第103問 平穏を求めて

平和な時間、平穏な時間を求めて生きている。

今は、刺激はうんざりで、そういうものに憧れられるほど、自分はきれいでもない。正攻法で、誠実なものを求めている。素直な謝辞、真っ直ぐな言葉、真っ直ぐな態度。それ以外のものは飾りだ。

誰かの心は人生で拾った名札のない小手技をパフォームする舞台じゃない。

心はくだらない化粧で触れるような安物じゃない。誰かにそのやり方が通じた気がしたからといって味をしめて、心と関わろうとしないで。

下になりたくない、上に立ちたい、そういう気持ちにはもううんざりなんだ。若すぎるし、愚かだ。何も知らないから、正しそうで優越的で、自分の心をくすぐるような言葉を探し歩いているから、そういう気持ちに目覚めてしまうんだよ。

それぞれに宿る価値観に貴賤はなくても、美的感性と育つ優しさ温かさはごまかせない。

なにより、人間の不完全さにいまだにうんざりする自分自身が一番幼いのだ。いつまでも現実を否定するいとぐちを探してる。こういうのともそろそろお別れしなくちゃ。

願いは、ただひどい感性のそばにいたくない、それだけなんだ。この願いと宿る感覚は絶対だれにも汚せない。静かな海ほど美しいものはない。

“You must not lose faith in humanity. Humanity is like an ocean; if a few drops of the ocean are dirty, the ocean does not become dirty.” ― Mahatma Gandhi

 

 

第102問 忘れられないことについて

近頃の自分というのは、忘れるのを手伝うことに身を燃やしている。

忘れられない思い出というのは誰しにもある。

それが悲しい思い出であれば、自分の心を痛め続けてしまうものである。

一方で、楽しい思い出であると、それは過去に執着してしまう惨めな自分を照らし出してしまう。あたかも現在の自分に向かって、あのときの自分が一番幸せだった、今の自分の幸せはあのときには到底及ばない、といったふうな具合に、常に過去の自分が「本当の自分」「最高の自分」として顔を覗かせるのだ。

どうしてこのようなことになってしまうのか、ということさえ思ったりするけれど、人それぞれには事情があり、そうなるまでの過程やコンテクストというものが存在するのが常である。瞬間を切り取るような精神分析によっては、本当のところには手が届かない。

どうも、過去というものは立ちふさがるものである。過去に思いを巡らせてしまう人種は、いつまでたっても現在を味わい切ることができなくなってしまうように思う。

自分について、思い返してみると、過ぎ去ったものの多さに驚愕する部分がある。

過ぎ去った痛みの多さ、過ぎ去った女の多さ。

 

いつまでも女が忘れられないような男、いつまでも男が忘れられないような女というのはどういうことなのだろうか。人によっては、そんな投げかけをするような人生だからいけないのだ、なんてお叱りをくださるような方もいるだろう。

でも、そうはいっても、家族について失望と絶望を繰り返してきた身からすれば、たかだか他人の恋人に思いを引きちぎられるような感覚はなかなか完全には理解したとは言えないものなのだ。

恋人が忘れられない自分が好き、ということなのかもしれない。どう考えても、今日明日その恋人にあなたは会いたいわけではないでしょう、と。その恋人を今抱きたいわけじゃないでしょう、と。その恋人に今あなたは抱かれたいわけではないでしょう、と。

そんなことを言っても通じないのが虚しいところである。

自分の過去の物語の殻に閉じこもってしまっては、いかほどまでに今の世界が鮮やかか感じることも難しいのだ。

 

忘れられない女は、私にも確かに何人かいるだろう。その女達が私にとって特別な理由もわかる。尊い時間を刻んだものだと思う。しかし、私には到底彼女たちをもう一度抱きしめる力はない。

そういう思い出を振り返り、自慰にふけるようなことはまったくないのだ。

 

なぜそこまで忘れられないのだろう。なぜそこまで離れられないのであろう。恋愛がもっとも自分の胸を打つような中毒になるような刺激だったのだろうか。

誰かに羨ましがれるような恋愛をして、今の自分こそが一番過去の自分を羨ましく思うのだろうか。

どうしてそのようなことになってしまうのだろうか。生きる幸せを感受する感性の問題なのだろうか。あなたが過去にしがみつくのを感じるたびに、私の心は一歩づつ離れていくのだ。あなたには気付かれないように、少しづつ少しづつ遠くへ逃げるのだ。

