第85問 2020年6月のお気に入りの自文拙文

自分が最近友達にあてて書いたお気に入りの文章。

 

1. ルッキズムと私達

個人的な意見だけど、見た目の美しさは人間の内面の美しさと結びつく時こそがその価値を最も発揮するわけであって、心が腐った外面の美しさは悲しいかな、心の汚さを煌々と照らし出してしまう。
外面の美しさはいわば心を照らすためのライトに過ぎない。そしてその光に多少の強弱はあれど、皆その輝きを持っている。
そして現実においてもそうなように、ライトはたまには綺麗に磨いてやればより明るく見えるんだと思うよ。

 

2. 支援を受ける人への眼差し

友達のFB投稿。
結構俺もすごい似たようなことを思う。
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母子家庭で障害者の妹がいることは、世間的にはあまり良いこととして映っていないのだろうか。
最近、こんなことを言われた。
「私学行って海外研修も行っていたのは、どうして可能だったの?」
「自分は裕福な家庭に育ったから不思議はないけど、ひとり親家庭で裕福ではない育ちなのに自分とそこまで変わらない生活観を持っているのが不思議だなと思って。」
私の返答
「大学の時自由にできたのは奨学金を頂いていたから。研修は学校から補助を頂いていたし。」
「祖父母と同居させてもらい、母と祖父母の貯えで生活できた。学費と食費にお金をかけてもらってここまで来たから、学力や味覚・食生活の面で他人と対等に話ができる。私は自分を貧しいと感じたことはないし、心はお嬢様だと思っている。」
今までこんなこと言われなかったのに、実はずっとこう思われていたのかなとびっくりした。
人付き合いにおいて「君はいい家の出ではない」「育ちが違う」というニュアンスで話をされた経験なんて初めてで悶々としている。私はそこまで深刻に捉えていなかったんだけどな……
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それへの知り合いのコメントも頷ける。
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私も、他の人と何ら変わりのない夢の一つに「幸せな家庭を築くこと」を挙げたら、拡大解釈されて「幸せな家庭に育ったから幸せになりたいと思ったことがない。苦労したんだね」って同情された時悶々としたなあ。海外進学に関しても、よく「(母子家庭なのに)お金持ちだね」って言われる。
XXちゃんと同じく奨学金頂いてるし、幸い特に不自由なく過ごしてきたから、偏見って凄いんだなあと思わされるよね。私は、近しい人だとやんわりと想像力の欠如を指摘するようにしてるけど、近しくない人に言われたら流すようにしてるかなあ。もやもやして当たり前だと思う。
数字で見れば母子家庭なんて大して珍しくもないのに偏見が強いのは何故なのかなあと思ったりするけれど、時代と社会が追いついてないなあ、くらいにおもって流すのが一番だと思う。 
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俺の考えとしては、「普通がいいんだ」「普通が当たり前なんだ」っていう人の周りには、そういうプライベートなことを打ち明ける/打ち明けられる機会がないんじゃないかな。
目の前の人の話に、一般論をぶつけてしまうのはわからなくはない話ではある。
ただ、社会が人を支える仕組みとか知らないのに、人が人を支える形ってほんとさまざまあることをちゃんと知らないのに、誰かに幸せにしてもらっている人に「あなたは幸せにしてもらってるんだね」ってわざわざ言うことの意味って何?と思う。
生活保護の人の話もそうだけど、社会保障をうけている人とか、誰かの支援を受けている人に対して、「お前は支援を受けているのだから、こう生きろ」という価値観を持つ人が結構いると思うんだよね。
そういう考えを持っている人は本当に知らないんだよね、目の前の人がどういう思いで生きていて、社会をどういう眼差しで見ているのか、とか。
心のうちに秘めている感謝とかそういうものが、自分の目に見えないから、感謝してないように見破った気持ちになったりするのは、傲慢だなと思う。

 

3. 星野源とBLM

miyearnzzlabo.com

こういう大人にならなくては。
真剣に考えているときに言えることが少なくても、「真剣に考えている」と伝えることってとても大事なんだな。 
その言葉を信じてもらえるような人間として生きていくということなのだと思った。
何を言うかっちゅうよりは、どんなことをしても他者に信じてもらうことのできる人間であることも大切なのかもしれない。
自分が、オバマを信じる理由もそこにある気がしたわ。
終わらないフェイクのラベルのなすりつけ合いに勝つ方法の一つかもしれない。

 

 

