第1問 内田樹「反知性主義者たちの肖像」

まだ受験生なので受験生らしい話からスタート。


試験中私はこの文章には何の違和感もなく同意することが出来たが、世間から見ればそうではないようだ。

https://mobile.twitter.com/Perfect_Insider/status/703456859504508928

私は反知性主義という言葉の存在すらも知らなかったが故に解答に関して何ら苦労しなかったが、「知っている」人たちからすれば誤りの散見された文章だったようだ。


私の文章への印象を書いてみる。

内容は東大らしい、受験生には新鮮な感覚を与えながらもどこか奥に自分の考えや感覚と通底する何かを秘めているようなそんな問題だった。特に今年は自分にとっては後者の要素が強く感じられて、文章を読んでいる時はかなり興奮していた。ただ傍線部にまで侵食してくるような筆者の我が感じられ、たまに踏みとどまって筆者が本当に言いたいことは何か考えなくてはならず特に段落のスムーズなつながりをとらえる上では少しばかり難を要した。ただそういうスピード感は過去問でも幾つか見られたものだったので、そういうものだとして読んだ。

私は反知性主義者を2ちゃんねるツイッターに現れるタイプや人に当てはめて捉えた。あとはやたら生活上「合理性」だとか「論理性」を求めて話をしようとする人を当てはめた。

私の抱く彼らへの利己的な印象は筆者の反知性主義者のそれと重なる部分が大きく、自分の現代批判的要素が呼び起こされ、気の合う人と今の社会について話し合っているような気分になった。

この社会のイメージは後半で論じられる集団そのものであり、上にあげた意見の東大が人文軽視に抵抗して、という文脈より純粋な現代にはびこる偉そうな合理主義者へのアンチテーゼとして僕は捉えた。今考えてみると、この捉え方はかなり延性があって世間がこうとらえるのも無理はないかなといったところである。


ただ、世間でこうも叩かれる理由はこの文章が啓蒙的要素を含むからだと私は思う。啓蒙を嫌う人は一定数社会にいて、独力というものにこだわる人々にその傾向は強く見られるように思う。特に東大生や東大教授といった類の選民思想が強い人間はここに引っ掛かるのだろう。純粋な反応として私には官僚政治家が社会を理解していないと言われてしまう所以が垣間見える気がした。教授は官僚・政治家ではないと思う人もいるだろうが、波紋が広がる様子をイメージしてもらえれば理解はたやすいだろう。私のような平凡な人間には彼らの怒りが理解できない。「日本人の反知性主義」と題してるのだからアメリカで論じられるそれとは異なる訳だし、どうも批判を行う人々が「反知性主義」と耳にしてパブロフの犬のごとくその内容をフィードバックさせ筆者の意見と間違い探しを行っているようにしか見えない。私には彼らの反知性ぶりが反射して眩しすぎるぐらいだ。東大の肩書を持つ人間であればどこかもう少し落ち着きが欲しいものだ。


もし筆者の言う知性が本当に知性であるならば、私たちは後退しているということになるのだろうか。私にはそうは思えない。そもそも筆者の言うような知性が成立していたのはいつなのか、これがはっきりしない。理想とするものが抽象的で皆が等しく想像できるものではないのだ。だからこそこの文章はアンチテーゼに止まってしまう。反抗として引き延ばすことは出来ても啓蒙としては引き延ばすことができないのである。すごく共感できることはある分、物足りない気がした。