胸張って自信持って生きていこう。

自分に自信があったら、どこぞの誰かが自分のことをジャッジしても何も気にならなくなっちゃう。シビアな空間で生きていく図太さと伸びやかさはそこにあるって確信している。

 

なぜなのか、なんなのか、ひたすらひたすら、爪の先が痛くなるぐらいまで考えてのめり込んで。

第63問 質実剛健に

インドから帰ってきて、自分が強く感じているのは、脳みそをフルに使うことができていないということだ。

脳みその一部しか使えていないからずっともやもやしてる。

もっと脳みそを使いたい。勉強をしたい。自分の中にものを積み上げていきたい。

自分みたいな頭の悪い人間は努力が必要で、こんな楽な状態でい続けてはいけない。

自分を追い込んで、自分の悪いところといいところをきちんと直視して。

思いをノートに書きこ残して。

学び続けて。

人生一生勉強。

成長を止めてたまるか。

 

第62問 悲しみを食べて

悲しみを食らう生き物だ
ああ お前のつらそうな顔を思い出す

ずっとお前はそこにいたのか

俺はとっくにそのトンネルを抜けたとおもう
ああいう脂汗はもうかかなくなったんだよ
ああいうふうに心は震えなくなったんだよ
お前はまだその中にいたのか

悲しみを食うよ
あれ以来悲しみを食うよ

誰にもぶつけられない痛みを、つらみを俺らはぶつけ合ったんだ
お互いの肉を噛みちぎり、汚い時間をすごしたんだ

あれ以来俺は悲しみを食ってばかりだ
その分愛の皿はすこしずつ貯まるんだ
そうして今を生きてる

お前は手をはねのけたんだろう
俺は手を求めたんだ

それはわからないよ
俺らのことは誰もわかりやしない
でも手の先には、心

生きてれば何でも良かった

酒でもタバコでもクスリでも占いでも宗教でも
生きてればそれでいんだよ

お前のせいで俺は何も誰に返せてないことに気づくんだ
金も思いも、友情も愛も

だけどな、お前のことは綺麗さっぱり忘れてやるよ
幸せなんだなって思ってやるし
自分じゃなくてよかったって

悲しみを食らうんだ
別に旨くもない

でも悲しみなんて食い物だ

第61問 螺旋の階段

私は夢みていた。

どうやらそこはすごく白い階段で、とても多くの人がぞろぞろと登っていた。本当は最初エレベーターで上まで行こうと思っていたのに、なぜかどうしてもエレベーターじゃ行けなくて、仕方なく階段を使うことにしたのだった。

階段は普通なようなものじゃなくて、光が上から差し込むような螺旋階段だった。人が登っていることが登っている間にわかるような、そんな感じの。

みんなみんな喋りながら歩いていた。とても小さい子が多かったように思う。賑やかさは子供達の賑やかさだったのかもしれぬ。でも老人も沢山いて、老人同士も楽しそうに話して、見た目だけでは本当に心の紐を解いたような感じだった。

その中で僕は1人歩いていて、でもそれになんの悲しさも寂しさも感じなくて、むしろそういうところに包まれてる安心を得ていた。

1人の女性を見つけた。いつものように美しく長い髪で、白い花柄のワンピースを着ていた。その人も1人だった。

私たちは多分お互いのことを視認していて、もしくは見ずにでもなんとなくお互いがそこにいることを感じていた。でもなんとなく声をかけなくて、どこか他人行儀をしていた。でも何か話したかった。

階段を登る前にはなかった手荷物がなぜか階段を登る中で増えていった。白い綿みたいなものが入った袋と、色とりどりの紙を拾った。ゴミを拾うような気持ちで、手にとり、袋の中にまとめた。

階段を上がりきると少し広めの広場で、そこも白かった。遠くにはあの女の人がいて、今度は私しか気づいてないような感じだった。いつの間にか自分の隣にはおばあちゃんがいて、なにかしゃべっていた。でも私はその女の人が気になって、おばあちゃんの話はうわの空でいた。右隣には母親がいたような気がする。おばあちゃんと母親は僕を挟んで座っていたはずだったけれど、私の背の後ろで2人の影はなぜか重なっていて、すごくもやもやした気持ちになったけれど、まあいいかと思って気にしなかった。

 

目を覚まして、夢はこんなものかとどこか安心したようで、でもすこしもの寂しい気持ちになった。

朝は寒かった。

 

第60問 雪 


雪の夜の色は黄色い。
月の光がすっかり反射して、一色の世界を染めてしまう。

地面が白で覆われる。
全部が上塗りされて、色と線でごまかされた世界はすっかり身ぐるみ剥がされる。
こんなにこの道は広かったんだなあ、と。

雪の降る速さは遅い。
照明に照らされる雪をみると、雨より少し遅めで降っている。
足が積もる雪に取られないように、一歩一歩あるく。
いつもより時間がゆっくりと流れる。

車も人も深い雪の前には、みんな隠れてしまう。
話し声も、走る音もなくなって、雪を踏む音だけが聞こえる。
部屋に閉じ込められたような、そんな気がする。

家に早く帰りたい気持ち。まだ帰りたくない気持ち。
厚い雪を避ける気持ち。厚い雪を踏みたい気持ち。
まっすぐ帰りたい。寄り道したい。

そんな夜。


第59問 半生を共に

実はここ何日かの間に悲しい別れがあった。

それが訪れてから私はずっと平気な気がしていた。正確に言えば、あまりにそれが唐突で、脳がその現実を受け入れられていなかったのであろう。何かが麻痺したように、漠然と時間が私の耳の横を流れていたのだと思う。

 

