第50問 鶏と卵

有名な話。鶏とその卵はいったいどちらが先なのかという命題であるが、似たような話。

12月は1月の前なのか。それとも11月の後なのか。これはとても難しい問題である。

いや最近ひたすらに思うのは、自分は何者なのかということである。本名によって定義されている。ふむ。けれど、名前はイコールじゃないし、そもそも私はそういうことならばイコールを今この世で一番気にくわないと思っている人間である。

例えば、考えてみる。

受験生。決して的を射ることがない正解といった感じである。

男。これは開成高校の人が書きそうな答えだ、そのままの意味で。

息子。うん、やるなといった感じ。俺はこの人と仲良くなれる可能性を少し感じる。OB。胸が苦しい感じで、なんとも言いようがない。誇りも感じさせないような、鋭いというか、縫い針先で刺される、そういうイメージだ。つまり鋭い訳ではない。


自分なりに答え、というかタネがストンと落ちてるからもう書くのがしんどいので、もう書くことがないけれど、私はなんとなく分かったような気がしている。

これは共通項を探すのではなくて、自分を模索する行為自体どういうものなのか、自分を語る上で自分の脳みそに浮かぶのはなんなのか、と漠然と考えるとなんとなく出てくるようなものかもしれない。

最後に受験生としての今の私について少しだけ言っておこう。

最近は模範的受験生なんてのは捨てて、模範的な18歳に近づこうとしている。受験生である前に俺は18歳なんだとようやく気付いた。とはいえ、寒い空気に触れると反射的に筆が動く、といった感じだ。


第49問 共感

最近思った、個人間で一番大切なものである。

音楽も文芸もメールも会話もラインも授業も、共感はかけがえなく大切かもしれない。

共感できればできるほど、その人はいつの間にか大切になってるし、できなければできないほどいつの間にか距離ができてしまう。

不思議なものである。

だから私は孤独な人間には共感というわずかなエッセンスがあればだいぶ変わるのかもしれないと思うのである。

共感されること、これは中々に大切なことになるだろう。でも共感されてもらったら次は、共感することが大事で、好きなアーティストの音楽をじっくりひたひたに聞いてみたりして、心をスロージャムに浸すのだ。

今日の朝日はお気に入りの朝日だった。それぐらい良い朝日だった。

誰かがいつしか言っていた想像って、共感の一つだなと遅れて納得した。

第48問 ノルウェイの森

3ヶ月前ぐらいに書いた書評を捨てたいのでここに書いておく。

ノルウェイの森は現代的な小説として我々にとらえられ、村上春樹は現代的な作家として語られてきた。今日ノルウェイの森を読んだ私には確かに村上春樹の現代性をかんじられた。もしくは、近代性、かもしれない。感じたことを書けば、この文章には人間への密着がないように思う。小説を読む上で私が感じてきた主体の重なりみたいなものがないのである。主人公の「僕」は決して私にはなり得ない。述べられる「僕」の感情はあくまで頭のいい他人が彼を、彼の感情を想像したものであるような気がするのだ。だからある意味で「感情」は分かりやすく、飲み込みやすい。それはわれわれ読者が著者即ち村上春樹の視点を借りるような、そういう体験を得るからである。この文章には素直な吐露がない。たびたび登場人物達は素直であること、正直であることが肝要であると訴える。でも私には直子もレイコも皆目素直であるようには思えない。レイコは何故悉く嘘をつくのだろうか。直子は何故本当の全てを言葉にしないのだろうか。二人とも確かに自分の過去についてはとても素直である。他人であるならば顔をしかめるような辛い過去を、「素直」であるがために何気なしに「僕」に、もしくはわれわれ読者に告白するのである。これは小林緑についても同じことが言えるだろう。(ただし彼女が患者ではないように直子やレイコのようには扱うべきではないのだろう)彼女達は決して今の自分に素直でありえない。これは直子が療養する前、自分の思いをきちんと言葉にできなかった状況が簡潔に彼女達の、ある意味での不誠実さを証明してくれる。もし真に彼女達が今に対しても素直であるならば、村上は我々に彼の思う素直さを訴えているのかもしれない。人間が漠然と他人に抱く不信感を解消する方法として、過去に潔くなり、直子のように不安と感謝を述べることが、非現実的ながらもそれしかない選択肢として示されているのではないかと思う。

