第167問 一休み

ヨーロッパを回って、祖母の通夜を逃して、日本に帰国して、祖母の告別式に参加して、親友との卒業旅行をこなし、家に帰ってきた。

 

ここ1,2日寝ても寝ても疲れがとれない。

 

日中も少し疲れると眠り込んでしまうし、かなり自分の精神的な限界の寸前だったように思う。

楽しいことが多いけれど、その分僕の心と身体は疲れているということをしっかりと考えなくてはいけない。

今日の残り、明日明後日は最高裁から出ている司法修習の課題をこなさなくてはいけない。期限が差し迫っている。

 

いろんな考えをここで書き残しておきたいとは思っているけれど、今はまだ筆が動かない。身体も心も凝り固まっている感じがする。

身体をしっかり休めて、自分に優しく向き合う時間を取ろうと思う。

 

藤井風の新曲が出て、久しぶりに音楽を聞きながら街を歩くということをした。

何気ない日常は長いこと失われていて、だからこそとても尊く思った。

新しい歌は、背伸びのないいい歌だと思った。

 

洗濯物が干してある様々な誰かの生家を見ながら、この平和と穏やかさは素晴らしいと思った。

第166問 気の緩み

本来なら僕は今頃自宅に帰っていて、早朝に家を出発して祖母の告別式に参加しているはずだった。

しかし、僕は今中国上海に滞在している。

そう、上海にいる愛人に会いに行くことに決めたのだ。

 

というわけではなく、トランジットで飛行機を乗り逃し、上海に急遽宿泊することになったのだ。

 

このブログは繋がるみたいなので記念に書いておく。他のSNSもウェブも全てつながらない。

もしこのブログを読んでる人がいたら誰かに伝えてあげてほしい。

俺は今上海にいて葬儀に間に合わないと。

今日の昼に成田に着くはずだが完全にタイムオーバーなのだ。

第165問 C’est la vie

さっき叔父から電話があってお婆さんが亡くなったらしい。

デイサービスから帰って来て、1人で風呂に入ろうとして溺れてしまって、浴槽で浮いた状態で亡くなっていたそうだ。

叔父さんも取り乱していて、母とは連絡がつかないので、と僕に連絡をよこして来た。母は携帯を見ない人なので仕方ないが、母に悲しい知らせをする役割を僕が担うことになるなんて。

僕は旅行で今フィレンツェを訪れていて、もっといえばこの文章を書いているのはローマに向かう特急電車の中である。

 

母親が心配だ。

弱い人だから、きっと助けを求めてる。

一応予定としてはもう二、三日で日本に帰る予定で、タイミングとしては最悪というわけではない。予定した通りに帰国して、そのまま葬儀に参加しようと思っている。

僕が帰るまでの間、彼女はちゃんと持ち堪えられるだろうか。

一人で過ごすことができるだろうか。

 

涙は出ていない。

ただまたこうやって揺らぐ僕の人生をただ見つめるのみである。

一難去ってまた一難。

この連続である。悲しみは枯れぬ。

 

ローマでまた彼女と落ち合うけれど、言うべきだろうか。せっかくの雰囲気が台無しになってしまうような気がするし、なにより一から家族の話をするのも今じゃない気がする。

ただ祖母が死んでしまって忙しくなりそうだということは伝えるべきであるようにも思う。

 

まだ言葉にしきれない思いがたくさんこの旅行にはあるのに、重たいものをまた背負うことになった。

僕の人生はいつだってこうだ。

 

たまに、こういうときに誰かに助けてって叫びたくなるんだ。

高校生のとき多分誰にも言えないけどずっと叫んでた。誰かに助けてほしいって。

でも誰にも届かないし、助けられない。

本当に悲しい時はそういう気持ちになるものだ。

 

うん、また思い出した。

僕は高校生の時に誰かに助けて欲しかったんだった。

 

