第96問 2020年10月の文章

遠野遥『破局

主人公は慶應法学部の3年生。
曖昧ななにかが素直に現れていて、古臭いスノビズムとかエリート主義との距離感のとり方が今の慶應生っぽい。
主人公は、腹の奥そこで隠し持ってる自負心と、社交的であろうとする適応化欲求が脳の多くを占めている。
誰かに自分がよく語られるのを待ち遠しく生きている感じ。
反対側にいると憎らしくてたまらないが、そっち側に行くと何ら気にならなくなる不思議。
自負心は、例えば「やってない」と言いながら堅実に授業には出席してテストの勉強もしっかりやったり、恋愛にはかなり前向きで性欲の充足を大切にしているところとかに顕在化する。
就活とかで結局こういう自負心の発散ができなくて少なくない人が苦しむんだけど、結局学歴でなんだかんだなってしまう現実にあっけなく流れていく。
論理的であることを途中で辞める感じと言うか、論理的になりきれないし、そのバランスに自己愛を産んでいる。
そして、規範から開放されきれないし、でも開放を望んですらいない。
慶應生がわからない、言われてみれば知らない、という方。是非書店で手にとって見てください。
以下冒頭20ページの試し読みのリンクです。

web.kawade.co.jp

 

この作品は人間のある意味軽薄とも思える欲の発散について、なんの修飾もなく、淡々と書いているところが一つの軸になっている。
よく欲について考える。遠野さんは、おそらくこの欲の歯車は威風堂々とぐるぐる回っているのではなく、安物細工のような歯車が回っているに過ぎないとある意味嘲笑的に捉えているのだろう。
食欲(特に肉)、性欲、優越心。とくに優越心は、肉体的な優越もそうだし、知性的な優越もそう。筋トレをすること、国家試験の勉強をすること、女を抱くこと、肉を食らうこと、先輩や指導者に気に入られること。
信念が歯車となって人を動かすのではなく、欲を満たすためにただ機械のように生きている。
そうしてそういう欲のまま生きる人間の破局を、あっさりと書いてしまうのが彼のやりたかったことの一つなのではないだろうか。

 

遠藤周作砂の城

序盤において。
主人公泰子が16歳を迎えた日、赤ん坊の頃死んだ母が16歳になった泰子のために書き残して、その日まで父が大切に保管し封の切られなかった手紙を読む。
その最後の一節。

この手紙で母さんは何をあなたに言いたかったのでしょう。母さんがもし、ひょっとして、あなたの十六歳まで生きられなかったら、このことだけは泰子ちゃん、信じて頂戴。この世のなかには人が何と言おうと、美しいもの、けだかいものがあって、母さんのような時代に生きた者にはそれが生きる上でどんなに尊いかが、しみじみとわかったのです。あなたはこれから、どのような人生を送るかしれませんが、その美しいものと、けだかいものへの憧れだけは失わないでほしいの。

戦争の時代に泰子の母はちょうど16歳を迎え、泰子が16歳になった時に読むことになる手紙に、自分の16歳の頃の思い出を書き残した。
戦争に振り回され多くのものを失った世代は僕らの前にはいて、「どうにもならないもの」を社会全体で慰めた時代は確かにあったのだと思う。
遠藤や三島は戦争の時代に若者だった世代だけど、彼らが乗り越えてきたものは何なのか、そして彼らから手渡されて現代に残されているものは何なのだろうか。
この文章を小説として、後世に残した遠藤の気持ちを考えると、なにか胸がしめつけられるような気持ちになった。
僕らは歴史の中にしかいないのだと思うと、なぜか涙があふれた。

 

谷崎潤一郎春琴抄

友達いわく「谷崎の中で一番よい」とのことで読んだんだけど、The 耽美派という感じだ。最後にくっついていた西村孝次の解説のおかげでもやもや感が晴れたように思う。
色んなものを削ぎ落とした一つの究極の形なのかもしれない。
飾りや修飾で美しく彩られる物語もいいが、本質の本身で勝負してくる感じもまた素晴らしいなと思う。飾りがいらない美しさ。

 

