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第46問 流行り

蚊帳の外から人間を客観視することが最近正しいこととして人々に受け入られていることに、私は素直に違和感を持つ。
確かに学問をする上では必要不可欠なものの見方だけれど、それを日常生活の対人関係に持ち込むのは温かみに欠けてしまう。
テレビのコメンテーターのような、ネットの「正論」のような他人行儀はインテリジェンスとは少し違うものかもしれない。
誰にでも同じ話をしている人は、多分この相手のグラデーションをイマイチ理解していない。まるでツイッターのフォロワー、フェイスブックの友達、のように人間を線を引いて考えているのかもしれない。
ツイッターなんかとてもそういう意味で有用だなあ。半匿名で、フォロワー全員に一度に同じ話ができるわけであって、目を見るときの怖さとか、そういう類のものからは完全に解放されている。そこで「正論」を語ることは多分とても快楽の伴うことなんだろう。「正論」の温床とでも言おうか。感情的なツイートが炎上してしまうのも、いわゆるネットリテラシーがないから、という実は意味不明な論理だったり。
ここでネットを包括的に述べること自体、そういうものをよくわかってる方々はナンセンスだと思ってるかもしれないな。なんとも恥ずかしい。
出来立てホヤホヤの思想の場を今支配している動きは即ち「正論」で、うまいことを言ったものが勝つ空間になっているのだろう。
それでは、私がこの場でこうして意見を表明することはどんな意味を持つのだろうか。少なくとも書いてる側からすれば、常にそういう正論と戦ってきた気がしている。だから、飽きれられたり、理解されないことが多かったのかなと思う。でも別に興ざめな意見でもないかなとも思っている。だからある意味、そういう秩序みたいなものの抜け道みたいなものなのかもしれない。
ツイートって正直フォローしている限り、見ることを承認してみているわけで、「全世界に発信」みたいな論理は少し飛躍があるように思ってしまう。しかし、リツイートとかネットニュースなんてのはこの意見の欠点を突いてきて、痛いわけである。だからまあ完全に、プライベートなネット空間に自分の責任でもって引き込ませることで多少自由なことも言えるようになるのかな。
百何文字かで収める工夫なんかも、こういうブログでは一切いらなくて、逆に「鋭い意見」なんかも別に書かなくていいわけである。だらだらと書きながらも要所要所で、話を締める、っていうのも大事な力なのかなと思う。その分、普段の要約的なコミュニケーションに慣れている人たちにとっては理解しづらいものになってしまうのは難点ではあるけれど。
簡潔さみたいなものも、客観性のコインの裏表にある感じがして、今のところ好きなものじゃない。「要するに〜」は、なかなか言われる方はイラっとするが、きっときちんと纏まった言い方をしない人が悪い、というのが今の言論の風潮からすると正しい意見になる。
本当は正論みたいなものが出すぎると、集団的な感情でものを考える力が衰えるんじゃないか、みたいなことを書こうと思ったんだけれど、「アレ」に似てることが気づいて止めた。(まあわかる人にはわかるよね、今度話す機会があれば当ててみて)
要するに、私からのひとまずのメッセージはネット社会には形式がないのだから、形式的な意見発信をしすぎるのはよくないんじゃない?ということだ。

今回はいろいろな意味で面白いことが書けたような気がする。