第93問 浴槽がいっぱいになるまで

生活や暮らしの中で、波に飲まれ、塩に揉まれ、溺れるように進む。

一時の集まりで、君の姿を追う。

新しいめがねを買うとき、まじまじと見つめる自分の顔。

自分の望む幸せの形はなんなのかと思いを馳せる。

この思いが重なるその瞬間をずっと探している。

寂しさは降り積もり、人のぬくもりで融ける。

俺の愛は乾燥しているのかな。

冷めゆく秋に、人々に愛情が届いていることを祈る。

 

熟成されるように、思いは深まっていく。

素直に生きることしか今はできない。

目が合って湧き上がる感情に嘘はない。

思いが伝わればいい。

 

日々美しくなるその姿に、俺の逞しさは追いついているのだろうか。

君に訪れる寂しさを、俺の言葉は温めているのだろうか。

愛や優しさを君に注ぐ。

君の浴槽の栓が塞がるまで、俺は温かいものを注ぎ続ける。

適当な人間にはできないことさ。

 

君を笑わせ、ときめかせ、流す涙を拭けるような、そんな男でいたい。

第92問 2020年9月のお気に入りの文章

20200901 遠藤周作『深い河』について

遠藤周作の「深い河」を半日で読み終えた。
三島の豊饒の海を思い出さずにはいられない作品だった。
あとがきにもあるが、遠藤もまた三島と同じく、己の人格を登場人物に分け与えるように、複数の登場人物とガンジス川とその下流の街バラナシとの巡り合いを描いていて、豊饒の海を今年読んだ人間としてはこれ以上ない感動があった。
三島と遠藤は、戦後日本の文藝を同じ時代の中背負った二つの巨塔であり、先に旅立った三島への弔辞とも思えるようなこの作品に込められた何重もの意義に、そしてドラマティックなストーリーに、深く心打たれた。

俺の仲のいい友達が、宇多田ヒカルの”Deep River”という歌が好きで、その歌の

点と点をつなぐように
線を描く指がなぞるのは
私の来た道それとも行き先
線と線を結ぶ二人
やがてみんな海に辿り着き ひとつになるから
怖くないけれど
いくつもの河を流れ
わけも聞かずに
与えられた名前とともに
全てを受け入れるなんて
しなくていいよ
私たちの痛みが今 飛び立った

という歌詞が深く心にこだまする。

いろんなものがつながるような気持ちになるのは本当に生の実感を得る。こういうことを繰り返すたびに、そうした運命的な収束を信じざるを得なくなっていくのはなぜだろうか。

20200902

www.huffingtonpost.jp

当時の西日本新聞の社会面には「社会部110番」というコーナーがあった。
社会部に電話の窓口を設けて、読者に困り事を寄せてもらう。聞いた話をフックに取材を始め、解決の糸口を探し、最終的には紙面記事にする。
まさに「あな特の源流」のような企画だった。
公園を歩いていたら、木が倒れてきてけがをしてしまった。補償をどこに求めればいいのか…。
そんな「どこに持ちこんだらよいのかすら分からない悩み」を、新人記者の坂本は電話で聞き続けた。
これこそ世のため、人のための仕事だ。やはり、新聞記者になってよかった。
そう思った。ただ、電話で話を聞き取るまでに30分近くかかることが珍しくなかった。
悩み相談はえてして長くなる。
ご近所トラブル。家庭内での悩み。学校でのいじめ。寄せられる悩みの大半は、取材から解決の糸口を見出すのが難しいものでもあった。
坂本がデスクに報告し「これは取材してもよさそう」だと判断されると、自分が取材するか、社会部員の誰かに取材が割り振られる。
だが、そこまで話が進むのは、電話30本のうち1本あるか、ないか。
「労災が認められなかった、裁判をしてもダメだった、というように揺るがしがたい結論が出てしまっているように思えるケースもありました。『お気持ちは分かります。ただ、記事化は難しいです』と言うほかありませんでした」
坂本はやがて社会部から長崎総局、宗像支局と異動を重ね、社会部に戻った。
その間に、自分の原点とも言える「社会部110番」は企画が終了していた。
新人時代、抱きかかえるようにして通話をしていた「社会部110番」専用の電話機からは、電話線が抜かれていた。

