第30問 international people

この英語は典型的な誤った英語である。和文を英文に直訳しようとするとこうなってしまう。

和文「国際的な人間」

について今日は少し書いておこう。

私を含め私の周りの人間には段々と国際社会に興味を持つ人間が増え始めた。国際的な人間とは即ち、国際社会で活躍する人間である。この国際的な人間というのは、本人の活動を類別した際に特徴から導き出される答えだから、本人がどういう意思でそうした活動をするのかは全く無関係である。ところが国際的な人間は、この意思で2つに大別できてしまう。

1つは自国の代表者として、活動をする人間。もう一つは、国籍などを問題にせず活動をする人間である。

私は国際的な人間になろうとする人々がこの分別をせずに、いわゆる上昇志向のままに活動をしているように思う。海外経験という大雑把なくくりで適合不適合を図る社会のあり方にも疑問を抱く。彼らの志向の源となっているのは、外国人との思い出であることが多い。何々人の何某さんとどうこうした、という記憶はそれは私は国際交流とわざわざ題目を打ってまで表明するものとは思えないのだ。それはあくまで個人とのつながりであり、その関係は国際交流なんていうものよりも大切な意味を持つのではないかと思ってしまう。経歴上の外国人との交流、という位置付けに置くことに抵抗感を感じながら、やはりそうしてしまう。もちろん具体的経験を明瞭な場合分けをしようとする姿勢自体かなり間違っているけれど、そもそもそれを立派な実績に類別する意識が流れる限り、この批判は避けられないだろう。もちろんこれに当てはまらないぐらい卓越した経験を持つ友人を知っているし、そうした人間にはこの批判は的外れなように聞こえると思う。

冷静になって考えれば、国際的交流の機会は富と非常に密接に関わっている。富がある人間は国の外に出る金がある。勉学をすることができる。国の外に出るのが危険とされる時代で、富が欠けて外に出ようとする人間はわずかではあるまいか。そうした人間を我々は勇敢だと思いはしないか。

安易に国際交流を自分の題目に掲げることの薄さを私は感じ取れてしまう。

先に挙げた大別がきちんと意識できていれば問題はない。自分は国の代表者なのか、それともコスモポリタンなのか。この認識は収集する経験の種類を変えるだろう。国の代表者は、私よりも公が優先されるわけである。即ち公として生きるに相応しい人間性が求められるのである。人間性とは求心力だとか人の良さだとかではない。軸とか分別とかそういったものである。なんとなくでは太刀打ちできないものたちだ。コスモポリタンは逆に公は一切存在しない。自分と気のあった人間とともに生きていく、同じ志向をその中で探す。人の命を救う、地球を守る、国と国の争いを止めようと奔走する、弱きものが殺される現実を伝え続ける。公はなくとも、それに勝る鮮烈な意思が必要かもしれない。鮮烈な意思は鋭利な私にしか宿らないだろう。そう思えば、どちらも難しい生き方かもしれない。

国際的な、はinternationalである。

国際的な人間、はinternational-minded peopleである。

コスモポリタンcosmopolitanである。


字義が本当は全てを物語っている。