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第3問 くだらないことをくだらないと言う勇気

一昨日本屋を歩いていると、幸せになる勇気だとか、人を信じる勇気、だとかそんな題目が目に入ったのでこれはいいと思って使うことにした。人に読まれる文だし、俗っぽさみたいなものは大事にしたいと思っていたが本屋はそういうものを探すのはとっておきの場所だった。

中にはタイトルを見て、「『くだらない話』を書くなお前は」なんて思う人もいたりしたのではないだろうか。確かに大したことのない話であることは承知だが、人との関係が極限まで減らされた一年だったし、人間関係を個人的なものから拡幅させて一般事物として論じることもあっていいかなと思ったので取り組む次第である。私自身の話になって、他の人がどうかはあまり聞いたことがないから分からないけれど、おそらく皆に共通しているだろうと思ってこの先は論じていきたい。

世の中でくだらない、と言われていることは何だろう。私がパッと思いつくのは、アニメ漫画だとかアイドルだとかそういったものである。人によってみれば、男女の関係などもくだらないものになるかもしれない。上にあげたもの、特に前者は賛否きっぱり別れてしまうのではないだろうか。アイドルもアイドル好きを公言する人は半ば迫害されているイメージがあるし、自分も無意識に迫害する側に回っている自覚がある。アニメ漫画などの自分の迫害程度というか、差別視が中々強烈であることも自覚している。

けれど、私はアニメが好きな人やアイドルが好きな人に向かってアニメ批判・アイドル批判をしたことはない。やはり当人を目前にすると気が引けて、その前には盛っていた血もすっかり治ってしまう。何となく雰囲気は伝わってしまっているかもしれないが、私には「お前が好んでいるものを私は好んではいない」と堂々と言う勇気はない。けれどそうしたものへの嫌悪感というか、男のくせにだらしないな、という頑固は癒されることはなくてその人が視界から消えると頭の中で悶々とするのである。

簡単に結論を用意すれば、事物の捉え方は人それぞれなんだから、ということになるがいささか強引で多様性に託けたそれこそくだらない議論になってしまうと思うのである。多様性、選択肢、自由、権利といった言葉は気持ちの悪い言葉だ。温かいふりをしてそっけない言葉である。

万人にとって面白いものがなかなかないように万人にとってくだらないものもなかなかない。しかし面白いものを面白い、と言うよりくだらないものをくだらない、と言う方が遥かに困難なことである。ネガティヴな主張をすることは、認めることと同程度に厳しいことである。

ネガティヴな主張をためらう気持ち、これを打破するのが勇気であれば、それを抑え込む気持ちは譲歩なのだろうか。違う気がする。事物を心の内で認めることができれば、その事物を楽しむ自分を認めることになる。新しい世界が広がる。これは一つ魅力である。

一つ正直に言うならば、批判を躊躇う理由は勇気を認める勇気がないからかもしれない。