でも、いかに今私達の前に横たわる生が幸せか、自分になら教えてあげられるかもしれない。

今の病を抱えるあなたには、なかなか納得できない言葉を私はかけるだろう。

でもそれが、数カ月後、数年後にはっきりと分かるときが、かならずややってくると、私は信じようと思う。

第101問 仲間の痛み

近頃の自分の周囲はというと、やっとのこと、自分が辛いことを辛いと皆が認めるようになってきて、お互いの痛みを分かち合うようなそんな時間がながれることが多くなった。

これは、私に心を多かれ少なかれ開いてくれている人がいることを感じて、自分の存在の意味を感じる契機である一方で、同時に他者の痛みを理解できない苦しみを感じる契機でもある。

皆心が痛がっている。誰が皆を苦しめるのだろう。

私のそばにいる時、笑顔でいてほしいと強く思う。

でも、またどこかで皆傷ついて帰ってくる。

この社会はこんなにも悲しい場所なのだろうか。

そばにいてあげたい。

第100問 今の自分は

風が後ろから吹いて、自分のシャンプーの香りがした。好みのシトラスの香りだ。

その後、風は足元から立ち上がって、腕につけた香水が香った。

自分の街は帰るための街で、ずっとずっといるべき場所じゃないことを今日の帰り道に気づいた。

 

宇佐美りんの「推し、燃ゆ」を電車に乗りながら読み終えて、家で読む必要がないことに安心して帰路についた。

家を出たときは、電車に乗ってどこかにいくつもりはなかったけれど、「わたしを離さないで」を4章分くらいフラペチーノを飲みながら読み進めて、ふと民事訴訟法の分厚い教科書を読みに渋谷に出かけることに決めたのだった。

渋谷のデパートにある大きな本屋にいった。デパートの入口にはいい匂いのするアルコール消毒液があって、それを手に塗る。

読みに行った教科書はおいてなくて、民法の演習書も気になっていたものはなくて、刑事訴訟法の演習書と民法の導入書をざっと立ち読みした。

帰り際、手には「わたしを離さないで」と「鏡子の家」があったから、小説は買わないつもりだったけど、宇佐美さんの小説がズラッと並んだ棚をみかけ、せっかくだから開いて読んでみた。すると、最初の数ページ読んだだけで、この本は面白いという自分の嗅覚が言うのだった。

渋谷の改札に行く途中に気づいた。

悲しいことがいっぱいあったけれど、どうしたらいいかずっと考えていた。

俺に語りかける俺がいた。

「悲しい思い出は、喜びと幸せで塗り替えていけばいいじゃないか」

正確にいうと、ふと優しい気持ちで呟いていた。

思い出を振り返り、誰かを思い出すことが辛くなるのは、思い出が悲しみに染まるからだった。

一度染み込んだ悲しみは、抜けないと思うと、明るい絵の具の蓋をあけなくなってしまっていたのだ、俺は。

他人を、誰かを大切に思う気持ちは、こういうものなのだと気づいた。

たとえ思い出が悲しいものであっても、大切で、今度また会いたいと自然に思えれば、そのときに楽しい幸せな思い出を塗り重ねていければいいのだ。

そういえば、そうやって生きてきたんだった。

言葉や思い出が、悲しみでずぶ濡れなような気がしていた。

太陽の下に干して、時間が経てば、濡れは乾く。

そのときに、また美しい色で染め上げて、塗り重ねていければいいんだ。

俺は、人を大切に、心から大切に思っているんだと感じて、安心した。

 「真夏の通り雨」にこんな歌詞がある。

思い出たちがふいに私を
乱暴に掴んで離さない

振り放そうとするから悲しかったし、手放したくない痛みで辛かった。

思い出は増えていくし、塗り重ねられていくものだった。

 

だから、帰り道はとても穏やかだった。

第99問 もう二度と

他人を傷つけようとして言葉を使っているのに気づく時、それがしかも心を許した人であった時、今までのすべてにはなんの意味があったのだろうか。

人を傷つけようと思って傷つける人は、自分が誰かにそうされたから、人を傷つけるのだろうか。

誰かがそうしてるのを真似して、人を傷つけるのだろうか、自分がしてきたことや、いってきたことを棚にあげて。

心を許してしまった自分が馬鹿だったのだろうか。信頼した自分が馬鹿だったのだろうか。

世の中の人はみんな、傷つけあうことを正当化して生きている。俺の周りの人だけは、そういう悲しい傷つけ合いから守ってあげたかった。

ずっとずっと涙が止まらない。

傷つけて息の根を止めれば、人が黙ると思ってる、人を支配できると思ってる。

人を苦しめることができると思うから、それですっとするから、人は人を。

人に傷つけられてしまった時、傷つけられたことよりも、その人が自分を傷つけようと傷つけることに泣く。
自分のことを傷つけたかったんだなと、気づいてしまうその瞬間が本当に悲しい。
信じてたものが深いほど、悲しい。

