第97問 2020年11月の文章

20201106 国内外の政治と遵法的正義

アメリカ大統領戦から目が離せない日々が続きます。
特定のイデオロギーの勝利のために「不正」かどうかが争われる奇妙な出来事が乱発していて、言いがかりをつければ事実は捻じ曲げることが出来てしまうのではないかとさえ思ったりしてしまいます。
少なくとも共和党にしても民主党にしても、自分たちの勝利のために「不正」か否かについての議論を展開しているような状態は非常に若者にとっては悪影響があるように思っています。というのも、ルールは特定の思想や勢力が勝つために操作されるものでは、決してないからです。
正義とは何かという議論があります。
その昔、アリストテレスによって現在の正義の原型となる分類論が展開されました。
うち、近代以降の社会において揺るがないものが遵法的正義です。
これはまず憲法により国家に課されるものでもあり、また憲法をはじめ各種法律により一人ひとりの市民にも課されるものです。
ルールはルールであるためには、「ルールは守らなくてはいけない」というルールが有るわけです。
この承前の大前提は、多くの社会でその規模や度合いを様々に破られつつあります。
ルールが破られる社会では武力や財力があるものが勝ちます。
そういう状態に社会が徐々に進む場合、小賢しく語る我々の口や筆は本当に意味がないものになってしまうわけです。

 

20201109 マイノリティとエリート

いい記事を見つけました。

comemo.nikkei.com

この小野寺拓也先生のツイートも学びでした。

いつの間にかマイノリティに賛同したり、かれらを慈しんだりすることが、強者の証になっている世の中のねじれを感じています(特に自分の周囲でも起こりつつあることだとも思っています)。
マジョリティで古い人々にどう向き合うことができるかが、社会の牽引者にまず必須のテーマであることは間接民主制的には正しいはずだけれど、民主的プロセスで選ばれたわけでもないエリートが群れになって、教科書やネット記事でみた弱者保護を語る現状は危なさを感じます。
人間の関係が同心円なら、同心円の一番近い人に慈しみをはせることができなければ、もはや我々の語る「弱者」はフィクショナルな物語になっていて、むしろ弱者についてなにか喋れるかどうかが、各々の「こいつはマナーがあるかどうか」のネガティブリストの一つのチェック項目にしかなっていないことに、悲しみを感じます。
エリートの己の優越性の証明を競争する戦いに、弱者は利用されてはならない、と強く思います。
弱者を語るのであるなら、弱者に直接向き合う経験が必要です。
ネットで読んだ、本で読んだ、彼らの生活の痛みや苦しみは、エリートの道具ではありません。それを己の「社会を知っている」という優越心の充足のために利用するのは、おかしな方向に進んでいるかもしれません。

 

20201109 リベラリズムといい未来

アメリカは、理想論では世の中は良くなるわけではないことを、実際にやって、痛みを伴って理解していくプロセスにあると見ることは出来ないでしょうか。
黒人の大統領が生まれても黒人は警察官に殺されるし、女性が副大統領になっても一朝一夕に女性の地位が向上するわけではない。
リベラリズムが空想的な理想論でここになら良い世界があるはずだ、というエリートにとってのフロンティアになっているとして、そこに実際に足を踏み込むからこそ、その大陸は痩せた土地であることを知り、「いい未来」は自分たちで結局時間をかけてその畑を耕すことでしか訪れないことを知ります。
日本のエリートはアメリカのそういう人たちがやっている姿を見て一喜一憂しているだけで、自分の信じるものが実現されるかを他の国の他人任せにしています。
いい未来を信じて、自分がその未来を作るんだ、と思わされる、そんな大統領選でした。
ちなみに自分はトランプからは、学ぶものがすごく多いなと思っています。
というのも、彼が人格が劣悪にもかかわらず、ここまで多くの人に支持されるのは、彼には声が届くからなのではないかと感じているからです。
綺麗事を言ってなあなあにされて、自分の生活は毎日苦しくなっていく、そんな人々にとっては、民主党の候補がする綺麗事ばかりの演説はきっと苛立ちしかないのでしょう。泥臭くて世界中を敵に回そうとも、自分の生活や自分の未来を守ろうと本気になってくれる人を信じるのだろうと思います。
本当は両方が両立されればいいと思うのです。でもそれが本当に難しいことなんだろうなというのは、トランプもオバマも、見ればわかります。
この折り合いがよかったことになるかどうか、決めるのはなんなのでしょうか。国を背負う人々、背負ってきた人々の不安や葛藤に思いを馳せる夜です。
バイデンの勝利は安心をくれましたが、一方トランプはアメリカに必要な人だったと思うし、色々な考え方を得るきっかけをくれる人でもありました。

