第44問 病院

今日私は病院にいた。特に自分の用ではなくて、人の見舞いに行った。

病院というところは、健全な人間には本当に悪い意味で刺激的である。早く帰りたくなるようなそういう空間だ。若い人の経験とかそういうものに置換されるような場所とは違って、そうでない人々にはあの空間がいかなる意味を持つのかというのは、ものを考えるようになればなるほど辛いものである。

行人で三沢は入院するけれど、あの時感じる血色の悪さが確かに消毒の匂いを伴って、今日の私に思い出された。

私の知り合いには医者になる予定の人がかなり多くて、私は将来どんな病気をしようと安心なんだけれど、冷静に病院という場所に彼らが勤め続けるのだろうかと思うと、とうとう自分にはできないようなそういう目を覆いたくなるような未来に感服するのだ。嗚咽を誘うような尊敬、自分には到底できないことを彼らがやるのだという現実が私を襲うのだ。

病院は家族が一人乗組員をその葉の先から、雫を一つ垂らすように下ろす場だ。朗らかで闊達なものは失せ消え、萎んでいく垂れた肉こそがその場を作り上げるのだ。人間は我々の意思とは真逆に衰えていく。

人間は強烈な弱体化のベクトルの上を生きるのである。

若さはまやかしだ。深い霧が私たちの足元を消して見せようとしない。我々は芽として茎を持ち、幹を持ち、その先端を伸ばしていく。

老いは獲得されて、私たちの若かりし頃を想起させる。弾むような肌、鮮やかな紅の唇、しなやかな手先、シワのない目尻。

医者とかそういう物は、金とかそうしたもので語るには重すぎるかもしれない。あの空間の中で生きる人間。生きることが輝いてしまうあの空間で、輝きを消しながら灯火に寄り添う。

意義を考えるにはあまりに暗いあの空間で、自分に光を感じながら生きるのは、私が言う「人間らしさ」を持つ人間にはすごく難しいことなのかなと思う。逆に言えば今を流れに乗って生きていく人間にはたやすいことでもあるのかもしれない。

大江のあの雰囲気。あれはまさに今日のあれだった。

恩師の「大江健三郎が最後。」という言葉の意味をようやくわかりはじめた。