第9問 夏目漱石『行人』

間を空けながら2日かけて終えた。

正直私ごときが書けるのは、能力的にも時間的にも高々感想や簡単な考察程度なのでそれに準拠して書く。

物語終盤即ち塵労の章は、全てが変化した。私が読んだのは岩波文庫版で注/解釈は三好幸雄によったが、それで十分だったので行人を客観視したい人は読むとよい。明快に物語の変化の具体が述べられている。

塵労にひっぱられて、というよりはもはや二郎が主人公足りうらない存在になり、一郎に漱石をはじめとする近代化を牽引した人々と重なる部分を多く見いだすので私はここで一郎に寄り添いたい。

文章で私の目についたのは「研究的」「実行的」の対照的な二語である。一郎は自らを「研究的」とし、彼の友達Hを「実行的」とした。自己を感じ他者を眺める一郎は、強烈なほどに自己性と関係性の歪みに苦悩する。知識を得て、一般人には届かないほど深く自己に潜り込む一郎は、それに合わせ幸せを失っていった。友人Hは助けることの出来ない現実を理解しながらも、混沌する一郎の心に寄り添う。これは一郎の家族が一郎にしてやらなかったことであり、一郎に出来なかったことである。唯一ともに知を探求する人間としてなのである。しかしながらHはあくまで実行的である。二人の関係は作中の以下の会話に最も顕著に現れる。

一郎がHに

『「君の心と僕の心とは一体どこまで通じていて、どこから離れているのだろう」』

と問いかけると、Hは

『「Keine Brücke führt von Mensch zu Mensch.(人から人へ掛け渡す橋はない)』

と答える。それに一郎は

『「Einsamkeit, du meine Heimat Einsamkeit!(孤独なるものよ、汝はわが住居なり)』<ニーチェツァラトゥストラ』に依る>

と答えて去っていく。

一郎は宗教にもすがることはできない。彼はきわめて強い理性を持ち、それは彼の弱き隙間を許そうとしない。でも一郎は極めて人間的である。禅も挑むものの彼には不可能だった。極めて人間的な彼だが、人間的だからこそ自己は彼の前にそびえ立ち、広がる利己と朽ちていく他者との関係性に一郎は苦悶する。

漱石は一郎を殺すことはなかった。これは漱石自身が生にわずかながらも兆しを感じていたからではなかろうか。『心』では全く逆である。知識人、近代化の中心人物と知られる漱石だが、彼が見つめていたのは我々にも見える人間とその人間を囲む人間の全く人間的な命の動きだったのではなかったのだろうか。