第14問 学生の「尊敬」

学生の未熟さについて日々考えている。最近の人間は多分すぐ、親に養ってもらっている、という金の話にすぐ移ろうとするが、今回は凡庸な話はしない。私は度々人前で学生の目上の人への尊敬について言及してきた。それも特に強い口調で。これは私が一般学生諸君に感じる、「尊敬」の薄弱さを前提としていて、それを理解しない人にとってはひどくおせっかいな説教にでも成り下がっていたのだろう。

よく学生諸君が口にする「尊敬」。私はこれはどうも尊敬であるようには思えない。というのも特に私の生きる世界には、エリートの卵たちがあふれていて、難関とされる小学校受験も突破した経験のある、自尊心で満たされたタイプの子供達で溢れていた。つまり、基本的に人を下に見る姿勢が染み付いている子たちが多いということである。それは受験期には顕著で、「〜ができない、分からない」と言うと途端に見下され、『出来ないキャラ』にされてしまう。これはとても厄介で、他者の認識は自己形成に強い影響を持って、意欲のある子たちはこの他者認識に押しつぶされてしまう。私は実際他者認識に手を貸したし、貸さなければ自分が他者認識に押しつぶされる恐怖があった。だからこそ受験期の話し相手は限られたし、それでも心から安らいで話すことは少なかった。話を戻すと、「御三家」だとか言われる学校やその辺りの学校に通う子たちは、基本的に他者は自己より下位の人間として初めは扱う。もちろん、そうではない人間がいるが、そうした人間が一人いると価値観はなぜか伝染してしまう。これは人を平等に捉えようとすることはそもそも自然に抗う理性的な行為だからそれに反発する形で、心労の少ない価値観を受容してしまうからだろう。今尚私と同年代でこの価値観に浸っている人間はおそらく一生抜け出せないだろう。本当に頭の良い人間は楽な物事の考え方は早めに選択肢に置換してしまう。物事を重く受け止めきれない時にやっとの事で、人生最高の熟慮でもって、楽観視するのではなかろうか。頭の良い人間は韜晦である。そう意味で言えば、私自身はまだまだ未熟である。

ここで一つ立ち止まる。逆に尊敬が稀有なものであればその分価値があるのではなかろうか。厳しくその「認定」には向かいたい。私には一つ傾向として、そうした「認定」作業を行うタイプの人間には、実体験の少なさが共通していると思う。学生にこの論点を持ち出すのは些か酷だが、肉の経験に欠けることはそれこそ、他の若者にエリート諸君が負けている点である。高々私たちにある肉の経験は、部活や文化祭運動会生徒会といった行事のようなもので、今となってはもはや自分の手を使い足を使い頭を使い金を稼ぐ同年の若者たちがいることを忘れてはいけない。彼らはまさしく社会に既に投げ出されていて、10歳20歳下手をすれば30,40歳離れた人々と人間関係を築いている。それも「先輩後輩」といった我々が普段何気なく使う言葉をそのままま用いた人間関係を築いている。高々5歳ぐらい上の人を知っている「先輩後輩」が少し虚しくなる瞬間である。だからこれはまた別の話として、粗末な演繹を用いて大人の定義付けをしようとする子供も増えるのだろう。

即ち、実体験に欠ける我々にとっての尊敬とは何かという話だ。そもそも、頭が良い子たちに尊敬の理由を問うた時きちんと答えられる人間はいるのだろうか。この理由を胸を張ってきちんと言えるかというのがすごく大切なのだ。上滑りの話のようで、実は大事な話をしている。物知りだから尊敬するのか。シンボルだから尊敬するのか。その尊敬に含まれる多元的要素をきちんと理解しているか。対象は尊敬に蹂躙されていないか。大人をきちんと見る目があるか。「尊敬」という言葉を安易に用いていないか。人生の目標を安易に人に話していないか。全て違う質問のようで同じ核を持った質問である。尊敬が言葉で表すことができないからこそ外堀を埋める。時間があれば、是非自分を質問攻めしてみてほしい。疲れたらやめればよい。そうすることであなたの哲学が出来上がっていくはずである。

あなたの中身に無理に入っていくようなことを書いたかもしれない。これはいつものことか。ただ、新しい人間の出会いに強い不確定要素はある。不安になった時や寂しい時は、私の拙文でも読んで笑ってやってほしい。

そして自分の考えを気が向いたときでいいから、自分の手で書いてみてほしい。ただそれだけで違う気がする。

今回はこれで。



最近独りよがりな文が多いと思いますが、恥ずかしいことに私にとってはストレスの発散になっています。4月になれば大人しくはなります。でも今の私にとってはすごく大切なことなのです。ただ今だけはブログを見ているあなたが良き理解者になってくれることを祈ります。