ーーーーーー

その昔、新聞社には街の顔役などが気軽に出入りをしていた。記者にも、街をぶらついて歩くくらいの仕事の余裕があった。
そうやって読者の声が記者に届き、市民が求める記事が自然と生み出されていった。
記者ひとりあたりの仕事も爆発的に増えた。抜かれていた「社会部110番」の電話線は、抗いがたい時代の流れを示すものでもあった。
その中でも、何とか読者との密接な関係をつくろうと、全国の新聞社の間で努力はされてきた。西日本新聞社も「地域版」をより細分化したり、記者たちが社屋から飛び出して読者の近くに臨時の取材拠点を置く“移動編集部”のような取り組みもしてきた。
だがネットの隆盛と、それに伴う若い層を中心とした「紙離れ」の波が業界を飲み込んだ。
読者にとって新聞は、いよいよ遠い存在になってしまった。いまや「不信の対象」とされることすらある。
だから今、あな特はツールの力も使って、読者と記者を再びつなぐ。
記者はもっと、読者のために働ける。もう一度、新聞社の「力」をみんなに信じてもらいたい。その一念で。
「あな特のオンデマンド報道と、従来の調査報道を車の両輪とすることで、必ずや明るい未来が開けてくるはずです」
坂本はそう思っている。

20200906

gendai.ismedia.jp

表題に対しての賛否はおいておきながら、いい評論だと思う。
中立性とか無過失性に中毒になっているとこういうのは刺さる部分がある。
近頃、歴史がどんどん忘れられなくなっているし、むしろ事あるごとに掘りおこされると、過ちが許さることに積極的な意思が必要になっているように思う。
神が社会からいなくなってから、過ちは人々を許さずとも、忘れることで過ちから逃れることができたけど、今は忘れることができないじゃない。
贖罪ができないんじゃないかと思う。昔は聖水を浴びれば、牧師や神に赦しを乞えば、許されたけれど。今じゃ過ちはずっと人々の心に残り続けて、罪悪感とか後ろめたさとそれを糾弾し続ける罪への攻撃が実は心と社会を蝕んでいるのでは、とか。
許す/赦すという行為は、積極的な行為でしかありえない。何もしなければ贖罪がなされないとしたら、罪を犯した者は良心がある限り罪悪感に苛まれ、罪の代償となった人々は罪を犯した人々への憎しみを忘れることができない。
宗教法典が罪を定義し、その贖罪のあり方を明記したことが、人間にとって最大の救いだったのではないだろうか。
宗教が果たした役割に思いを馳せる。

20200908

news.yahoo.co.jp

本ってスポーツみたいに怪我をすることもないので、安全で害の少ない娯楽に見えるけれど、読むことって、周りの人にとってはかなり残酷な行為かもしれません。
でも、その場面場面で選択を間違えなければ、必ず正しい場所に行き着くことはできる。そう思えるようになったことが、最初の頃との違いかもしれません。


――江國さんはインタビューなどで、現実よりも言葉を信じると言っていらっしゃいます。
それはしょっちゅう言っています(笑)。ちょっと変わっているかもしれないけれど、これも子どもの頃からです。
私はお菓子の箱に書かれた文章――サクッとしたビスケット、とろっとしたクリーム、芳醇なカカオの風味――とかを読むのが大好きだったんです。でも、実際に食べてみると、言葉から想像したほどおいしくはなくて。食べるよりも読むほうがおいしいと思っていたので、お菓子よりもお菓子の説明のほうが好きでした。
――とても江國さんらしい話ですね。
少し前に翻訳したトレヴェニアンの『パールストリートのクレイジー女たち』という小説で、主人公の少年がコーヒーを挽売りしているお店に行くシーンがあるんです。少年の家は貧しいので、いちばん安いコーヒーしか買えないのだけれど、店にはすごく高いコーヒーもある。それはすごくいい匂いがするので、彼は子どもながらにそのコーヒーはどんなにおいしいか、想像していました。でも長じた彼は、豆を挽いたときの香りほどおいしいコーヒーはこの世に存在しないというんです。その感覚はすごくわかるなと思いました。

