第23問 泉

このブログを始めた時から薄々気づいていたことだが、ここに自分の思いを開けっぴろげに書くことはまったくの浪費である。

なにかきちんと貯めてきた何かを消費しているようなそんな感覚である。加えて、脳みそをひりだして書いた文章たちがどんどん薄情になっていく。自分の手を離れ、読む人それぞれに解釈される。

そう思うと、本を書く人間というのは大きな泉を持っているんだろうなと思う。無論蛇口が粗悪なら大したことはないけれど、数多くある名著はいい蛇口である。

自分の考えの発露ほど怖いものはない。自分が大事にしてるニュアンスは正直、それを聞く人の半分も理解できないだろう。その真実は私をどっと疲れさせる。

強烈な無力感…

本当の知性とはわからない人にわかるように説明すること、というのはいたって真実かもしれない。

長い文章もここで書く分には映えるが、人にそんなものはいやでも送りたくない。ため息が出る。相手もうんざりだろうが、すごいもったいない気持ちにもなる。

小説が廃れる理由もわかるような気がする。長いものは嫌なんだよな。でも私はそうじゃないと思う。うん。でも分からないんだよな。

けれどそういう人間は得てして努力を怠っているだろう。私は一応努力はする人間だから、もうそれだけできっと生来的な齟齬なんだろう。


人間とは本当に多種多様である。自分の身の回りだけでそう思うのだから、世の中の人間の数がどれ程多いのかと考えると嫌になる。多数決とか、今の自分には虚しく感じる。虚しい。 

加えて自分は人を惹きつけるような文章が書けている自覚もない。今はただ書くことしかできない。


人間には奥行きがあるといわれるが、それは泉の奥行きのことかもしれない。今私は泉の奥へ進んできているのだろう。奥だから流れる水流も弱いのだろう。水源があることは確かなんだが、どうも今は確かめようとは思わない。色々なものがきっとこの先に進むと、普通ではなくなる。葛藤する人間らしさ、若さ、みたいなものの行き止まりかもしれない。これを超えると心はなかなか激しく動かなくなってしまうだろう。パッションは大切にしたい。


今日は殴り書きがしたい。そんな気分だから、夜にでもまた何か書けたらいいな。