第41問 我々を語るものは何か

今日は少し根本的な話でもしようか。

題目を勘違いしないことが、ここから先の私の評論を聞くことでは大事なので是非気をつけてほしい。

「我々が語るもの」については今回は論じることはない。「我々【を】語るもの」について論じたいのである。

私は無謀にここで一つ答えを提案したい。

目である。目とはすなわち、その人間が何を眺め、何を横目で流し見るのかということだ。でももっと掘り下げられる人間ならば、何に涙を流すのかということも一つ意味がある。

この文章を読むあなたはいつも何を見ているのだろうか。鏡に映る自分の顔だろうか、通り過ぎる異性のかたちだろうか。別に深く問う必要はない。ただ思い出してほしい。

我々が見ることに使う目というのは予想以上に我々の思考に汚染される。普段何をナマコに収めるかが意図せずとも我々の目を形取っていく。 

目を細めて物を見る人の目は細い。空(くう)を見る目の焦点は我々の顔に会うことはない。人を嘲る人間の目は、どことなくなじみにくく、我々の姿を長時間収めることはない。

子供を見る人間の目にはシワがより、目と目の周りが使い古される。真なる若者の目は真っ青な色をしている。多くの事実を知った老人の目は緑色である。子供の目を見る親の目は、常に下を向いている。本当には下を見ていなくても向いている。

あくまで感性的な話だ。個人的な感想だ。だけど的を射ている。気がする。

あの人が偽物であると私が確信する理由は、目に過ぎない。でもそれで十分である。私は人を見つめ続ける力のない目が街に多く溢れるように見える。グロテスクな画像からは目をそらしてしまうのだろう。


あくまで私の感想であり、それ以外の何でもない。だが鋭利な人間にはどこか共感してほしいな、と思ってしまう、そういう話。