第82問 憎しみはない

 少し前に友達と電話で話した時に、その子の友達もまたとある試験にむけて勉強を頑張っているという話を聴いた。どうやらその友達は家庭環境に難があって、そういう逆境を憎しみの力で跳ね飛ばしてきたんだそうだ。

その子から見て、私がどのように見えているのかはあまりはっきりしないが、多分そういう憎しみのようなものを背負って生きているように見えている部分もあるようで、「やっぱり憎しみの力はすごいね」みたいなことを言われた。

正直に言うと、自分にはそういう憎しみは本当に全く無くて、どっちかというと運命の不条理のようなものを悲しく思いながら生きてきただけだった。それを握りこぶしにこめたことはなくて、どっちかと言うとそういう苦しみをともに抱く人に共感し、痛みを分かち合うような、そんな生き方をしてきたのだった。

不幸はたしかに誰かの作為によってもたらされることもあるのだろうけども、自分の不幸観というのは、あくまで天から降ってくるようなものだという認識があって、いつの間にか人間は病気になったり、死んだりしてしまう、そういう感覚が自分の人生観の幹にはあると思う。

だから必死になって"幸せ"になろうとする人をみると、気の毒な気持ちになって、自分の幸せを傲慢に人に見せつける人は見ていて虚しくなるだけで、誰かを憎しむことはほとんどなかった。

むしろ他者の存在に最近は感謝してばかりで、そういう感謝の情を持たずに生きている人をみると、哀れな気持ちになり、そういう感謝を持って生きている人を蔑んでいる人を見ると、苛立たしくなる。もしかしたらその子からみて、自分はそういう憤っている自分が何かを憎しんでいるように見えたのかもしれない。

その人は確かに憎しみとともに生きているのかもしれないけれど、自分はまるでそんなことはないよと、なんだかここで保留したくなってしまった。