そうじゃないと思っても、そんなことはないと思っても、涙が溢れて止まらない。

第98問 とある年の暮れに

ふと君のことを思う。

 

帰りの電車で僕を見つめた君の瞳のことを思う。

君を慰めたときの君の流した涙を思う。

君を愛でたときの君の緩んだ唇を思う。

 

君と一緒にいると、自分の気持ちに気づく。

君と一緒にいられないときに、不意に高まった自分の思いが落ち着いていくのに気づく。

君のことを人間として好きになっていく自分に気づく。

 

こだわりはないけれど、幸せな形で一緒にいられたらいい。

君が僕のために、電車を乗り過ごすとき、本当は涙が出るくらい幸せだ。

 

僕が君の手を握るときや君のことを見つめるとき、同じぐらい温かいものが君を包んでいてくれることを願ってる。

君の幸せを願ってる。

第97問 2020年11月の文章

20201106 国内外の政治と遵法的正義

アメリカ大統領戦から目が離せない日々が続きます。
特定のイデオロギーの勝利のために「不正」かどうかが争われる奇妙な出来事が乱発していて、言いがかりをつければ事実は捻じ曲げることが出来てしまうのではないかとさえ思ったりしてしまいます。
少なくとも共和党にしても民主党にしても、自分たちの勝利のために「不正」か否かについての議論を展開しているような状態は非常に若者にとっては悪影響があるように思っています。というのも、ルールは特定の思想や勢力が勝つために操作されるものでは、決してないからです。
正義とは何かという議論があります。
その昔、アリストテレスによって現在の正義の原型となる分類論が展開されました。
うち、近代以降の社会において揺るがないものが遵法的正義です。
これはまず憲法により国家に課されるものでもあり、また憲法をはじめ各種法律により一人ひとりの市民にも課されるものです。
ルールはルールであるためには、「ルールは守らなくてはいけない」というルールが有るわけです。
この承前の大前提は、多くの社会でその規模や度合いを様々に破られつつあります。
ルールが破られる社会では武力や財力があるものが勝ちます。
そういう状態に社会が徐々に進む場合、小賢しく語る我々の口や筆は本当に意味がないものになってしまうわけです。

 

20201109 マイノリティとエリート

いい記事を見つけました。

comemo.nikkei.com

この小野寺拓也先生のツイートも学びでした。

いつの間にかマイノリティに賛同したり、かれらを慈しんだりすることが、強者の証になっている世の中のねじれを感じています(特に自分の周囲でも起こりつつあることだとも思っています)。
マジョリティで古い人々にどう向き合うことができるかが、社会の牽引者にまず必須のテーマであることは間接民主制的には正しいはずだけれど、民主的プロセスで選ばれたわけでもないエリートが群れになって、教科書やネット記事でみた弱者保護を語る現状は危なさを感じます。
人間の関係が同心円なら、同心円の一番近い人に慈しみをはせることができなければ、もはや我々の語る「弱者」はフィクショナルな物語になっていて、むしろ弱者についてなにか喋れるかどうかが、各々の「こいつはマナーがあるかどうか」のネガティブリストの一つのチェック項目にしかなっていないことに、悲しみを感じます。
エリートの己の優越性の証明を競争する戦いに、弱者は利用されてはならない、と強く思います。
弱者を語るのであるなら、弱者に直接向き合う経験が必要です。
ネットで読んだ、本で読んだ、彼らの生活の痛みや苦しみは、エリートの道具ではありません。それを己の「社会を知っている」という優越心の充足のために利用するのは、おかしな方向に進んでいるかもしれません。

 