20201017 久保田利伸のサブスク解禁

昨日、久保田利伸がサブスク解禁して以降興奮冷めやらない。
一気に新曲が聞けるようになった、みたいな感覚になってずっと幸せだった。
久保田利伸だけで、自分流のPlaylistを作ろうと思う。
久保田利伸の楽曲は、楽しむのにいくつかコツがある。
というのも、久保田は20代で日本でR&Bブームの火付け役として大成功してから、アメリカNYに拠点を30代以降移していく。この拠点の変更は、彼を圧倒的に高めるんだけど、日本で愛された歌謡曲チックなR&Bから完全本格派になっていくきっかけなのだ。
ただ、久保田利伸が青春ど真ん中で育った人々にとっての久保田利伸って、どっちかというと日本にいたころの粗削りでいわば「古い」「歌謡曲チック」な、歌唄いなんです。そういう人たちが今も昔も彼のファンのボリュームゾーンで、変化し成長していく彼を暖かく見守り応援し続けてきて、今がある。
SpotifyとかApple Musicのプレイリストに出てくる久保田利伸の有名ソングは、実はこの歌謡曲っぽい古くていいバブリーなものがほとんどで、これは今久保田を知りましたっていう人からすると、「古い人で愛されていたんだな〜」という感想を第一に与えることになるだろうと思う。
ただ、久保田は今に至るまでずっと進化し続けていて、その進化の至る現在近くの楽曲を、新しく聴き始める人達には聞いてほしい、というのが僕の本音なのだ。
だから、ちょっと古きよき歌(おじさんおばさんたちにとっての青春だった歌)はメジャーどころのプレイリストに譲って、僕が久保田利伸ファンになるまでに踏み抜いてしまった地雷のような歌でPlaylistを作って、それを若いリスナーのみんなには聞いてほしい。
ちなみに、LA・LA・LA LOVE SONGはちょうど彼がアメリカでの生活がかなり本格化していた時期にできた歌。日本とは違う場所で独特の感性のもとで育てた歌が史上最高に売れてしまうんだから不思議だ。

 

朝井リョウ『何者』

その流れのまま『何者』も読み終えた。
本当に途中読むのが辛かった。
人を嘲笑する観察者の感覚をあまりに知りすぎるというか。「観察」という行為のある意味での軽薄さは、突きつけられると辛い。
SNSで誰にみられているのかを気にしたり、他人の投稿で誰がそれにいいねをしているのか気にしたり、人のことを嘲笑的に見たり。SNSと結びついた現代の若者の病みたいなものがはっきりと描かれている。昔浪人してたころ、親友と「引くこと」と「嘲笑」がなんでここまで僕らのコミュニケーションにはびこっているのだろうと、永遠と夜中話していたことを思い出した。
自分自身もその沼に嵌りながら、最近この嘲笑の癖からやっと半分ぐらい足を洗えたのではないか、とか思っていたけれど、のこりの半分がまだあることだったり、それをしていた過去の自分だったり、周りの人だったりのことを連想せざるを得なくて、ほんとうに辛かった。
この作品の救いは、人と人の衝突が現れることだった。
もやもやとみんなが腹の底で抱える周囲の人への蔑視とか嘲笑が、喧嘩の場面で消化されていく。もがくしかないじゃないの、という叫びが優しくさえ思える。朝井さんが叫んでいるようなそんな気持ちさえする。

 

20201024 岡村さんの結婚

本当に嬉しかった。
彼は、巷で話題のバチェロレッテのメインMCを矢部さんとシェリーさんとやってるんですが、ポジションは恋愛をわかっていないおじさんキャラ。
矢部さんは中学時代からの生粋のモテ男だから、本当に男と女の気持ちをよくわかっていて、話しててめちゃくちゃ安定感があります。本当にバチェロレッテのMC向いてると思います。
岡村さんはそれだけじゃなんだかつまらない部分をちゃんと補ってくれる、隙間のような役割をトークの中で果たしてくれていて、彼が話すと空気が緩んでみんな笑顔になる感じがいいです。この方はチャーミングだなあと改めて思いました。
シェリーさんは、女性の立場としていろんなことを話してくれるんですけど、若干自分の価値観を大事にしすぎてる感じというか。岡村さんを残念な男性という目で見る感じが、気になるなあというか。あんまり人の考え方に対して、いい悪いとか当たってる当たってないというのを気にしすぎないほうが、それを見てる方も見やすいのになあとか思ったりしました。
こういうキャラではある岡村さんですが、問題が起こって彼をずっと支え続けた女性と結婚されました。
これって単なるいい話とかそういう話で終わるのももったいないように思うぐらい、多くのレッスンがあるように僕には思えて。
人の過ちを赦すことの大切さ。他者が悪だというものを自分が悪だと思うかは本当は別の話で、自分がその人をどう思うかは、自分がその人をどれだけ知ってるか、そういう部分で考えていきたいと改めて思わされるものです。他者がなぜ悪だというのだろうというのがついつい関心の軸になりがちですが、自分の知るその人が、どんな人だったのかが結局大事なのかなとか。結論、その人について他者の評価に合わせるように、自分の評価がひっくり返るようにも変わるようなら、実はその人と自分は何もわかりあえていなかったし、自分はその人のことを全然知らなかったと証明することさえあるかもしれません。
人の痛みに寄り添う尊さ。身綺麗で瑕のない球だけを己の身の回りに並べたところで、しょうがないと言うか。きれいな面が自分に向いているだけなのかもしれない、という己の認識を大事にしたいし、痛みを分かち合うことに一つ人間が一緒に生きる意味があるんじゃないかなと思ったりします。病や過ちは、そばにいると自分にも移るようなそういう気がするものですが、じゃあ席一つ分離れて座れば自分は本当に幸せなのか、ということは考える価値のある話だと思っていて。清廉な自分でいることがなぜ幸せなのかはちゃんと考えるべき問題だと思います。すごい人には多かれ少なかれ指す陰がある、という事実は人生20 年ちょっと生きてきてしみじみ思ってきたことかもしれません。
人を助ける勇気をもつ強さ。他人の目を気にしていたら絶対にできないことです。あんな人と一緒にいるの?とか、あんな人と結婚したの?と何も知らない人はささやくことでしょう。多くの人が、こういうことに常に怯えているように思います。人を支えたり、助けたりすることは本当に勇気のいることだと思います。人を支える人生、助けるような人生は、楽なものでは決してないと思います。わかりやすい幸せでも決してないです。こうやって本当に人を支えている人々の存在は、安々と語られないし、閉じられた世界にあるからこそ、本当に助けられる人にとって助けになるような気持ちもします。そういうものを閉じられた世界の中で与え与えられて味わうことのできる場所にいられるのか、優しさのそばに生きていけるのかは、僕にとっては自分の幸せを決める大事な部分でもあるように思います。
そして、愛は尊いです。愛している人と一緒に生きることができることも、人生の幸せの一つに違いないと思います。