20200913 三島由紀夫暁の寺』について

暁の寺を読み終えたけど、最後は特に三島の筆の失速を感じざるを得なかった。
最後の森川達也氏の解説を読んで尚更に思ったけれど、三島的情景美の混乱というか破壊というか。
ジン・ジャンへの秘匿される裸への高まる期待が実り、最後についぞ開陳されても、全てが箒でサッとはかれてしまう感じ。。。
現実への失望というか生きることへの失望を隠しきれなくなっている感じがすごい。
春の雪で感じたような、生の美に取り込まれたような、生き生きとした筆のみずみずしさがすっかり枯れていくのを感じざるをえなかった。
これを書く時どれほど彼は辛かったのだろうか。
現実を直視しないことがどれだけ残酷に理想を膨らませてしまうのか、みたいなことなのか。
それを美しさと思って愛でてしまうことの悲しさ、というか、当人にとっては極致的な美の到達であっても、客観視すると感じる虚しさよ。
もう現実を見て美しさを感じているのではない。
麻薬的に思惟や妄想が頭を支配し、それに一番うっとりしている状態。
いうならばもはや言葉からも解脱しているが、三島の筆の胆力でギリギリ文字表現の形を保っているとでも言おうか。
直接的なエロスからの逃避というか、忌避みたいなのも大きな話としてあるのかも。エロスにもはや彼は文学的な美性を見いだしていない感じ。
どこを目指していたのだろう。

川端とか三島を読んでいると、文学が人々の手から離れていった理由もわからなくないというか。
元々そうでもないというのはもちろんあったのかもしれないが、庶民の手をもはや離れている。なんと表現すればいいかわからないが、素地がない人は基本読んでついて来れない作品にもはやなっていて、「普通」の人が作品を楽しむことを拒んでさえいる、というか。
わかるやつだけわかればいい、というエゴイズムの発露でさえあるように思う。
三島が美の表現者であったことは間違いないが、いつの間にか三島が書くものは美しいものだという倒錯が発生している感じというか。おそらく芸術全てにおける本質論だけれど。
芸術的な権威って、それを手にしなくては手にとってもらえない・見てもらえないという面では、すべての始まりである一方で、権威について回る評価や印象がその作り手に入れ墨のように飾られ始める点で終わりの始まりでもある。サカナクションの山口が、下北沢で突然路上ライブしてしまうとか、ああいう気持ちが少しわかるような気がしてきた。

 

第91問 2020年8月のお気に入りの文章

20200803

miyearnzzlabo.com

昔、当然僕が子供の頃もなかったし。子供の頃って留守電もないですからね。なかったですし、ネットもちろんなかった。その頃、どんな風に人とコミュニケーションしてたり、どんな風に人と対峙してたのかな?って思うと、やっぱり何か遠くの人の気持ちを思うとか、あと想像してみるとか。そのユーミンさんの曲じゃないけど、星とか空を見て思い出してみるとか。そういうロマンチックな……いい意味で言うとロマンチックな、悪い意味で言うと妄想なのかもしれませんけど。そんな時間がありましたよね。本当に時間があったし。だから、すぐに答えが出ちゃったり、すぐに人の気持ちや考えに対して答えが出てしまうことの功罪はあると思います。で、功罪の罪の方で言うと、やっぱり排他的というか、非常に簡単に物事を……前はいろんなイマジネーションができたと思うんです。 

 20200809

jasonrodman.tokyo

19歳、ストリップクラブで週6日・8時間働くカーディは、マンハッタンの南の方にあるもっと条件の良い“アーバン”なストリップクラブにも出演することに。スペイン語を話せることが肌の色や人種の壁を越えるのに役立ったという。しかし、稼ぎのいい仕事ではあったが、悪い面もあったという。それは自分の身体に自意識過剰になってしまったことだった。もともとスリムで幼い体型だったカーディだが、ドミニカ共和国にわたって豊胸手術を受け、さらにはヒップの手術も「どこかの地下室」で受けたという。何が入っているのかわからないらしく、「死んでてもおかしくないわよね!」と語るカーディ。この時、22歳になっていた。

思想とか是非とか、そんなもんはどうでもいいものなのだとこういう生き様を見ると思う。

20200815

www.nhk.or.jp

何ができるのか、ってNHKの人達ってすごく考えているんだろうなと思う。
少し見ただけで不安な言葉でほんとに溢れてるのが分かって、色々考えさせられる。
匿名の安心ってこういうことに本当は使われるべきなのかもしれない、と思う。
優しい人のもとで、安心して話せる環境がこの社会の中で少しでも増えたらいい。 
苦しい気持ちで生きている子どもたちが凄惨なネット空間の汚い言葉や汚い気持ちに触れてしまったら、どうなってしまうんだろう。
どうやったらそういう子たちを守ってあげられるんだろうか。。。
死にたい死にたいってみんな言ってるのが、もしかしたらそれは突発的なことで、気の所為なのかもしれないんだけど、でも、本当に死んでしまうのだ、何も言わずに。周りはお別れもできずに、忘れることもなかなかできない。

