第21問 ありのままで

自分の周りの学生たちは綺麗事を嫌う人が多かったようである。小まめな挨拶から、困っている人を助けてあげようと思う気持ち、濁りない将来を語らうこと。ありがとう、を言わなくても良い空間。人を助ける行為が「立派」にならない空間。こうした徳の欠けた人間形成が行われる裏腹、本人たちは「自分は自分のしたいことをする『ありのままの自分』である」と胡座をかいている。だから親切をすることに気持ち悪さを感じてしまう。「ありのまま」であることが彼らの自我に直結するのである。「手を加えられない」自我こそが素晴らしいなのだと思っている。

はたしてそうなのか。この疑問は様々に解釈できる。【ありのままはまさしく「ありのまま」なのか】【無為自然である自分はまさしく「無為自然なのか」】【ありのままの自我は素晴らしいのか】端的に言えば、こうした態度は欺瞞であり、抜け穴だらけである。

彼らにそもそも徳の意識がないことはもちろん、自己の形成の意識もすっかり欠けている。自己の人格を修繕する意義が分からなくなっている。だから平気で冷笑する。平気で「客観的」なんて言葉を使う。彼らの客観視とは即ち、自分の気になるところについて他人を厳しく見ることに過ぎない。客観の対象に自己は入らないし、入れたとしても無理矢理な理屈をこねて『クリア』してしまう。これは私が気兼ねなく話せる友達に話すことであるが、「人格は高校時代までに大筋が決まってしまう」。含みのある言い方で、逃げていると思うかもしれないけれど、この含みは救いでもある。なぜこうした言い方をするかは少し考えれば今の君たちならわかるだろう。大学が始まった時、「素の自分」を出す奴がいるだろうか。普通、友達選びをする上でこの人は人を傷つける人かどうか、空気を読める人かどうか、といった相手の良識の判断に勤しむはずである。自分の人格をもろにぶつける相手はいなくなってしまう。そうすれば、刀の刃は使われなくなる。人を切ることも、人を切って自分や友達や家族を守ることはできなくなる。高校時代はそう、大切な時代だったのである。失敗も「バカ」で笑い飛ばすことができた、「バカ」で笑い飛ばしてもらえた、許してもらえた。多くの人々はそんな失敗も恐れ、自己を隠した。「当たり障りのない」人格こそ至高とされた。大学生活が本当の意味で大学生活になるのは時間を要する。慣れ、というやつである。その頃に刃を抜いたとして、自分と向き合って同じ様に刃を抜いてくれるやつはいるのだろうか。不確定である。高校の同級生はもはや敵でもなくなってしまう。語らいあうことはできるかもしれないが、それまで「成長」を意識せずに会話してきたものは冷静に、それこそ客観的に「成長」とされる。メタが純な世界に入り込む。今までの様にはいかない複雑さ。これに対応できる人間は、少ない。

含みとは何か。それは大人になってから治すことができる、という可能性である。しかしこれはとても過酷である。ほぼ100パーセント悲劇が伴うだろう。それも生や死といった人間の根源的な話題に触れる悲劇だろう。自己の安住が壊され、強烈な喪失感虚無感孤独感無力感に襲われた時にやっと可能性はでてくるのである。そこで刀を折られるだろう。精錬したつもりの刀は悉く折られ、使い物にならないことを知るだろう。その時にやっと新しい刀が手に入るのである。でも分かるだろうがその刀をどう裁くかは我々次第なのである。だから「可能性」なのだ。


そしてやっと、綺麗事の大切さに気づくかもしれないのである。