 

20201031 表現の自由と「自己実現」の話

憲法21条1項では、表現の自由憲法の保障の対象とする旨を定めています。
ルールはルールだ、ですまないのが法学です。
なぜ表現の自由は守られるべき権利として、憲法に明記されたのか、そこが気になるところです。
現在の学説のうちの通説は、表現の自由は、自己実現と自己統治に資するから、というところに絞られているのが現状です。
自己実現における価値は、すなわち対外的に自分の思想や思いを表現することが、個人個人にとって人格の発展につながることに見いだされます。
自己統治の価値は、実はここでいう自己とは社会構成員的な自己を指すのですが、国民が表現活動を通じて民主主義を活発化させ、政治的意思決定に関与することに見いだされます。
特に憲法裁判上においてはですが、後者の自己統治の価値については異論なく判決文等で用いられています。
一方で、自己実現の価値について、これは非常にあやふやな話とも解せます。
すなわち①自己実現とは結局なんなのか、そして②なぜ自己実現表現の自由につながることになるのか。
特に一点目の自己実現とはなんなのか、という点は非常に頭を悩ませるところです。こういうところに、哲学と法学の干渉点が現れます。
この俺の疑問について、以下のブログが答えを一つ提供してくれました。

https://www.azusawa.jp/legalmind/r20050717.html

「私」、 「一人の個人」 という切実な存在を、社会という関係の中においたときにはじめて、 個人は個人になれる、という自己実現に関するせつない思い、不可欠な思考を読者にもっていただきたい
自己実現といい、個人の尊厳といい、抽象的なことばとして観念している限り、それは空虚な砂をかむようなことばである。 しかし、この言葉を一人ひとり、私、あなた、恋人、妻、母、子、の人生という実存にまでひきおろしたときそれは、 実に切実な意味を持つのである。
その切実な存在が、人生の次の一歩にすすもうとするとき、その存在は、 一挙に精神的跳躍をとげ、表現したいという思いにかられ、ディスクール(談話)で、電話という通信で、 手紙で、メールで、ビラで、新聞の記事で、テレビで、ラジオで、他の人に働きかける。
その精神的営為は、個人に至高の価値をおく社会にあっては、 国家によって一指も触れさせてはならないものだ。 (※後記 国際人権規約自由権規約) 一九条をぜひ参照せよ)
生きるということと同じほどに、伝える、という行為は、おかされてはならない価値をもつ。 自己実現とは、一刻一刻を社会的関係の中に生きる人間について、そのまま動的な存在としてとらえた表現なのだと思う。
このように、憲法は人間を自己実現に向けて存在する個人としてとらえる。 そして、そのような人間観にたち、憲法学は、至高の価値をもつ個人の尊厳を守る見地から、 表現の自由の根拠付けを行った。これが自己実現の価値に裏付けられた表現の自由である。

この文章をまとめると、表現活動は他者との関係を築く精神的営為であり、他者に何かを伝えて生きることが自己の生を豊かにするという意味の自己実現に資していて、この権利・自由は決して壊されてはいけないのだという話になります。
自己実現」というと、よく僕らはマズローの欲求階層を持ち出しがちです。が、本質的には結局の所理解が足りていないということを、歴史が教えてくれたりするものです。あの階層で言われるいわゆる「自己実現」は、空集合的な人間状態であるのかもしれません。
自己実現というのは、承認や欲望との関係で本来は語られるものではないことを、知ってもらえたら嬉しいです。