いまはもはや僕が家族を助ける番になろうとしている。時は経つ。

僕はちゃんと生きてくための力がついただろうか。

 

もっともっと僕はこの旅行であったこと、会った人とのことちゃんと考えて言葉にしたいのに。

もはやそういうものさえも僕は人生に奪われるのだ。

強くなったけれど、自分の人生の切なさに少し寂しくなった。

第164問 小一時間

小一時間眠ろうと言って、うっかり2時間3時間寝てしまうなんてことはたまにある。

今日は僕は絶対それをしてはいけない日だった。なんせ、5時にホテルを出て7時の飛行機に乗らなくてはいけないからだ。

2時半ごろ僕は床について、好きなラジオを聴きながら、うとうとした。大量の目覚ましを設定して、一眠りした。

目が覚めれば3時半。完璧な一眠りだった。

 

そんな広げてもいないキャリーバックから必要なものを出し入れして、意識朦朧としてシャワーを浴びた。

熱いお湯はどの国でも信用できる。

 

一通りの準備を終えて、僕は彼女からのラインを見た。一眠りする前に電話しようかなと思ってたけど、寝ぼけて電話するのもなんだしなと、やめたのだった。

イタリアへ来る準備を済ませた彼女はいつも通り優しいメッセージで、僕は旅の疲れがどこか癒される気がした。

結局シャトルバスを待っているときに電話をかけていた。

 

優しくてあったかい声が大好きだ。

フランクフルトで電話してから聞いてなかったから、体が欲してた。

今までなんど好きだよって言ったかな。

 

一番時間が過ぎるのがあっという間な人。

どれだけ時間があっても足りない。

 

シャトルバスを待つ間も、乗っている間も、1人でいたら何だか長く感じる時間が、電話してるだけで本当にあっというまだった。

 

君が話してくれたこと。会うたびに僕はノートに書き残してる。

好きな食べ物のリスト、毎回増えてく。

日本を出る前にくれた大好きだよのラインを見ても、フランクフルトでしてくれたあげたお花がまだ咲いてるよって話も、前のお別れ際僕を改札前まで見送りに来てくれた時も、僕は君にいえないけど泣いてる。

 

僕は君が僕のことを好きでいてくれるのを感じるとき、涙が出ちゃうんだ。

君の思いは色々遠回りの人生を歩んできた僕には、耐えられないぐらいの幸せです。

そばにいてくれるのがあなたでよかった。

 

オルリー空港でまた君を思って泣いてる。

不思議がられるからいい加減にしなくっちゃ。

第163問 パリの雨で

ヨーロッパを色々と見て回って、ここ数日の自分はいままで感じたことのない疲れを感じていた。

色々したいことが多すぎて眠る時間が削られてしまうのもあれば、落ち着いた寝床が手に入らないことでしっかり休めないこともあるかもしれない。

国ごとに違う言語、文化、雰囲気、そして人々の様子を感じようとして、できるだけ適応しようとして、そういう積み重ねがすこし出来上がっては消え去る日々は、意外にタフだ。

孤独でいることが辛いというのはなく、孤独でいることで警戒されるのにひどく疲れる。

パリに着いて、僕はくたびれてホテルのベッドに横たわった。

ホテルの居室もヨーロッパは一人だけが使うためのものは多くなく、大体が二人以上が使うようにできあがっていて、無駄に広くて枕が2つベッドは毎日自分が一人でいてはいけないのかと思わせる。

今日はもう少し雨が降る予報だったが、やはり自分は晴れ男で曇り程度に抑えることができて大満足だ。

アムステルダムでみた夕焼けがあまりに綺麗で、もはや建物や雰囲気ではなく、太陽が作ってくれる日差しと景色に僕は嬉しさや喜びを感じるようになっている気もする。

疲れ切った僕だったが、どうしても今日の予定は休むことはできなかった。

 

 

久しぶりにあなたに会うと、自分は思っている以上に緊張も恐怖も抱いていないように思った。むしろ、改札前で待ってくれていた姿を瞳に収め、穏やかな気持ちで安心していたように思う。