第84問 優しさは連鎖して

週に一回する電話は今日はなかった。

朝からずっと泣き続けていた自分としては、今日一日は一人の時間にしたかったから、それでよかった。物思いにふけりたかった。

その友達も今夜は、誰かのそばでその人の涙を拭いているらしい。

優しさは伝播して広がっていく波のようだ。

海の波の表現を思い出す。三島由紀夫の書いた海の波。

ここにすこしだけ引用しようと思う。

海はすぐそこで終る。これほど遍満した海、これほど力にあふれた海が、すぐ目の前でおわるのだ。時間にとっても、空間にとっても、境界に立っていることほど、神秘的な感じのするものはない。海と陸とのこれほど壮大な境界に身を置く思いは、あたかも一つの時代から一つの時代へ移る、巨きな歴史的瞬間に立会っているような気がするのではないか。そして本多と清顕が生きている現代も、一つの潮(うしお)の引き際、一つの波打際、一つの境界に他ならなかった。
……海はすぐその目の前で終る。
波の果てを見ていれば、それがいかに長いはてしない努力の末に、今そこであえなく終わったかがわかる。そこで世界をめぐる全海洋的規模の、一つの雄大きわまる企図が徒労に終るのだ。
……しかし、それにしても、何となごやかな、心やさしい挫折だろう。波の最後の余波(なごり)の小さな笹縁は、たちまちその感情の乱れを失って、濡れた平らな砂の鏡面と一体化して、淡い泡沫ばかりになるころには、身はあらかた海の裡へ退いている。
かなりの沖に崩れかかる白波から数えて、四段か五段の波のおのおのが、いつも同時に、昂揚と、頂点と、崩壊と、融和と、退走との、それぞれの役を演じ続けている。
あのオリーブいろのなめらかな腹を見せて砕ける波は、擾乱であり怒号であったものが、次第に怒号は、ただの叫びに、叫びはいずれ囁きに変ってしまう。大きな白い奔馬は、小さな白い奔馬になり、やがてはその逞しい横隊の馬身は消え去って、最後に蹴立てる白い蹄だけが渚に残る。
左右からぞんざいにひろげた扇の形に、互いに犯し合う2つの余波は、いつしか砂の鏡面に融け入ってしまうが、その間も、鏡のなかの鏡像は活発に動いている。そこには爪先立った白波の煮立つさまが、鋭利な縦形に映っていて、それがきらめく霜柱のように見えるのである。
退いていく波の彼方、幾重にもこちらこちらへと折り重なってくる波の一つとして、白いなめらかな背(そびら)を向けているものはない。みんなが一せいにこちらを目ざし、一せいに歯噛みをしている。しかし沖へ沖へと目を馳せると、今まで力づよく見えていた渚の波も、実は稀薄な衰えた拡がりの末としか思われなくなる。次第次第に、沖へ向かって、海は濃厚になり、波打際の海の稀薄な成分は濃縮され、だんだんに圧搾され、濃緑色の水平線にいたって、無限に煮つめられた青が、一つの硬い結晶に達している。距離とひろがりを装いながら、その結晶こそは海の本質なのだ。この稀いあわただしい波の重複のはてに、かの青く凝縮したもの、それこそは海なのだ。
p271『春の雪』(新潮文庫版)

俺の優しさも人からもらったんだったと、思い出したのだ。

もらったものしか与えることはできない。

第83問 幸せなのを確かめて

君が俺を呼んだけど

幸せだって言われたら、自分の幸せに気づくしかないじゃないか

自分がどれほど幸せか知ったら、君が幸せなことが嬉しいだけじゃないか

でもどうしてこんなに悲しいの

一緒にいるのにね

俺は人を幸せにしたいんだ

そのために生きてる

まだ何もできてないよ、ごめん

ありがとうもちゃんと言えないなんて

 

俺は明日死んでいいと思ってる

この3ヶ月がそう教えてくれた

悔いなく生きろって

だから高望みしないんだよ

今が幸せで、それ以上要らないんだ

だけどそれが悲しくて悲しくて涙が

 

なぜ泣いたんだろうね

君の優しさを身体一つ分離れたベットで感じた

本当は抱きしめたかったけど、幸せだったからやめた

何も伝わってないね結局

俺には優しさ伝わってたのに

ほんとださいね、ごめん

第82問 憎しみはない

 少し前に友達と電話で話した時に、その子の友達もまたとある試験にむけて勉強を頑張っているという話を聴いた。どうやらその友達は家庭環境に難があって、そういう逆境を憎しみの力で跳ね飛ばしてきたんだそうだ。

