第52問 個別具体への諦念

大学生活が始まり、殊更に感じるのは人間というのは多様であるように見えるということだ。本当に千差万別というのは文字通りで、真実なように感じられる。ただ高校時代の彼や彼らが時に昔の面影を残し、時に踏み潰すのをこの目で耳で感じる時、その多様性という言葉の如何に空虚なことかを感じる訳である。役職や学ぶことが多く増え、人に様々な要素が重なることでそれは多様と呼ばれるのかもしれない。しかしながら当の本人たちはその生態系は専ら自覚していない様子である。つまり、あらゆる共同体において彼らが何らかの立ち位置を争って奪い合って、見せつけ合っていることは事実で、自分の多様ぶりの発露なんてものは彼らの頭の片隅にもないのである。しかし大学は色々な人がいる、なんていうのがありきたりの言葉として溢れかえっている。では、生態系の多様性は愚かな人間には感じ取れないほど微細で美しい、精緻なものなのだろうか。私には到底そうは思われない。人間というものを彼らが分かっていれば、その言葉には一瞥の価値があるやもしれないが、私の見る限り私を含め、人間という観念の正体がわからないからこそ、多様性という煙の中に言葉を、人間を隠すのだと思う。諦めの中に、諦めが故に多様性という言葉を我々が好んで使うことを素直に認めなくてはいけない。ある種のダンディズムとして、挨拶として、合図として、多様性は用いられる時に、その諦めは裏側で輝く。しかし、多すぎる人間に口ずさまれる時、どうしようもなく素敵に吹き抜ける風は失われてしまうのだ。