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第31問 責任の所在 判断の拠所


浪人生として生きる中で、非浪人生即ち高校生大学生大人が涎を垂らして待ち構えているトピックがあったので今回はそのことを書きたい。

友達が増えていく中、友達の友達の不幸というか、挫折をこのところ度々と聞く。それは同じ人物についてのこともあるし、または別の輩のことが話させることがある。とはいえ、我々の話題として挫折している人間が幾度となく取り上げられることは大きく論じる価値があるだろう。それは簡単に言えば、我々は自己を挫折せずに努力しているという甘い認定をしているという事実があるということの告白である。この甘さは認めなくてはならないし、なくてはならないものである。というのもそれは我々が浪人生だからというわけではなくて、受験生としてそれは昨年も実は必要とされたものであるということである。今熟と感じるに、受験という関門には何らかの互助が必要である。皆が教室で脂汗をかくような状況は一にも二にもあってはいけない。彼らは受験生である前に学生であり、若さである。人間と人間の交渉を留めて得るものは何もない。自傷的孤独と虚無的敵意、この二つしかない。このことには大学生となった諸君も深くうなづいてくれるのではあるまいか。
そんな互助が欠けると、挫折は簡単に訪れる。今日挫折と言われるものは、私は助けがない、ということとほぼ同義だと思う。個人主義が声を荒げる分、今は個人個人に結果の責任が追及されている。たとえその個人が個人主義を望むことがなくとも、その一律凡庸な規則はあてはめられてしまうのである。人間は互助を切ることで楽をせんとしている。挫折はそして、助けのない人間に因果応報などと謳われて降りかかるのである。
さて私が今日昨日聞く挫折は以下の通りである。私の友達のAと同窓生のXという青年がα大学に入学したがどうも気風が合わず、早々に休学して予備校に入った。しかしながらその予備校も気が乗らず不登校になり、高校時代の友人皆と連絡を断ち切って、励ましのラインを送ろうものの既読もつかず心配もやまない、といったところだ。
私が挫折していると言ったのにはすなわちこの訳で、挫折が正しく現在進行形で起こっているからである。皆が楽しみにしている話題を提供できたようで大変満足である。
こうしたことがなぜ起こるのか。もちろん多元的であることは言うまでもないが、大事なのは何が起こったかと科学的に解釈しようとすることではない。人間を理解しようとするとき、人間から強く発される言葉感情行動はそれに向き合うに大いに値する宝である。我々は人間に触れ合うたびにその具体性に着眼し、法則化を避けなくてはならない。そのためにもタイムラインなどのように、一過性のある情報のアウトラインの収集をするような態度は辞め、一つの長編小説と向き合うかのように人間に向き合わなくてはならないのだ。
私が名も知らぬX君の作用を吟味するに思うことは、彼が責任の所在に困っていることが大きいと思う。簡単な話、運命の不条理と、因果関係に持ち込もうとする自らの姿勢が根本的にくいちがうことに何もできずにいるということである。もちろん無力感だとかそういうものが答えとされるものだが、そうした答えにX君が彼である必要はないのである。
そして彼には自分がなぜそういう決断をしたのかということが判然としていないはずである。一時の感情を後悔しているだろう。そうした感情の大切さに気づかず、冷たい誰かの言った自己責任という言葉に蝕まれている。こうして私が彼と彼の心を推定することは私の言及する具体性とはかけ離れたものである。しかしながら、心への接近を矛盾を建前に怠ることは許させることはない。心への接近は絶対的な価値を持つ。それは心がその持ち主にとってかけがえの無いものであることが証明する。
誰が彼に冷たくするのだろう。周りの皆は彼を気遣い、メールをし、話しかけているのに。親は彼の意思を目一杯尊重しているのに。社会である。社会と言われる誰もいない空間である。今社会と言われる社会に、我々日本人は誰も入りたがらない。入ったらそのままいなくてはならない。早く出たいと思う。そういう空間である。誰もいない空間に我々は"one of them"として飛ばされてしまう。彼の心に接近するのは私たち個人の心なのに、彼には社会が接近するようにしか見えない。

こうした構造は様々な場合に当てはまる。
私たちは友達を社会の一部として捉え、接している面がなかろうか。彼に、彼女にこのことを言ってはいけない。いったら社会に弱みを握られる。
不信とは私たちが早急に解決しなくてはならない大きな問題だと思う。個人主義にかまけている時代は我々が意図せずともすぐさま壊れていくだろう。