その子から見て、私がどのように見えているのかはあまりはっきりしないが、多分そういう憎しみのようなものを背負って生きているように見えている部分もあるようで、「やっぱり憎しみの力はすごいね」みたいなことを言われた。

正直に言うと、自分にはそういう憎しみは本当に全く無くて、どっちかというと運命の不条理のようなものを悲しく思いながら生きてきただけだった。それを握りこぶしにこめたことはなくて、どっちかと言うとそういう苦しみをともに抱く人に共感し、痛みを分かち合うような、そんな生き方をしてきたのだった。

不幸はたしかに誰かの作為によってもたらされることもあるのだろうけども、自分の不幸観というのは、あくまで天から降ってくるようなものだという認識があって、いつの間にか人間は病気になったり、死んだりしてしまう、そういう感覚が自分の人生観の幹にはあると思う。

だから必死になって"幸せ"になろうとする人をみると、気の毒な気持ちになって、自分の幸せを傲慢に人に見せつける人は見ていて虚しくなるだけで、誰かを憎しむことはほとんどなかった。

むしろ他者の存在に最近は感謝してばかりで、そういう感謝の情を持たずに生きている人をみると、哀れな気持ちになり、そういう感謝を持って生きている人を蔑んでいる人を見ると、苛立たしくなる。もしかしたらその子からみて、自分はそういう憤っている自分が何かを憎しんでいるように見えたのかもしれない。

その人は確かに憎しみとともに生きているのかもしれないけれど、自分はまるでそんなことはないよと、なんだかここで保留したくなってしまった。

第81問 仕方なく一人だから

ここのところ、朝の早い時間に不思議と目が覚める。
日差しが部屋に差してくるのと同じぐらいの時間に体が起きる。
起きたときの体の調子は様々で、いいときもあれば疲れているときもある。
そういう最近の習慣に多かれ少なかれ精神的に満足している自分がいる。

ついこの2週間くらいの間、悲しいことがあった。
自分の家のそばにあった、そんなに大きくもない雑木林の木々が、全て切り倒されてしまったのだった。どれも、それはそれは高い木だった。
友達を家につれてくるときに、「お前の家は田舎だ」と言われる要因の50%ぐらいは、きっとこの木々のせいだったと思う。
あまりにあるのが当たり前過ぎて、写真を撮ったこともなかった。
秋には、一本か二本の銀杏が香った。いつも鼻をついてうんざりしていたあの高い木が、全部なくなってしまった。
小学生の放課後、友達と遊んで帰るときに、かならず私の瞳の中に収まっていた木々が、なくなったのだった。
中学高校大学と、毎日の通学路で通り過ぎていたあの木々は、あっけなくいなくなってしまった。

木を切り倒して残った根は、その樹齢を感じさせるがごとく深く、工事業者を苦戦させているみたいだった。
ざまあみろという気持ちになった。
できればいつまでも、そうやって手間取っていてほしかった。
けれども、ここのところ工事の音は静かで、そういう時間も終わったのだと伝えられるようで、なんだか悔しいような騙されたような気持ちになった。

なんだかんだ、自分が緑を求めているのがわかった。
家沿いの長い道を進んで、その先にある坂を登った。そっちの方には、自然が多かった。
犬が生きていたときに、散歩で行ったのはそういう場所だったし、幼いときにプールに泳ぎに行くと、そっちの方を親と一緒に通ったのだった。
あまりいい思い出はないけれど、7歳から10歳ぐらいの自分が、毎週のように通った場所だった。

坂沿いに立つ邸宅から、はみ出ている白い薔薇が、その花びらを散らしているのに気づいた。昨日の雨に濡れていて、きれいだった。
身ぎれいな女を眺めるような、そんな気分になった。
昔に落ちた花びらが、その先を茶色にして腐らせているのも美しかった。
朝の肌寒さが、より薔薇を清潔に見せた。

あの並木道は、相変わらずだった。
人は少なくて、広い。
高い木々が並んでいた。安心した。

香水をつけていたのに、プールの匂いを思い出した。
プールから上がって、ちゃんとシャワーを浴びたのに、頭から塩素の匂いがしたのはなんでだったのだろう。
いつも泳いだ帰り道は、疲れて眠かった。夕方は眠かった。

公園は背の高い木々が、空を覆い隠さんとするほどだった。
嬉しかった。自分の背が伸びたのと同じぐらい、木々は伸びたのかもしれない。
朝露と緑の匂いが、幸せだった。
鳥の鳴き声が嬉しかった。