 

20201115 運命のせいなのか誰かのせいなのか

人やものごとの受け止め方について考えてみませんか。
これはどういうことかというと、簡潔に言えば、ものごとの原因において恣意性を探すのか不可抗力を探すのかという指向性の違いについての話です。
良いこと悪いこと両方について、それが一体accuseできるかという視点が人の物事を受け入れる能力に差をもたらすのではないかということを考えています。
不可抗力に依るものであると捉える傾向にある人は、ものごとを受け入れる/受忍する力が比較的高くなり、恣意性に依るものであると捉える傾向にある人は、そうした力が比較的低くなる傾向にあるのではないでしょうか。
同じ事象について個々人の捉え方が異なることは僕らの生活の前提ですが、その事象の原因についていざ考えるときに、「誰かのせい」なのかそれとも「どうしようもない」なのかで捉え方は異なります。近時よくいう「自分のせい」という考え方は、自己内省的な姿勢についての話で「どうしようもない」に含まれるものとここでは解したいと思います。(すなわち、前提としてこの話においては、自分の言うことなすことはすべてコントロールできるという考え方は誤りであり、自分の言うことなすことは、己の人格の発露のあらゆる態様にすぎず、人格の発露において人間は限られた人格の領域の中でしか物事が出来ないということを了解されたいのです。領域の中でコントローラブルであることと、領域の外にはみ出てどんな人格にでも変われることとは同義ではないということが私の話の根本のところにあります。)
たとえ話をすれば、少しわかりやすくなるでしょうか。家族が病気で死んでしまうことは、ほとんどの人は不可抗力に依るものと捉えられるでしょう。でも、家においていた大切な本がなくなってしまったら、親が片付けたんじゃないだろうかとか、呼んだ友達が持って帰ってしまったのではないかと誰かのせいに依るものと捉える人も出てくるでしょう。試験の点数が悪かったら、運が悪かったなと思う人もいれば、採点する先生が誤ってひどい点数をつけたのではないかと疑う人もいるでしょう。
この姿勢の違いは、人の物事を受け入れる能力に大きく差をもたらすように思います。
不可抗力に依るものだと大局観を持つ人にとって見れば、現実に起こった事実は変えられないものだから、事実を受け入れるしか選択肢はなくなり、その後にどのように生きていくのかがMain Issueになるわけです。
一方で、恣意性に依るものだと事実と外部の他者の恣意の関係を探る人にとって見れば、現実に起こった事実は誰かによってもたらされたものだから、その事実は事実を作り出した人間に責任を見出すことができるし、その責任を追求し、現実に起こった事実を修正したりなかったことにできるはずだから、そうした過去の是正や修正がMain Issueになるわけです。
この不可抗力と恣意性の探求において、人間は事例ごとに対応が変わることは言うまでもありません。
それぞれのグラデーションが、それぞれの人間の中で異なるわけです。
なんでこんなことを思うに至ったかといえば、いろいろなことを見て聞いて、ものごとを受け入れる力が人々の中で衰えつつあるのではないかという仮説がふと立ち上がったからです。政治にしてもSNSにしても、負けとか間違いとか、そういったものにここまで多くの人が苦心し執着し、その修正に躍起になってしまうのがすごく悲しいなあと最近思います。自分にとって、人間としてわかりあえない違いのひとつかもしれません。

 

20201118 分類論と個別具体

なにかしら学問をやっていると絶対逃れられないものとして、分類論・類型論があると思います。
具体的事象を特定の性質ごとにわけたりして、ものごとの理解を補助したり効率化してくれる点が魅力です。
コンサルティングカンパニーでのサービスの一つの柱にも、このグルーピング技術はあると思います。
事例が散らばって対処できなくなっている顧客に対して適切な理解を促すために、フレームワークを使ってものごとを概括的に示すことで鳥瞰的な視点を提供できます。
一方で分類論にはやはり限界があり、学問の初学者や部外者には話がわかりやすくなっても、事実と向き合う最前線に行くならば、こうした分類論を一つの視点としなくてはなりません。特に対人間のものであればあるほどこれは避けられないものだと思います。医者の仕事や法曹、宗教家、カウンセラーとか占い師、コンサルティング会社でもそうでしょう。
ただ、公的サービスはそうは行かない部分があります。大量のケースを廉価でさばかなくてはいけないという社会的要請のもとでは、条件にあてはまったものについて効果が発生するというシステマティックな対応が対人間においてもなされます。そのルールの運用において行政官はプロフェッショナルと言えると思います。
最近、素敵な公共サービスについて知りました。イギリスの事例なのですが、EHCプランというものです。特別な教育的ニーズや障害のある子どもについて、行政がひとりひとりの教育支援プランを立てて、オーダーメイドで社会での生活がゆくゆくはできるように教育・保健・福祉を一本化したケアサービスを作っているのだそうです。日本の障碍者支援は、古くはすべて家族の負担とされ、座敷にずっとそうした人を閉じ込めるような家庭も少なくなかったようです。以降、家族の負担を減らそうということでできあがっていった病院や支援施設も、結局は彼ら彼女らの閉じ込められる場所が変わっただけという現実があります。イギリスの福祉行政は、障碍者でも社会が活躍できる場所を作らなくてはいけないという使命のもとこうしたことをおこなっているのだそうです。
日本では福祉行政は完全に縦割りで、管轄の違う行政やNPOが各々のコミュニケーションで障碍者支援をおこなっており、こうしたオーダーメイドな支援とは程遠い現状です。すこしづつ状況は良くなっているそうですが、イギリスの事例は非常に参考になるなあと勝手に思っていました。
便利な分類論やシステム構築は、汎用性が高いわけではないとふと改めて思うことになりました。