別れとは、犬との別れだった。

あまりにいきなりだった。

ここ一か月いろいろ起こる中で、あの子はあの子なりに暮らしていた。日に日にどこか毛並みが良くなっていくのを感じ、悲しそうな眼をすることがすっかり減っていた。体をひっかく癖も治ってきて、瞳を丸く見開いて、私のことを見つめていた。

数を数えてみれば、自分の人生の半分以上を一緒に過ごしてきていた。

 

初めて家に来た時、とても小さい子犬だった。テレビのスタンドの下の狭い隙間さえも通れてしまうくらい小さかった。家のそこらじゅうで糞や尿をまき散らして、何度も何度もトイレの場所を教えてやったものだった。最初は散歩になんていけなくて、家の中で抱っこしてやって、窓から外の様子をのぞかせてやった。そんな時あの子は、鼻をクンクンと鳴らして、必死で外の世界を知ろうとしていたものだった。

初めて散歩に行くときは、飼い主の私にとっても冒険だった。外は汚いものだらけで、あの子にかみつくような大きな犬には近づけまいと必死になっていた。図書館で山ほどの本を借りてきて、飼い主としてどんなことをしてあげればいいのか一生懸命勉強したものだった。別の犬の飼い主にあった時の挨拶の仕方だとか、リードのひき方はどうだとかそんなことを毎日毎日読んでは、楽しそうに両親に話していたような気がする。

小学校の間は、私の塾に行くのに毎日毎日散歩した。もしかしたらとっくに飽きたルートだったかもしれないけど、私を塾の手前まで見送ってくれたものだった。

中学高校に入って、学校が遠いこともあって、昔のように朝や放課後や散歩に連れていけなくなっていた。家族と一緒に散歩に行くということも、このころからどんどん減っていった。食事の管理を私がしなくなってからみるみる太っていって、自分の知っている子ではないような気がして、ますます面倒を見るのが億劫になっていったような、そんな記憶がある。

とはいえ、たまに散歩へ連れて行ってやると、しっぽをぶんぶんと振って以前の日々を思い出させてくれるかのような、そんな顔で一緒に散歩へ行った。

ここ1か月何度も散歩に連れて行ったけれど、あの子は昔と何ら変わらず楽しそうにあの頃通った道と同じ道を歩くのだった。

自分はこの6、7年ですっかり変わってしまったけれど、あの子と歩く道が何年たっても変わらず、いつも何ら変わらぬように草むらを歩き回り、鼻をかぎまわし、糞と尿をする姿を見ると、なにか細い一筋の線が自分の中にも通ってるようなそんなどこか苦しくてひりひりとした現実に向き合うような気がした。

 

10月の初旬に二人で外にいるときに、大きな満月が見えた。

あの子は、私が立ち止まると、息を合わせるかのように立ち止まった。単に歩き疲れていただけなのかもしれない。でも、私がぼうっと空を見上げているその間、引き綱は少したりとも動かなかった。

家に帰り、犬の脚を洗うとき、どこか優しい気持ちになる。獣のにおいがする犬を抱きしめるときも同じような気持ちになった。洗剤のにおいと獣のにおいが混ざって、どこか安心した。

 

私はあの子と別れてから、何ら変わらず過ごしているつもりだった。

今日ふと、もう使わない銀のボウルを朝何気なく瞳に収めたとき、涙がボロボロとこぼれて止まらなくなった。

 

1人で声も出さずに泣いた。

 

あの子を抱きしめて、顔を私の肩にのせてじっとしているときのことを思い出した。

家に帰ると、私の足に顔をぐりぐりとすりつけて、撫でてほしそうに片目で私のことを眺めることを思い出した。

私の部屋に入ると、窓をひっかいてベランダに出たそうにしていたことを思い出した。

冬の寒い日には、朝日が差し込む私の部屋に入ってきて、二人で遅い朝を一緒に過ごしていたことを思い出した。

私がつらそうにしているときは、静かにそばにやってきて体を摺り寄せてくれたことを思い出した。

 

つらいことがあった次の朝、またいつもどおり毎日が送れていたのは、いつもどおりなあの子が朝を教えてくれたからだったのかもしれない。

 

布団に染み付いた犬のにおいが中々にとれない。

ひっかいた後の扉の傷跡はいまだ残ったままで。

 

あくまで私の人生の欠片に過ぎない。

でもなんだか涙が止まらなくて、ほんとうにそれ以上に言葉にできない。

 

第58問 血

人間は何でできているのかと考えてみると、特に思いつくのは、血と骨と肉だと思う。

怪我をするとき、とりわけ私たちはこのことをよく感じる。普段肌に隠された血や肉や骨が痛み、自分の眼の前に現れるのだ。
先日友達と話した時、自傷行動について語ることがあった。リストカットをするというのはこの肌を己からこそぎ落とす簡単な方法なんだろう。
タバコを吸うときに感じることもこれと似た感覚になる気がする。自分の肺を自分で穢してやっていることに感じる快感である。自分の手で自分の体を痛めつけることに艶めかしい美しさと幸せを感じるのである。


ここ数日自分を苦しめるのは、自分の血のことだ。
自分の血は何でできているのか考えてみると、これはどうしてやっぱり自分の親の血を混ぜて作ったような気になるのである。科学的に考えるとやはりどこかおかしいことを言っているのはわかっているのは自覚しているけれど、どうにもこの考えがまっとうな気がしてならないのである。
私は自分の親がお世辞にも好きではない。
このことが自分の血への異様な悲しさを生み出すのである。
粘り気のある赤い液体が自分の中でドロドロと溶け合っているような気がする。
許せない。逃げられない。

自分の腕や足や顔が親のどこかに似ていると思うと、どうしてもやるせない気持ちになる。自分の体から親と似たにおいがするといやに気持ちになる。

たぶんこれは自分が一生背負っていくことになりうると思うのである。



無常。己の体に結び付く影のようなものである。