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第43問 着せ替え

我々の世代は他の世代に比べれば圧倒的に母数が少ない。これは個性重視の風潮と相まって、我々の可能性は無限大に広がっている。すなわち、他の世代で半ば自虐的に言われる「量産」の気質はどこか我々の世代には無関係の話のように思われるのである。

しかしながら、母数が少ないにもかかわらず量産が終了したかと言われればそうではない。これは、別に教育のあり方を批判するわけではなくて、単純になぜ母数が少なくなった今でもなお量産が続くのかという疑問への筋道である。

今の量産とは何だろうか。私が今思い浮かべるのは海外志向である。これは多分エリートに限る話であるだろうが、ここ数年での海外人気は目を見張るものがある。最近の私は海外経験に対してすごく厳しい。というのも、もはや海外経験がアドバンテージになる要素はだいぶ小さくなっているからだ。金と意志さえあれば、今や誰でも留学できるし旅ができる。むしろ目立つのは留学した人が持って帰ってくるものの少なさ、ちっぽけさである。日本人として海外を解釈することは到底かなわず、薄弱な意志は強烈な自由主義に浸って定規を狂わせて帰ってくる。基準が海外であることは、それが先端であることとは異である。仲良くやる、のは正直日本人同士でもできる。国籍が違うことが仲良くやることのハードルを下げてくれて、「異国人の友達ができました」、では推測可能な知れたことなのだ。

帰国子女と言われる集団は、私は総体的に解釈力が低い印象がある。バイリンガルであることのマイナス面かも知れないが、一つの事実に対して一つの言語で考え通せないのではなかろうか。そのために都合よくもう一個の国の慣習を流用せざるをえないという、優性よりもむしろ劣性によって要請された結果なのであると思う。

私はもう一つばかり辛辣な意見を用意している。近年の急速な海外偏重を促すものを一つあげておきたい。それは白人への根源的な憧れである。我々アジア人は彼らをプラスの意味で異なると考えている。やはり容姿の憧れは本能的に遮れない。ハーフの人は美しいとされるし、実際に私も美しいと思う。だが、ここですり替えが起こってしまう。白人への憧れが海外への憧れにすり替わるのだ。この無意識的な変換は誰もが指摘されうる点であるし、逃れられない感情である。

物事の本質とは時に残骸みたいな時がある。