鳴き声が、3週間前の電話を思い出させた。
夜の間、ずっと喋りっぱなしで、朝に鳥が鳴いたんだった。
彼女に、「鳥が鳴いてるよ」って笑われたんだった。
緑に囲まれて嬉しかったはずなのに、寂しくなった。
しばらくの間、その子のことを考えた。

最近、ずっと思い出してばかりだ。

第80問 Selfish&Unselfish

自分の親友のブログを読んで、なんだか自分は軽薄な人間になったような気がして、自然となにかを書きたくなった。

それは自分が軽薄ではないはずだという意地なのか、はたまた恐怖感から出る自分の確認作業なのか。わからないが、自分の泉から溢れ出るこの何色かわからない水を、少しばかり器にとって、ここにしまっておこうと思うのだ。

書くなら愛について書こうかな。

最近の自分の人生のテーマは、愛だ。

なんだか愛に俺は長いこと真剣に向き合ってこなかったように感じる。自分という人間の輪郭がわからないから、わかろうとしたくないから、他人を使ってそれを確認したかった。そのために愛を使っていたように思う。

愛はとてもラブリーなものだし、温かいものだ。でも、その反面自分の本性と向き合う必要のあるすごく大切なものだ。人から見れば「君は考えすぎだよ」なんて言われてしまうかもしれないけど。でも、概念として、愛って解体してみると、できやしないけど、しようとしてみると、自分が愛に、愛しているという感情にどう向き合っているかというのはすごく大事なことのように思うのだ。

今思う、愛への妥当解は、Selfishだし、Unselfishなものであるということだ。自分が誰かを愛しているというのはすごくSelfishで、一方的だと思う。でも、愛が相互的で、というか双方向のものであった時は、その愛はUnselfishであろうとする。愛している人を愛しているから、その愛をどう表現するのか、そこにはUnselfishnessが深く深く、愛の結晶として潜んでいるように思う。

Selfishnessだけの愛はつまらない。薄っぺらい性愛はUnselfishnessがない。Selfishness同士が符合するだけで、それ以上のものではない。Timingとか気分とか、生理的な現象に左右されちゃうような愛だ。

愛は、心を開く辛さを持っている。愛している人に、愛していることを伝えるのっていうのは、すごく難しい。まあよくある話で、でも俺はずっとずっとそこに引っかかっている。愛していると、本当に長いこと言っていない。というか、もしかしたら愛している人が長いこといない、ということなのかもしれない。

平和という言葉と愛がよく並び立つけれど、その理由もなんだか最近わかる気がする。平和って、愛がないと成り立たないじゃない。愛がない平和って、ないよ、きっと。

人の命を思う時、それが愛だと思う。

ここんとこずーっと考えていた性愛と愛の境界というか、棲み分けというか、そういうものがわかったような気がしている。

その人の命に思いを馳せるときに、それは愛なんじゃないのかなと思っている。

 

数ヶ月経ったら、こんなことをまたブログに書き残してしまった、なんて後悔するのかもしれないが、ひとまず気持ちが変わらないうちはここに残しておこうと思う。

 

このブログを読んでくれている人。いるのかはわからないけれど、いつの日か、あなたの思う愛を俺に教えてほしい。臆病者で、見えっ張りな俺には、時にあなたのような優しい人が分けてくれる愛に、大きな救いを感じるし、生きる幸せを感じます。

いつぞや俺は君を傷つけただろうし、いつの日かまた君を傷つけるだろう。だけど、きっと今の俺は昔のあれこれも、これからのあれこれも全部全身で受け止めて、愛していきたい。

第79問 我々と現実

一人間として、昨今の日本社会でおこっていることはなんだろうと考えてみると、それは現実的なものや目に見えるものへの偏った趣向、すなわち現実偏重の様相である。

ひとびとは働く上では、金銭的なものや人々からの評価といったような、自分による主体的な解釈を不要とするような多数決的に、もしくはシステム的に優位性が定まるものを好んでいる。

ひとびとは恋愛をする上では、顔だとか周りの人からの見られ方というような自己の恋愛対象に責任のない方向で恋愛対象を決定し、自分自身で転回できる事が可能な人の良さの気づきを避けている。

ひとびとは文化を享受する上では、安く金のかからなくて、そして自分の負担がかからないものに集まり、金のかかるエンターテインメントとその背後の歴史とその担い手を軽んじるようになった。

もの寂しい世の中に移ろいゆくようだ。

時代は変わるが、果たして我々を我々らしくさせてくれるような、現実は現れるのであろうか。これほどに飽きっぽくなってしまった、消費グセのついた人間は、手触りのある泥のついた手のひらを握りしめる感覚を思い出せるのだろうか。