人に幸福を見せつけるような生き方を要求するような今の社会のあり方や、行動意識が、それがプラスになるような人もいれば、他人の幸福を見るだけで悲しくなって、辛くなってしまう人もきっとどこかにいるのだ。
そんなひと知るかよ、負け組だよ、って俺はどう転んでもやっぱなれない。
人を嘲笑ったり、蔑んだり、そういう今のネット社会の風潮は、本当に怖いな、と改めてこのサイトを見て思った。
自分を守ろうとするみんなの間違った防御のあり方が、見えない誰かを傷つける形で成り立っているのが悲しいし、悔しい。誰かを助けることで、自分を守ることができる、守られる、そういう社会に自分が生きている間に近づけていきたい。

20200822 24時間テレビについて

24時間テレビについて「感動ポルノ」という批判についてしばらく考えたが、自分の生きる社会のどこかに障碍者の方が生きている現実をみんなが受け止めたくないだけではと思う。
お涙頂戴がうざったらしい、障碍者の人々を商業的に用いている、という話になってしまうときは、まずちゃんと当事者に向き合えたらいいのに。
社会的な差別に向き合いながら(当人たちがそれで苦しいなんていう簡単にはずはないし、そういう押し付けは良く無いというポジショントークはわかるが)生きている人々とそれを支える周りの人々が、テレビという電波空間に出ることにおいて、どういう思いや覚悟がありうるのかという想像がなぜ出来なくなってしまうのだろう。
慣習化してしまってぐだぐだになっている部分はあるのかもしれないけれど、あなたがそのコンテンツに惹かれ飽きるというサイクルに巻き込まれている間も、その先にも後にも、社会には絶えず弱者がいるということに変わりはない。
みんなのSNSのフィードに溢れている情報と見比べてほしい、と。
あなたが無意識的に視界から弾いている存在に、線引きをして触れ合わない空間にどんな人々がいるのかまず認めてほしい、と。
その上で、感動ポルノかどうか考えればいい。当事者を見ないでできる議論にしたくない。演繹的に24時間テレビという企画について論じることを我慢する勇気や耐力。
あなたがスッとした気持ちになるために、勇気や覚悟を犠牲にするのをやめてほしい。

20200826

これは持論だが、昨今大人の発達障害が増えたといわれる背景には、世間や会社組織が「異質であること」「非効率であること」に不寛容になったことがあると思う。
本連載で発達障害の人の話を書いても、「周りにいたら気持ちが悪い」「発達障害の上司を持つほうの身にもなってほしい」といったコメントが寄せられる。居場所があって生きづらさを感じなければ、わざわざ診断を受ける必要はないという人も少なくないだろう。しかし、現代社会において「ちょっと変わった人」の居場所は確実に減った。
これに対し、ソウスケさんは「長年、“健常者“の側だったのでそういう人たちの考えも理解できます。自分も何か価値ある仕事ができるわけではありませんから。将来ですか?  発達障害は遺伝も関係しているという説もあるんですよね。今後、自分が家庭や子どもを持つことはありません」と言う。 

自分の視界や周りから排除することで、自分が助ける・支援するというアクションをとらないことに呵責を感じない世界で生きていたいという思うがあるのかもしれない。
人を助けることや支援することを称賛してくれる人が周りにいれば、そういう世界にいれば、手を差し伸べられるくらいみんな本当は優しいはずだけれど、周りの目が気になったり、自分がされてないから必要性に気づけない。

社会の不寛容を問題視する記事ではあるけど、本質は僕やあなたの中にある言葉や視線に向けた糾弾にある。他人事ではなく、今日友達にかけられる言葉を一つだけ優しくできたら、いい。 

20200828

www.tbsradio.jp

僕はいろんなオーディションやコンテストの審査員をやらせていただくことが多いんです。それで特にこの10年ぐらいは、女性のアマチュアシンガーで「私はR&Bが好きです。それでは聴いてください…」で歌うときに、この曲が一番多いですね。それぐらい、歌自慢やボーカル好きという人たちのハートの真ん中を刺してくる曲なんですね。R&Bってアップテンポのものはビートがどんどん革新されていくんですが、それでも台風の目のように全く動かない点もあって、それはこういった曲のことを言うのかなって思います。

