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第2問 日本人の小中華意識

中華意識とは書いたものの中国との話は今回はしない。

私が今回話したい華夷秩序はアメリカが中華となっている華夷秩序である。そもそも華夷秩序がいまいちわからない人に簡単に説明するとすれば、華夷秩序とはすなわち中華が物事の中心にあってその外側にある周辺が夷狄とされる、中華を中心としたまさに秩序のことである。アメリカが中華に当たるのであれば日本は夷狄にあたるわけである。加えて題に掲げた小中華意識を説明するならば、夷狄が中華の優位に立ち、自らを中華としようとする考え方のことである。この小中華意識は唐が滅びた以降の10世紀東アジアで盛んに見られ、今なおその片鱗は残っている。

だがアメリカが中華とされる秩序には小中華意識は今まで論じられることはなかったのではないかと思う。そもそもアメリカは滅んでいないし、アメリカを中華とする考え方自体狭量である。しかしここではあえてアメリカを中華という一極としてみなすことで日本人の外国人への認識というのだろか、どこか根底にある意識を発見したい。


普段私たちは外国人をどのような目で見ているのだろうか。一概に言うことは難しいけれど、やはりどこか子供を見るようなそんな目で見ている気がする。テレビ、での一般的な外国人の取り上げ方といえば、街頭インタビューで片っ端から日本の「良いところ」を聞いたり、ひな壇にあげて片言で話すのを楽しんだり、とあまり良い印象を持てないものが多い。どこか私たちの心の内で、外人は馬鹿だ、頭が悪いといったどこか不誠実な認識がある。この罪悪感とも言えない、何となくもやもやした感じは理解してもらえると思う。

しかし一方外国人は賢い、というイメージもある。名だたる大学を卒業し、歴史に名を残すような発見のため研究を進める、もしくは賢いという意味の幅を広げれば、シリコンバレーで目にも留まらぬ速さで成長するベンチャー企業を巧みに運営する、そういった人々もいる。日本人がノーベル賞受賞者に名を連ねることを誇りに思うのは、ここから来ているだろう。ギネス記録に登録される、というのとはやはり違う。我々をはるかに超えた何かを持つイメージは日本人になら誰にでも共通するはずだ。

この相反するイメージに私はとても興味を持った。一方では小中華と化して中華を夷狄に組み込もうとする動きがあり、他方では中華を中華として誰もが認めている。アメリカというイメージから外国というイメージへ中華は広がるが、しかし私たちは相変わらずアメリカを見ている。もちろんある程度勉強をしている人間にはこの拡大は気持ち悪く感じられるだろう。けれど、これが一般であり現実である。意識は知識ある人々にのみ生まれるものではない。ある種の「知性」である。

どうしてこの矛盾は生まれたのか。単なる担い手の違い、としてこの違いを受け止められるのか。私は無根拠だが、アメリカの知的格差を感じ取る。日本の学の構造は三角形を描き漸進性がある。学歴はこれを完結に証明する要素と足り得るだろう。一方日本人から見えるアメリカの学の構造は平行線の砂時計のようである。上と下が際立って目立ち、その間が全く分からない。アメリカの推薦だとか入試だとかの仕組みは一本釣りのような要素が強く満遍なく濃い色から淡い色へグラデーションが移っていくイメージがつかめない。


きっと調べればかんたんにこの疑問は解決してしまうだろう。でもこうして外から感じ取れない世界というのは魅力に溢れている、それは私たちが中華であろうと夷狄であろうと変わらないのではないだろうか。