第77問 俺に残るものは

深淵から生み出されるもの 又吉直樹 X 宇多田ヒカル

又吉 なにかの現象について語ることはできるけど、実際には、どの現象を起こせていないということをよく感じていて。いろんな表現についてただの説明でしかないと思うことがある。でも、映像の中で宇多田さんが僕をどついた瞬間、僕が今まで言葉で説明していたことが、あの一撃で現象になる。

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又吉 宇多田さんも前に、作品を発表すると、完全に自分のこととして受け取られて、それが嫌な時もあるって言ってましたよね。でも『火花』を読んだ時に、又吉さんが頭の中に浮かんだ、と。
宇多田 そうですね。表に出て、普段の状態の露出をいっぱいしている人だと、それほど表に出ない作家よりももっとその人だって言う感じがあるのかも。(中略)私の歌詞を、「実体験なんですか?」ってインタビューで聞かれたことあったんです。そういうの関係ないじゃん、ってちょっと思ってたんですけど、『火花』をその直後に読んだら、「あ、そうだね。想像しちゃうよね」って。自分でもそっち側にたったら、「そりゃそうだわ」ってなりました。(中略)『火花』にもだったらその構図自体で遊んでやろう、武器にしちゃおうっていうのを読んでて勝手に感じたんです。

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宇多田 でもシンガーソングライターとかラッパーとか、つまり自分で紡いだ言葉を歌い上げる人の「かっこよさ」において、その人のイメージがない無名の状態で作るもの以降の、自分の見られ方や立場も把握している上でどうそれをも利用しているのか、というのは大きなポイントだと思います。「そんなこと言っちゃうんだ」とか、「そんな立場なのにそんな突っ込んだことや、自分の弱点をさらけ出すようなこと言うの?」って驚かされるとグッときます。簡単なことではないからです。向き合うのが容易ではない自分の内部の何かと、真正面から対峙した結果だとわかるから。

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又吉 「変な批評、悪評を養分にしてしまうとかたちの悪いものができあがってしまうから、そことは距離を取るんだ」という立場を馬琴は示すんですけど、僕はちがうスタンスを取ってみたいということを文庫版『火花』の巻末に書いたんです。僕は、その汚いドロドロしたいろんなものを養分にすることによって、それはそれでおもろいものができそうやけどなって、なんとなく直感で思ったんですよね。それはどこかでやりたいと思っていました。そういう考えが残っていて、『人間』で表面化したのかもしれないですね。
宇多田 ドロドロした中から美しいものが…蓮ですね。きれいな蓮ってすごく澄んだお水じゃないところに咲きますよね。それこそ視点を変えることによって、絶望だったものが美しいものにフワッと切り替わる瞬間がすごい気持ちよかったりする。
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宇多田 作品を作るという行為に目的があるとするなら、自分をもっとよく知るためだと思うんです。私にとって大事なのは、どれだけその人が自分に正直に向き合おうとしたか、という点であって、それは本人が誰よりも一番わかるべきことなんです。受け取る側には「説得力」とか「迫力」とか「感動」として伝わることかもしれません。じゃあ芸術や芸術家にとって他者からの評価は全く無意味なのかと言うとどうではなくて、例えばどんな単語でも文章でも発言でも、意味を理解するためにはそれがおかれているコンテクストがとても重要ですよね。そういう文脈の一部に他者からの批評やそれに対する自分のリアクションもありますね。自分をよく知ろうと思ったら、自分の置かれている世界や他者にも思いを馳せる必要があって、自分でさえ自分の世界の一部、と捉えられる客観性も必要ですよね。

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宇多田 希少な才能を認めたり、説明できない何かを讃えるのはいいと思いますけど、もしその人を「普通とは違うものを持っている」ことを含めて「すごい」としている場合、その時点でそのひとを「普通」な規律や社会の基準に落とし込んで「すごい」って言っちゃってると思うんですよね。そうなると、そもそも社会にはまれなかった、そこから落ちて漏れちゃった人に対して、間違った認識を持ってあがめることになる。歴史的に、芸術家っていうのは、「そんな騒動起こしちゃうの?」みたいなことばっかりやってきたわけじゃないですか。良くも悪くも非常に人間臭いというか。それが今は、不倫とか、ケンカ沙汰とか、そういうことで「じゃあなしだ」みたいになる。存在しない椅子に座らされて、またその椅子を取り上げられる、不思議な時代だなと思います。昔からそういう要素はあったんでしょうけど、今はそれが過渡期にあるというか、おかしなことになっているなとは思うんですよね。

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宇多田 才能があれば簡単に素晴らしいものが作れる、という誤った解釈が、作る人達をちょっと神格化してしまうのかもしれないですね。

 

 

 

宇多田ヒカルも、又吉直樹も、洞察の度合いが非常に深くて本当にためになった。
彼らは思想家や批評家ではなく、芸術家なのだということを痛ましいほどに気付かされた。
人間が生きる意味とは何なのかという問いは、おとなになればなるほど考えさせられるようで、なんで自分は今こういうことをしているのか、みたいなエッセンシャルな問いかけはいつにおいても大事だなと改めて思う。
何かを表現したり、作り上げたりする中で、常にそこには自分への問いかけがあるわけで、この葛藤の産物が人間の痕跡になっていく。我々が現実として信じてやまない表象的な実体には、自分には簡単には届かないコンテクストと対談の中で出てくる「化け物」的な時間がある。
これを一般人として突き詰めいくと、誰しも輝かしい瞬間ばかりでもなく、日陰で刀を研いだり、だらしなく一日を過ごす時間はあっていいし、だからこその他者の目に見える瞬間での輝きみたいなものがある。
なにもかもが表現の時代になってしまっている時代だからこそ、化け物的な自分を深く自覚して、自己表現での自分の追及は欠かしてはならない作業なのだなと。

人は階段を上がれば上がるほどに謙虚になるのだな、と尊敬する人々の言葉をかき集めると感じるようで。
久保田利伸は「自分には歌を歌うことしか出来ない」とはっきり言ってしまうし、宇多田ヒカルは全能感を信じる人々をいともバッサリと否定する。
道を歩めば歩むほど、自分にできることは本当に少ないことに日々気付かされるけど、それは自分がいい道を歩んでいるという感触なんだろうなと思う。

なぜ僕らは生きているのか、なんのために生きるのか、何が本当に自分にとっての幸せなのか、自分の生きる世界とは何なのか、こういう問が自分の生きる哲学の中で紐付いていけばいいなと思う。
素敵な大人の背中だけは見失うことなく、自分らしい答えを生きていく中で見つけ出したいなと思う。