一つ私が気持ち悪く感じるところを上げよう。それは作品の美しさを人間の肉体的な性質的な美に委ねようとするところである。あれほどまで人間を交渉させながら、結局は俗的な男女の違い、交わりに完結してしまうのが納得できない。もっと言うならば、肉体の美しさとは結局「モノ」的な美しさなように思えて、人間の葛藤、それも病院に入るまでのあの鋭利な戦いを、柔らかいものに包み込んでしまう。倒錯に思える。

第47問 分かりやすい自己紹介

自己紹介は初対面の人と会った時に、自分が何者なのかを相手に簡潔にわかってもらうためにするものだ。でも、それは大概名前を言ったり、出身の学校を言ったりするだけで終わってしまう。もっとも分かりやすい自己紹介とはなんなのだろうか。

一つには、好きなミュージシャンを聞くのはいい選択肢だろう。私なんかはきっとそういう時、メタル系とかバンド系を聞く人がいるとそっと距離を取ってしまうのだろう。だってそういう人たちは夢見がちだし、現実と夢がすっかり離れてしまっていて、そこが繋がってないと、歌の歌詞だとかそういった類のものからその人のなりを感じ取ることはとても難しい。あとは単純にそういう歌が好きじゃない、というのもある。

嫌いな人を紹介するのは?これは随分白けた自己紹介になりそうだけれど、これで地雷は片付けられる。「この人無理!」が大流行りしてる今の世の中では、理に適った自己紹介だろう。話が逸れるけれど、私はそういう「無理」みたいなものの見方が嫌いだ。治しようのない病だと思う。自己を相当な高さにまで引き上げているのかなという印象を受ける。そういうフィルターほど悲しいものはない。人の特徴をプラス、マイナスで足しあわせてるようでは多様性なんて言葉は使いこなせるようにはならないと思うのだ。主観の絶対領域みたいなものは他人からすれば、それはあくまで他人の考え方に過ぎなくなってしまう。他人は他人で好きにやる、みたいな考え方もあるにはあるが粗悪な自己も生まれてきてしまう。

他には何があるかな。例えそれが充実した自己紹介でも、我々の感性がそれに追いつかなければ、何の意味もないけれど。

第46問 流行り

蚊帳の外から人間を客観視することが最近正しいこととして人々に受け入られていることに、私は素直に違和感を持つ。
確かに学問をする上では必要不可欠なものの見方だけれど、それを日常生活の対人関係に持ち込むのは温かみに欠けてしまう。
テレビのコメンテーターのような、ネットの「正論」のような他人行儀はインテリジェンスとは少し違うものかもしれない。
誰にでも同じ話をしている人は、多分この相手のグラデーションをイマイチ理解していない。まるでツイッターのフォロワー、フェイスブックの友達、のように人間を線を引いて考えているのかもしれない。
ツイッターなんかとてもそういう意味で有用だなあ。半匿名で、フォロワー全員に一度に同じ話ができるわけであって、目を見るときの怖さとか、そういう類のものからは完全に解放されている。そこで「正論」を語ることは多分とても快楽の伴うことなんだろう。「正論」の温床とでも言おうか。感情的なツイートが炎上してしまうのも、いわゆるネットリテラシーがないから、という実は意味不明な論理だったり。
ここでネットを包括的に述べること自体、そういうものをよくわかってる方々はナンセンスだと思ってるかもしれないな。なんとも恥ずかしい。
出来立てホヤホヤの思想の場を今支配している動きは即ち「正論」で、うまいことを言ったものが勝つ空間になっているのだろう。
それでは、私がこの場でこうして意見を表明することはどんな意味を持つのだろうか。少なくとも書いてる側からすれば、常にそういう正論と戦ってきた気がしている。だから、飽きれられたり、理解されないことが多かったのかなと思う。でも別に興ざめな意見でもないかなとも思っている。だからある意味、そういう秩序みたいなものの抜け道みたいなものなのかもしれない。
ツイートって正直フォローしている限り、見ることを承認してみているわけで、「全世界に発信」みたいな論理は少し飛躍があるように思ってしまう。しかし、リツイートとかネットニュースなんてのはこの意見の欠点を突いてきて、痛いわけである。だからまあ完全に、プライベートなネット空間に自分の責任でもって引き込ませることで多少自由なことも言えるようになるのかな。
百何文字かで収める工夫なんかも、こういうブログでは一切いらなくて、逆に「鋭い意見」なんかも別に書かなくていいわけである。だらだらと書きながらも要所要所で、話を締める、っていうのも大事な力なのかなと思う。その分、普段の要約的なコミュニケーションに慣れている人たちにとっては理解しづらいものになってしまうのは難点ではあるけれど。
簡潔さみたいなものも、客観性のコインの裏表にある感じがして、今のところ好きなものじゃない。「要するに〜」は、なかなか言われる方はイラっとするが、きっときちんと纏まった言い方をしない人が悪い、というのが今の言論の風潮からすると正しい意見になる。
本当は正論みたいなものが出すぎると、集団的な感情でものを考える力が衰えるんじゃないか、みたいなことを書こうと思ったんだけれど、「アレ」に似てることが気づいて止めた。(まあわかる人にはわかるよね、今度話す機会があれば当ててみて)
要するに、私からのひとまずのメッセージはネット社会には形式がないのだから、形式的な意見発信をしすぎるのはよくないんじゃない?ということだ。