 

第90問 2020年7月のお気に入りの自文拙文

20200701 小袋斉彬について

MUSIC HUB | J-WAVE | 2020/06/26/金 | 25:30-26:00 
http://radiko.jp/share/?t=20200627013000&sid=FMJ
小袋成彬のラジオは先週で一区切り。
このラジオ内で言っている「メディアになりたくない」って話、大切なことだと感じた。
Twitterとかもそうだけど、メディアになることで知名度が上がっていくのってどうなのだろうと最近思う。
お役立ち情報を発信するのって、本当にその人の仕事なの?っていうことが自分の中で増えている。
情報提供するときに、社会が良くなっているような気がするのは、実質なのかという。
社会が良くなることを実感してやるというよりは、良くなっているとあくまで信じている感じ。
「自分の名前で生きていかなきゃ」となって、実名で面白いこととか豆知識呟くことが、本当に自分の名前で生きていくことなのか。ずれてると思う。
Apple MusicとかSpotifyのプレイリスト、いいものばかりでキュレーターがいるはずなのだけれど、そこでいちいち名前が出てこない感じが、いいなと逆に思ったりする。

小袋成彬自体の話としては、ちょっと遠目のファンとしては、少し中二病が抜けないのがもどかしい。
本人はそれでいいんだ、それが俺なんだって感じで、精神がrockerなんだけれど、そのひねくれを気持ち悪い感じで表現しちゃう感じが。
作品として昇華されるときには、すごくいいものになると思うけれど、どこか音楽に対する考え方において、聴いてくれている人のことを無視しよう必死になっている感じが、ファンとしていつも若干不快感を残す。
俺は俺でいいんだ、は全然考え方としていいと思うが、それを我慢できなくなって言っちゃう感じがいただけない。
結局自分は彼の作品を何度も聞いてしまうんだけど、彼のいい音楽がそういう態度によって音楽ファンからあんまり愛されなくて、いろんな人に届かないのは本当にもったいない。
自分を過大評価している感じというか、聴いてくれている人への感謝が2番目3番目になってしまっている感じが、応援している身としては残念。
言っちゃうと久保田利伸はその逆で、いっつも聴いてくれて応援してくれてありがとうと言っていて、重ねてきたキャリアが違いすぎるというのもあると思うが、その照り返しは感じる。
小袋成彬は、アーティストとして作品だけ評価されればひとまずいい、みたいなある意味妥協があり、音楽産業で勝つことが「俺のしたいことじゃない」というシニカルなスタンスから脱することができたとき、また彼は新たなステージに行けるんじゃないかなと、思う。