街を歩き店に向かう町並みを通り過ぎて、席について穏やかにゆっくり話すと、僕はあなたのことをすごく好きだったときの自分を思い出した。

ひどく僕はあなたが好きだった。あなたの何が好きなのかもわからず好きだったのだと思う。冷静な判断が積み重なって好きだと思ったのじゃない。

ただ、君の瞳に吸い込まれていくように好きになっていった自分がいたのだと思う。

多くの月日が経って、ますます綺麗になったあなたに、「綺麗だね」と言うことができなかった。「綺麗だ」と思っていることが伝わればいいなって思った。綺麗にしてある爪も、素敵なゴールドのイヤリングもとても美しかった。

時間は多くのものを解決してくれる、本当にそう思う。

むかし、たくさん流れた涙が乾いていたことにやっと気付かされた。

 

お別れの時間を早々に伝えるあなたを引き止めることはできないし、引き止めてもきっと僕は役不足だ。

それでも、一緒にいる時間が終わらないでほしいと思ったし、探しものも見つからないでほしいと思ったし、帰りの電車が着かないでほしいと思ったよ。

僕はあなたと一緒にいるとき、こんな気持ちになるんだね。

 

 

お別れして降り立ったホテルの最寄駅にも雨は降っていた。

雨がやっかいだと思っていたはずだけど、それほどまでに街に降る雨を愛おしく思ったことはなかった。

第162問 抱きしめられると

かなり前の話。

 

心も体も美しい人がいる。

あなたは、まっすぐな瞳で僕を見つめ、僕が伝えようとしていることを感じ取ろうとする。

 

はるばる東京にやってきた彼女にとって僕はどのように見えていたのだろう。

別れるとき、彼女は僕の胸で泣いた。僕は彼女を抱きしめていた。

 

「あなたにあえて良かった」と僕に向かって言った。

何分も、もしかしたら何時間も抱きしめていたかもしれない。

 

肌が合っていたのかもしれない。

なぜ僕のことが好きなのと聞いても、直感でしかないと言った。

結婚したいって思ってるんだって聞いたら、そうだよって言われた。

 

結婚したいって本当に思っていたのだろうなと思う。

でも、僕はそうは思わなかった。

 

太陽の日差しがあなたを照らし続けますように。

太陽のようなあなた、太陽のような僕。

自分の中にあるものをこの人も持っているんだなって思っていた。

 

きっと絶対忘れてしまう物語。

僕は、送られてきたスタンプを見て、泣いた日のことを書き残そうと決めた。

 

雪が降った次の日。晴れた日に飛行機で元いた場所に帰っていった。

第161問 セダクティブ

1 ロールズの正義論

今、僕はロールズの正義論についてレポートを書かなくてはいけないのだが、今日の午後に大体何を書くべきかの目処を立ててカフェから家に帰ってきてなんだか疲れ切っている。

家に返ってくると電源オフに最近はなってしまって、その癖で気持ちがたるんでしまった。

ロールズの正義論は「自由原理」と「格差原理(社会的・経済的な不平等の許容)」という2つの原則から成り立っている。

功利主義的な社会契約論を修正するカント以来の立場の承継を行うロールズの前提的な立場と、これらの2つの原理そのもの、そして原理の誤謬と修正がレポートのテーマになる。

面白いのが、ロールズの正義論は功利主義批判を内在していることにある。

最大多数の最大幸福みたいな考え方について、功利的な発想を排して、人間の道徳性を基礎として社会状態を構想していくのだ。

この道徳性は、正確に言えば、人間はありうるリスクを回避する「合理性」を有するというところに依拠していて、功利主義の掲げる合理性とはまた質的に異なるものを示す。

自分が弱者だったらひどい境遇になるのは嫌でしょう、だから社会的に最悪の場合の結果が最善となる選択肢を採用しましょう、だから機会の平等と努力によって生まれる差異が存在することは許容しながらも最低限不遇な人々を助けましょうという格差是正理論を構築する。

