第80問 Selfish&Unselfish

自分の親友のブログを読んで、なんだか自分は軽薄な人間になったような気がして、自然となにかを書きたくなった。

それは自分が軽薄ではないはずだという意地なのか、はたまた恐怖感から出る自分の確認作業なのか。わからないが、自分の泉から溢れ出るこの何色かわからない水を、少しばかり器にとって、ここにしまっておこうと思うのだ。

書くなら愛について書こうかな。

最近の自分の人生のテーマは、愛だ。

なんだか愛に俺は長いこと真剣に向き合ってこなかったように感じる。自分という人間の輪郭がわからないから、わかろうとしたくないから、他人を使ってそれを確認したかった。そのために愛を使っていたように思う。

愛はとてもラブリーなものだし、温かいものだ。でも、その反面自分の本性と向き合う必要のあるすごく大切なものだ。人から見れば「君は考えすぎだよ」なんて言われてしまうかもしれないけど。でも、概念として、愛って解体してみると、できやしないけど、しようとしてみると、自分が愛に、愛しているという感情にどう向き合っているかというのはすごく大事なことのように思うのだ。

今思う、愛への妥当解は、Selfishだし、Unselfishなものであるということだ。自分が誰かを愛しているというのはすごくSelfishで、一方的だと思う。でも、愛が相互的で、というか双方向のものであった時は、その愛はUnselfishであろうとする。愛している人を愛しているから、その愛をどう表現するのか、そこにはUnselfishnessが深く深く、愛の結晶として潜んでいるように思う。

Selfishnessだけの愛はつまらない。薄っぺらい性愛はUnselfishnessがない。Selfishness同士が符合するだけで、それ以上のものではない。Timingとか気分とか、生理的な現象に左右されちゃうような愛だ。

愛は、心を開く辛さを持っている。愛している人に、愛していることを伝えるのっていうのは、すごく難しい。まあよくある話で、でも俺はずっとずっとそこに引っかかっている。愛していると、本当に長いこと言っていない。というか、もしかしたら愛している人が長いこといない、ということなのかもしれない。

平和という言葉と愛がよく並び立つけれど、その理由もなんだか最近わかる気がする。平和って、愛がないと成り立たないじゃない。愛がない平和って、ないよ、きっと。

人の命を思う時、それが愛だと思う。

ここんとこずーっと考えていた性愛と愛の境界というか、棲み分けというか、そういうものがわかったような気がしている。

その人の命に思いを馳せるときに、それは愛なんじゃないのかなと思っている。

 

数ヶ月経ったら、こんなことをまたブログに書き残してしまった、なんて後悔するのかもしれないが、ひとまず気持ちが変わらないうちはここに残しておこうと思う。

 

このブログを読んでくれている人。いるのかはわからないけれど、いつの日か、あなたの思う愛を俺に教えてほしい。臆病者で、見えっ張りな俺には、時にあなたのような優しい人が分けてくれる愛に、大きな救いを感じるし、生きる幸せを感じます。

いつぞや俺は君を傷つけただろうし、いつの日かまた君を傷つけるだろう。だけど、きっと今の俺は昔のあれこれも、これからのあれこれも全部全身で受け止めて、愛していきたい。