202007006 ドラマ「やまとなでしこ」について

https://news.yahoo.co.jp/articles/9c6f954109e3fd0b0bf8e08e1a8b4643cba2787e

やまとなでしこは、ざっくりいえばお金と心どっちが大事なのか、みたいな話が良くテーマとして語られる。
ただ何回か見て思うのは、それもすごくこの話に引き込ませるテーマではあるけど、それと同じくらい魅力的なのが、主要な登場人物の多くがそれぞれに心の傷を人生の中で負って来ていて、自分なりにみんな大切なものを見つけて生きてきた中で、交わる人間関係がとてもいいということだ。
女性主人公の松嶋菜々子演じる桜子さんの変化が一番スポットライトが当たるんだけど、男性主人公の堤真一演じる欧介さんにもまた変化はある。
お互い人生の中でコンプレックスとも現代では言えるような深い傷を負いながら生きてきていて、それを当人達なりに乗り越えてはきている。
弱い自分とか隠したい自分は誰しにもあって、序盤の主人公達も嘘や見た目で着飾った状態でその関係性も始まる。
しかし、お互いの内実に触れ合っていく中で、内側に秘めているものをお互い知っていき、そしてそういう嘘をついてしまうあり方も許されていく。私はこれは脚本とか制作者の優しさでもあると思っていて、そういう他者によく思われたいと思う自分もいていいし、仕方ないというメッセージがちゃんと伝わってくる。
中盤で桜子さんが婚約者に自分が住んでる場所は本当はボロアパートなのに高層マンションに住んでるって嘘をついていたことを、欧介さんが庇うシーンがある。そのシーンの彼のセリフなんてまさにそれで、優しさそのものだった。
欧介さんは、桜子さんに最初は外科医だって嘘ついて、お金持ちのふりをして仲良くなっていた。
欧介さんは本当は貧しい魚屋さんの店主で、MITで30手前まで数学の研究をしていたが、挫折して日本に帰り、両親のやっていた魚屋を継いで、たまたま友達に誘われた合コンで昔の彼女にそっくりで美しい桜子さんに出会ってしまう。そうした中で、彼は彼女によく思われるために嘘を重ねていく。
結局その嘘はすぐバレてしまうけれど、そうやって好きな人によく思われたいと思うからこそ着飾ってしまう気持ちは彼もまた知っていた。だからこそ、桜子さんのついていた嘘を誰よりも優しく許すことができた。
桜子さんは欧介さんとの関わりの中で、そうやって嘘をついてしまったり、数学を諦めて日本に帰ってきてしまう彼の弱さを知る。
そして、「お金より心だ」と言い張る欧介さんに、お金が大事だと思って生きてきた自分がなんだか間違っていると言われているような気がして、彼のその弱さを攻め立てる。
ただ欧介さんにはその生活が貧しいものであっても、彼を大切にする仲間や、彼の信じる幸せを同じように信じる人々がいて、桜子さんは彼と関わる中で、自分の見つけた「お金」という答えの先のものを知ろうとしていく。
桜子さんと欧介さんの二人にともにあるのは、心の痛みで、それを乗り越えて、二人はたくましく生きてきた。
そして何が大切なのか自分なりに探して生きてきて。
物語の答えとして、お金より心だよね、というものでもなくて。
痛みを乗り越えてきた他者が、お互いの痛みを知り、誰よりもそれに優しくあることで、その人と一緒に生きていきたいと選択する物語。
この時代にこのドラマが再放送されるのは、お金に目にくらむ人々への警鐘などではけしてなくて、二人が他者を許し優しくある姿に、僕らは癒やされるべきだということなのかなと思っている。

https://realsound.jp/2020/07/post-580447.html

やまとなでしこ』という作品を思い出すたび、あのあたたかな歌声も、頭をよぎる。MISIAの「Everything」だ。20世紀中にミリオンセラーを達成した最後の曲であり、リリースから約20年の月日が経った今なお歌い継がれる名曲。
おとぎ話の始まりを告げるようなイントロは、まるで映画音楽のようにロマンティック。一気に楽曲の世界へと、我々を連れていく。
ストリングスが印象的な、美しくシンプルなメロディでありながら、実に細やかで複雑なコード進行をもつこの曲。冨田ラボの打ち込みによるドラムも効果的だ。
気付かないほど繊細に、なおかつ計算して仕組まれた変調と音の足し算・引き算により、ドラマティックに楽曲が展開していく。MISIAの歌唱はもちろんのこと、イントロからアウトロまで、すべてが聴きどころといえる極上のバラードだ。
〈果てしなく 遠い未来なら あなたと生きたい あなたと覗いてみたい その日を〉
願うような、まるで彼女の心からこぼれ落ちたかのような優しい声に、キュンとなる。
そしてこのフレーズこそ“恋”そのものを言い換えているといっていい。人は、いくつもの出会いのなかで、たったひとりの“あなた”を選ぶ。その瞬間に芽生える「この人と生きたい」と願う確かな衝動。それが、恋なのだと思う。
やまとなでしこ』において桜子は、最後に「真実(ほんとう)の恋」を見つける。そのきっかけもきっと、こんな衝動だっただろう。欧介と生きたい、果てしなく遠い未来を、欧介と覗いてみたい。少女のように純粋な、好奇心にも似た恋心。
そして、恋が永遠に続いたならば、きっと人はそれを、愛と呼ぶのだ。
1998年、ラジオから流れる「つつみ込むように…」に筆者は衝撃を受けた。同じ衝撃に覚えがある人は、きっと少なくないはずだ。
イントロでのホイッスルボイス。5オクターブを誇る音域。なにより、これほどスタイリッシュな音楽を、脅威のリズム感をもってのびのびと歌いながらも「歌詞が日本語であること」に驚いた(デビュー曲の歌詞についてはMISIAによるものではないが)。
「日本人離れした」という枕詞を用いられることが多いMISIAだが、デビュー当時から現在に至るまで「日本語で伝えること」を大切にしているアーティストだ。歌詞カードを読まずとも、きちんと耳に、心に言葉が伝わるよう、大事にメロディに乗せて歌う。MISIAが歌い続けるのはR&Bではなく、こだわりの“J-R&B”だ。
「Everything」の歌詞は、仮歌を聞いたMISIAが翌日には書き上げたという。フレーズのいくつかを拾い上げてみれば、ドラマの内容とリンクする部分はもちろんある。しかし、ひとつのラブストーリーを歌で表現したというよりは、さまざまな愛の形を紡ぎ合わせた歌詞という印象を受ける。歌詞をどこで切り取っても、たしかな“愛の歌”……まさにラブソングなのだ。
だからこそ多くの人の心を打つ。たとえば桜子の気持ちになってみても、欧介の気持ちになってみても、胸に刺さるフレーズがある。恋愛であるだけでなく、人間愛でさえある。
MISIAは、デビュー20周年を迎えた際のインタビューにおいて、自身の数々のヒット曲について振り返り「民謡のよう」と表現した。「歌い手も、誰が曲を作ったのかもわからなくなっても、その曲が存在していくような楽曲」、普遍的なものを作ることができるよろこびを、シンガーとして、作り手として語っていた(参考:Yahoo!ニュース)。
民謡や、それこそ万葉時代の和歌のような、普遍的に人々が共感する言葉やメロディ。MISIAはそうした作品を紡ぐことができる、稀有なアーティストだ。
「Everything」もまさにそう。時代が令和を迎えても愛され続け、当時生まれていなかった人もこの曲を口ずさむ。誰もが歌詞に心を重ね、癒され、ときに切なくなる。
いつか自分がいなくなった世界、果てしなく遠い未来にも永遠に響き渡るだろう至高のラブソング。「Everything」と同じ時代にめぐり合えた奇跡を、心から幸せだと思う。

