第57問 肌と嘘

私は法学徒としていくつか法学の基礎たる理論の部分に対して違和感を持っている。最近ホッブズを読むけれど、ホッブズからロックを経てルソーに至る流れの中で一つの基調となるのは、いわゆる「社会契約論」というやつで私はこいつがどうしても1年2年前ぐらいから、不自然な人工物みたいな物のように思えて仕方ない。というのも、自分たち人間が産み落とされたその瞬間から契約を結んでいるような感覚には到底思えなくて、むしろ、そうした理論を採用する社会の必要から仕方なく結ばされているような気がしているのだ。これは勿論一つの論点としてそもそもこの理論の母なる大地が私の住むアジアではなくて、文化を異とするヨーロッパであるというのはあるだろう。そもそも日本においては法意識の観点からしてみても「契約」の考え方みたいなものはないし、双務的関係というよりも片務的関係が日本においては旧来的な部分で大きな部分を占めて来ているというのは数々の思想家たちが明らかにして来ている事実であることは、このブログの読者ならご存知だと思う。その非真実性についてもし気になる人がいるのであれば、きちんと本をベースにして議論したいところである。

さてそういう「契約」の話もそうだけれど、我々の肌になじまない理論はいま世界に溢れてはいないだろうか。感覚的な言葉を用いるなら「脳みそを滑っている感じ」。理性的に正しい”はず”の理論を無理に覚えこまされているような、知覚を通してその真実性の判別がつかないこの感じ。学問の本源的な理由が世界の解明たるならば、それが果たされているのか皆目見当のつかない感じ。

なぜこうした違和感が生じるのだろうか。単純に私の体から産み落とされた理論でないからだろうか。でも言葉として形を持った言説のうちでも、確かに自分の実感覚に淀みなく染み入ってくるものもある。つまり言説の他者性はそれ自体が私との敷居を乗り越えるものであることは間違いのない事実であり、そこにはこの問題は帰結しない。私が直感的に感じるこの差異の生じる理由は、一つにその理論の傲慢さがあると思う。これはその話者たる人間の傲慢さなのか、それとも純然としてその理論に傲慢さが含有されているのかは定かではない。これはある程度学を積み始めた人間が感じる「断定」への違和感のそれと同根なのではないかと疑っているけれど、感覚的に言えば、自分の気持ちに寄り添わずに自分の中に侵入して来ようとしているものへの警戒心なのだと思う。でもこの肌になじむ感覚というのは一重に言葉が背負う宿命なような感じがしている。もし言葉が人間の動物としての社会性を裏付ける根拠になるのであれば、これは必然たる事実である。だが時に「断定」が我々の若さを呼び起こしてくれることはあるし、仲間や師弟での会話ではそうしたものはつまずく石にもならずただの景色になる。

自分の生き様にこれを転化してみると、自分が言葉を紡ぐ時に第一に気をつけているのはそういうことだった。そうしているつもりだった。別に万人に受け止めてほしいからとかそういうのではなくて、自分の言葉をどうしても伝えたい相手がいつも何かしら具体的にいて、そうして人間にほぼオーダーメイドで言葉を紡ぎあげている。その人が抱えて来た経験が言葉からにじみ出て来た時、出てくるのを感じる時、その人にとってこの言葉はそういう意味なんだと理解して自分の言葉との色味の違いを楽しむ。そして相手が「そうした」器たる時、自分の言葉の色を伝え、二人で色の違いを楽しむ。でも結局的には私がそんな風に語り合う相手は、自分と同じように言葉を読んで来て色んな物事を吟味してきた人間になるから、本質的には二人はその重なりを楽しみにしていている。こうした上澄みみたいな楽しみは慣れていかないと味わえない。そういうコミュニケーションを大事にして生きて来た人間にしかできなくて、そういう人間だからこそそういうコミュニケーションを好む。アプリオリな、デカルトが神の存在を解き明かした時のような、結末に行き着く。

そういえばデカルトで思い出したけれど、ヴィーコにこの半年で出会えたことは本当に奇跡だった。というか反合理主義思想総体に出会えたことは本当にかけがえのない財産だった。まあそれはいいや。川端を読もう。中島を読もう。

違和感の根源は外的なものによるというのが大筋の私の意見である。勿論それを内在的な自分の心のせいにして「精神的向上心のないものはばかだ」ということもできるけれど、それが行き着く先は自殺だ。ある程度成熟を経た段階で自身の内面的問題に帰結を求めるのは、その行為の自己完結性に逃げる行為であることはどうしても認めなくてはならないし、自己の社会性を蔑ろにする姿勢は理由の見つからない孤独感を我々にもたらすだろう。勿論反省を自分の行動様式に組み込んでいることがこの議論の前提にあることは、私の仲間と呼ぶことのできる人達だったらきっとわかってくれていると思う。その孤独感は転じて、安直に人肌をくれる恋愛にその解消を求めてしまって、本質的な意味での恋愛、即ち家族に変化しうるという生来的な要素をきちんと孕んでくれている恋愛は手元から離れていってしまうのかもしれない。そういう人間を一人見たことがある。

私は「人生一生勉強」という言葉に踊らされすぎているのかもしれない。

確かなのは生き続けることは分からなくなっていくことだということだ。例外に例外を重ね、その中できちんと他者に向き合って、自分を大切にしていくためには「自分が悪い」だけでは到底足りない。世界の膨張のスピードを理解しなければならないのだろう。私は自分の儚さ、脆さ、ちっぽけさ、不勉強さを感じるからこそ”ひとまず”この考えに行き着く。それこそ海を瞳で収める瞬間に嘘がなくて。肌に嘘がなくて。