 

ロールズについてきちんと勉強してみると、彼は自由・平等・正義・権利といった法的に重要な概念を一つの理論に酔って紐づけた大法哲学者であり、その痕跡の偉大さは福祉国家理論の正当化という範疇を超えて存在し続けていることに気付かされるのだ。

 

そういえば驚いたのが、ためしにChatGPTにロールズの正義論について英語で喋らせたところ、かなり大筋で正しいことを言っていて、すごい段階まで人類の知性は来ているのだと感じる。

 

2 性的な事情について

こんなまじめなことを考えながら、一方最近自分は最近性的にある意味においてまた異なる段階に入ったように思う。

性についてかなり奔放さを手に入れたというか、自分の性的なリビドーの解放について肯定的に(しかし正確に言えば快楽的になのかもしれないが)捉えることができるようになったと思う。

長年自分の中にあった禁欲的な発想が大きく弛緩したと思う。

そのため、自分の性的な魅力にも比較的フラットに気づくことができ、そしてその活用がしたいとよく思うようになっている。

 

端的にいえば、自分はおそらく性豪の部類なのだと思う。

試験が終わって非常に開放的に性に向き合っているが、自分の精力の強さも性欲も人並みではないことに気づいた。

いろんな男友達と話すところ、異常だとさえ言われてしまうレベルらしい。

いわゆる絶倫というものなのだろうか。

果てても体力的な限界が来ない限りは、全く休むことなく続けることができるし、持続する。

しかも、本当に一日に何度でも果てることができるし、実際自分でも怖くなるほどだ。

自分がここまで人生で強いエネルギーを持って生きてきた理由は、もしやすると性的なエネルギーが非常に強いこともあったのかもしれない。

しかもありがたいのが、強いエネルギーが有る一方で、コントロールが比較的うまくできることにある。アクセルの馬力が強ければ、ブレーキの圧も波ではないという感じだ。

自分の中にあるこのアクセルとブレーキの高性能性に気づく中で、車で言うなら快適なドライブをすることができるとき、なんとも言えない高揚感に包まれる。

 

それがただの雰囲気の問題や、男を立てるという女のありがたい配慮の問題かもしれないが、自分のセダクティブさが異性を魅了するときに、自分は男としての自信を胸に刻む。

 

性生活の充実。これは自分にとっては、人生において極めて重要なことに気づいた。

性的な強いエネルギーをぶつけ合える女性にちゃんとそばにいてもらえることが、一つ大事なことだと最近は思う。

その意味で女性の魅力の解像度も自分の中ではますます上がる。

すなわち、性格的な魅力と身体的な魅力が個人と個人の幸せな時間を過ごすという関係性にとどまらず、セックスの良さに結びつくというのが今の自分の見解だ。

インスタグラムの華やかさみたいなものは、個人と個人のつむぐ時間の豊かさという話には関係がないし、セックスにおいてはみための問題は希釈されるから、全くといっていいほどどうでもいいものになるのだ。

女は、どれだけ楽しい時間を一緒に過ごせるか、とどれだけ自分好みのセックスができるか、この2つで自分にとって異性としての意味合いの深さが変わるのだということに一つ気づいた。

 

いままで、プライドとコンプレックスで人は絶対に幸せになることができないと強く主張してきた自分であるが、これはセックスの文脈においても全く当てはまる。

そういう瞬間においては、二人だけしかいないのであって、その空間外の人間の評価はあまりたいした問題ではない。

人の目をきにして生きている人間にとっての性生活の価値は、そうでない人間に比べて低くなるのかもしれない。なんて非人間的で貧しいのだろうか。

 

インスタグラムやSNSが華やかな人は、セックスをちゃんと楽しめない人なのではないかという仮説を立てて、今日は終わろう。