20201121 守られる

news.yahoo.co.jp

彼のつくる作品はなぜかみんなに愛されていた。
図書館で彼の作品の展覧会があったりして、友達と「これのなにがいいんだ」とかごちゃごちゃ言いいながら、悪態をついて鑑賞したのを覚えてる。
この引用元の本を買ってその日に読んだけど、こんなに美しい文章を書くんだからそれはかなわないなと素直に思わされるのでした。
この部分、すべての麻布生を慰めて強く共感させると思う。6年間自分たちは守られていたし、それからもずっと守ってもらっているなと思う。
心の芯から彼の文章に込める感謝に共鳴します。

いま思えば、もし傍から見たら突飛な一連の自分の行動が特異なことだと自分が認識させられていたとしたら、そのこと自体が、自分が自分であるために特別なことをしなければいけないという根拠になってしまっていたと思うんです。それが徹底的に回避されたことで、誰に必要とされるわけでもなくありのままにある自分の姿でそこにいられたことを、時を超えていま理解できます。その感覚的体験によるベースがあって、あらゆる事象、ひと、経験をありのままに感覚する「私」があっていいんだよと、いまでも麻布から言い続けてもらえている気がするんです。
麻布に入ったから自分がこうなったという感覚はありませんが、麻布で守られた自分がいて、いまでも励まされ続けているという感覚はあります。

 

20201126 Quotes from "THIS IS US"

・余命数ヶ月を宣告されたWilliamに、他の登場人物が、「死にゆく(dying)ってどんな感じなの?」と聞いたときの彼の言葉

It feels like all these beautiful pieces of life are flying around me and I’m trying to catch them. When my granddaughter falls asleep in my lap, I try to catch the feeling of her breathing against me. And when I make my son laugh, I try to catch the sound of him laughing. How it rolls up from his chest. But the pieces are moving faster now, and I can’t catch them all. I can feel them slipping through my fingertips. And soon where there used to be my granddaughter breathing and my son laughing, there will be… nothing. I know it feels like you have all the time in the world. But you don’t. So, stop playing it so cool. Catch the moments of your life. Catch them while you’re young and quick. Because sooner than you know it, you’ll be old. And slow. And there’ll be no more of them to catch. And when a nice boy who adores you offers you pie, say thank you.

・そのWilliamが死を迎えるその寸前に、息子Randallに言い残した言葉

You deserve it. You deserve the beautiful life you’ve made. You deserve everything, Randall. My beautiful boy. My son. I haven’t had a happy life. Bad breaks. Bad choices. A life of almosts and could-haves. Some would call it sad, but I don’t. ‘Cause the two best things in my life were the person in the very beginning and the person at the very end. That’s a pretty good thing to be able to say, I think.

 

20201126 実益的なものと象徴的なもの

行動や言葉が実益的であることと、象徴的であること、これらはときに相反する評価を招きます。
もっぱら最近では実益的な部分での評価の仕方を私達は生活の中で目撃して、自分のものにし、それを外部の世界にあてがいます。
私達はそうすると自分は理性的であることを感じ、どこか安心するように思います。
しかしながら、こと社会運動においては、象徴的な意味もまた歴史になるということは非常に興味深いことのように思います。
つまり象徴的な運動は、実益的であるということは難しくても、歴史においては結果になるということなのです。
これは社会運動だけの話なのか、他のことに言えるのかは正直さっぱりわかりません。
ただ社会運動に限るとも限らないとも断言できないことに、気づいたことが私にとっての大きな収穫でした。

democracyuprising.com