第84問 優しさは連鎖して

週に一回する電話は今日はなかった。

朝からずっと泣き続けていた自分としては、今日一日は一人の時間にしたかったから、それでよかった。物思いにふけりたかった。

その友達も今夜は、誰かのそばでその人の涙を拭いているらしい。

優しさは伝播して広がっていく波のようだ。

海の波の表現を思い出す。三島由紀夫の書いた海の波。

ここにすこしだけ引用しようと思う。

海はすぐそこで終る。これほど遍満した海、これほど力にあふれた海が、すぐ目の前でおわるのだ。時間にとっても、空間にとっても、境界に立っていることほど、神秘的な感じのするものはない。海と陸とのこれほど壮大な境界に身を置く思いは、あたかも一つの時代から一つの時代へ移る、巨きな歴史的瞬間に立会っているような気がするのではないか。そして本多と清顕が生きている現代も、一つの潮(うしお)の引き際、一つの波打際、一つの境界に他ならなかった。
……海はすぐその目の前で終る。
波の果てを見ていれば、それがいかに長いはてしない努力の末に、今そこであえなく終わったかがわかる。そこで世界をめぐる全海洋的規模の、一つの雄大きわまる企図が徒労に終るのだ。
……しかし、それにしても、何となごやかな、心やさしい挫折だろう。波の最後の余波(なごり)の小さな笹縁は、たちまちその感情の乱れを失って、濡れた平らな砂の鏡面と一体化して、淡い泡沫ばかりになるころには、身はあらかた海の裡へ退いている。
かなりの沖に崩れかかる白波から数えて、四段か五段の波のおのおのが、いつも同時に、昂揚と、頂点と、崩壊と、融和と、退走との、それぞれの役を演じ続けている。
あのオリーブいろのなめらかな腹を見せて砕ける波は、擾乱であり怒号であったものが、次第に怒号は、ただの叫びに、叫びはいずれ囁きに変ってしまう。大きな白い奔馬は、小さな白い奔馬になり、やがてはその逞しい横隊の馬身は消え去って、最後に蹴立てる白い蹄だけが渚に残る。
左右からぞんざいにひろげた扇の形に、互いに犯し合う2つの余波は、いつしか砂の鏡面に融け入ってしまうが、その間も、鏡のなかの鏡像は活発に動いている。そこには爪先立った白波の煮立つさまが、鋭利な縦形に映っていて、それがきらめく霜柱のように見えるのである。
退いていく波の彼方、幾重にもこちらこちらへと折り重なってくる波の一つとして、白いなめらかな背(そびら)を向けているものはない。みんなが一せいにこちらを目ざし、一せいに歯噛みをしている。しかし沖へ沖へと目を馳せると、今まで力づよく見えていた渚の波も、実は稀薄な衰えた拡がりの末としか思われなくなる。次第次第に、沖へ向かって、海は濃厚になり、波打際の海の稀薄な成分は濃縮され、だんだんに圧搾され、濃緑色の水平線にいたって、無限に煮つめられた青が、一つの硬い結晶に達している。距離とひろがりを装いながら、その結晶こそは海の本質なのだ。この稀いあわただしい波の重複のはてに、かの青く凝縮したもの、それこそは海なのだ。
p271『春の雪』(新潮文庫版)

俺の優しさも人からもらったんだったと、思い出したのだ。

もらったものしか与えることはできない。