今回はいろいろな意味で面白いことが書けたような気がする。

第45問 閑話休題

オフレコの話。

フェイスブックの私の投稿のコメント欄は簡単に言って、サンドバックだ。

基本的にみんなが言いたいことを書いていく場所のような気がする。

加えて名前が出ているから、こっちもブログで書くほど威勢のいいことが言えない。

どれもこれもありがたいけれど、議論がすれ違うとめんどくさい。

もっと核心をついたような、私の論の根幹についての意見が欲しい。

賛成なら賛成なりに、反対なら反対なりに、私の文章をよく読んで、バチンと重なるような意見がいつの日かやってくることを待ち望む。

分かりにくい文章を書く自分も大概であることは承知として。

第44問 病院

今日私は病院にいた。特に自分の用ではなくて、人の見舞いに行った。

病院というところは、健全な人間には本当に悪い意味で刺激的である。早く帰りたくなるようなそういう空間だ。若い人の経験とかそういうものに置換されるような場所とは違って、そうでない人々にはあの空間がいかなる意味を持つのかというのは、ものを考えるようになればなるほど辛いものである。

行人で三沢は入院するけれど、あの時感じる血色の悪さが確かに消毒の匂いを伴って、今日の私に思い出された。

私の知り合いには医者になる予定の人がかなり多くて、私は将来どんな病気をしようと安心なんだけれど、冷静に病院という場所に彼らが勤め続けるのだろうかと思うと、とうとう自分にはできないようなそういう目を覆いたくなるような未来に感服するのだ。嗚咽を誘うような尊敬、自分には到底できないことを彼らがやるのだという現実が私を襲うのだ。

病院は家族が一人乗組員をその葉の先から、雫を一つ垂らすように下ろす場だ。朗らかで闊達なものは失せ消え、萎んでいく垂れた肉こそがその場を作り上げるのだ。人間は我々の意思とは真逆に衰えていく。

人間は強烈な弱体化のベクトルの上を生きるのである。

若さはまやかしだ。深い霧が私たちの足元を消して見せようとしない。我々は芽として茎を持ち、幹を持ち、その先端を伸ばしていく。

老いは獲得されて、私たちの若かりし頃を想起させる。弾むような肌、鮮やかな紅の唇、しなやかな手先、シワのない目尻。

医者とかそういう物は、金とかそうしたもので語るには重すぎるかもしれない。あの空間の中で生きる人間。生きることが輝いてしまうあの空間で、輝きを消しながら灯火に寄り添う。

意義を考えるにはあまりに暗いあの空間で、自分に光を感じながら生きるのは、私が言う「人間らしさ」を持つ人間にはすごく難しいことなのかなと思う。逆に言えば今を流れに乗って生きていく人間にはたやすいことでもあるのかもしれない。

大江のあの雰囲気。あれはまさに今日のあれだった。

恩師の「大江健三郎が最後。」という言葉の意味をようやくわかりはじめた。