貧乏が嫌で嫌で仕方なかった桜子さんが男の人から待ち望んでいた言葉があって、それは、「泣かないで、いつか僕が迎えに来るから、きっと君の辛いことは全部忘れられるから」っていう言葉だった。
東十条さんという婚約者に自分の地方にいる父親を身分を偽って紹介したあとのシーンで、東京にいる間の父親の面倒をなにかとみていた欧介さんが、父と別れの挨拶をした桜子さんにこう言う。
「きっと、あなたのつらいこと、全部忘れられる日が来るから。必ず来るから。」
この言葉が完全に地雷になって、桜子さんが泣いてしまう。
それで、泣いている桜子さんに欧介さんが肩を貸すシーン。

 

 

 

 

 

 

第88問 昔の香り

七月に祖父の一周忌を終えた。

こじんまりとしていた。去年の今頃に、ヘルマン・ヘッセの『知と愛』を必死に読んでいたのを思い出す。同じぐらい湿っぽい夜に、同じような布団に寝ていた。

三十三回忌を経ると、人は輪廻転生が叶うらしい。今から三十ニ年後、人は人の死を忘れることができる。線香の香りとどこか聞き入ってしまう経が、いつもと違う時間をつくりあげた。

それが終わって、親を残して、自分だけ帰る。夜は、久しぶりに旧友に会って、お互いの話をした。

お互い愛に苦しんでいた。

悩み苦しむことが違くても、お互いが苦しんでいることに、思いを馳せた。

いつか紹介してもらったブルガリの香水を嗅いだ。
「優しさ」や「心の広さ」を象徴するような香りらしい。
祖母が昔付けていた香水によく似ていた。
男性用に使われますか?という言葉の意味が、少し深くなる。

第87問 ボート

昨日見た夢のこと

やっと会いたい人に会えていた
抱きしめて、その髪を掻き上げたんだ
劇場の観客席のような場所で、ひと目も知らず抱きしめあった 

場面は飛んで、いつか約束した海に来ていた
俺の見知らぬ洞穴を、夕焼けを過ぎて宵の中訪れていた
洞穴の中の壁は白く、海は深く青い

ポケットに入っていた財布にはたくさんの小銭が入っていて、重い
君と乗るボートを借りるため、舟守に小銭で払った
横顔が黒い髪で隠れ、目元が微笑みで緩んだ

きれいな海
古びたボートを静かに漕いだ