20201109 リベラリズムといい未来

アメリカは、理想論では世の中は良くなるわけではないことを、実際にやって、痛みを伴って理解していくプロセスにあると見ることは出来ないでしょうか。
黒人の大統領が生まれても黒人は警察官に殺されるし、女性が副大統領になっても一朝一夕に女性の地位が向上するわけではない。
リベラリズムが空想的な理想論でここになら良い世界があるはずだ、というエリートにとってのフロンティアになっているとして、そこに実際に足を踏み込むからこそ、その大陸は痩せた土地であることを知り、「いい未来」は自分たちで結局時間をかけてその畑を耕すことでしか訪れないことを知ります。
日本のエリートはアメリカのそういう人たちがやっている姿を見て一喜一憂しているだけで、自分の信じるものが実現されるかを他の国の他人任せにしています。
いい未来を信じて、自分がその未来を作るんだ、と思わされる、そんな大統領選でした。
ちなみに自分はトランプからは、学ぶものがすごく多いなと思っています。
というのも、彼が人格が劣悪にもかかわらず、ここまで多くの人に支持されるのは、彼には声が届くからなのではないかと感じているからです。
綺麗事を言ってなあなあにされて、自分の生活は毎日苦しくなっていく、そんな人々にとっては、民主党の候補がする綺麗事ばかりの演説はきっと苛立ちしかないのでしょう。泥臭くて世界中を敵に回そうとも、自分の生活や自分の未来を守ろうと本気になってくれる人を信じるのだろうと思います。
本当は両方が両立されればいいと思うのです。でもそれが本当に難しいことなんだろうなというのは、トランプもオバマも、見ればわかります。
この折り合いがよかったことになるかどうか、決めるのはなんなのでしょうか。国を背負う人々、背負ってきた人々の不安や葛藤に思いを馳せる夜です。
バイデンの勝利は安心をくれましたが、一方トランプはアメリカに必要な人だったと思うし、色々な考え方を得るきっかけをくれる人でもありました。

 

20201115 運命のせいなのか誰かのせいなのか

人やものごとの受け止め方について考えてみませんか。
これはどういうことかというと、簡潔に言えば、ものごとの原因において恣意性を探すのか不可抗力を探すのかという指向性の違いについての話です。
良いこと悪いこと両方について、それが一体accuseできるかという視点が人の物事を受け入れる能力に差をもたらすのではないかということを考えています。
不可抗力に依るものであると捉える傾向にある人は、ものごとを受け入れる/受忍する力が比較的高くなり、恣意性に依るものであると捉える傾向にある人は、そうした力が比較的低くなる傾向にあるのではないでしょうか。
同じ事象について個々人の捉え方が異なることは僕らの生活の前提ですが、その事象の原因についていざ考えるときに、「誰かのせい」なのかそれとも「どうしようもない」なのかで捉え方は異なります。近時よくいう「自分のせい」という考え方は、自己内省的な姿勢についての話で「どうしようもない」に含まれるものとここでは解したいと思います。(すなわち、前提としてこの話においては、自分の言うことなすことはすべてコントロールできるという考え方は誤りであり、自分の言うことなすことは、己の人格の発露のあらゆる態様にすぎず、人格の発露において人間は限られた人格の領域の中でしか物事が出来ないということを了解されたいのです。領域の中でコントローラブルであることと、領域の外にはみ出てどんな人格にでも変われることとは同義ではないということが私の話の根本のところにあります。)
たとえ話をすれば、少しわかりやすくなるでしょうか。家族が病気で死んでしまうことは、ほとんどの人は不可抗力に依るものと捉えられるでしょう。でも、家においていた大切な本がなくなってしまったら、親が片付けたんじゃないだろうかとか、呼んだ友達が持って帰ってしまったのではないかと誰かのせいに依るものと捉える人も出てくるでしょう。試験の点数が悪かったら、運が悪かったなと思う人もいれば、採点する先生が誤ってひどい点数をつけたのではないかと疑う人もいるでしょう。
この姿勢の違いは、人の物事を受け入れる能力に大きく差をもたらすように思います。
不可抗力に依るものだと大局観を持つ人にとって見れば、現実に起こった事実は変えられないものだから、事実を受け入れるしか選択肢はなくなり、その後にどのように生きていくのかがMain Issueになるわけです。
一方で、恣意性に依るものだと事実と外部の他者の恣意の関係を探る人にとって見れば、現実に起こった事実は誰かによってもたらされたものだから、その事実は事実を作り出した人間に責任を見出すことができるし、その責任を追求し、現実に起こった事実を修正したりなかったことにできるはずだから、そうした過去の是正や修正がMain Issueになるわけです。
この不可抗力と恣意性の探求において、人間は事例ごとに対応が変わることは言うまでもありません。
それぞれのグラデーションが、それぞれの人間の中で異なるわけです。
なんでこんなことを思うに至ったかといえば、いろいろなことを見て聞いて、ものごとを受け入れる力が人々の中で衰えつつあるのではないかという仮説がふと立ち上がったからです。政治にしてもSNSにしても、負けとか間違いとか、そういったものにここまで多くの人が苦心し執着し、その修正に躍起になってしまうのがすごく悲しいなあと最近思います。自分にとって、人間としてわかりあえない違いのひとつかもしれません。

 

20201118 分類論と個別具体

なにかしら学問をやっていると絶対逃れられないものとして、分類論・類型論があると思います。
具体的事象を特定の性質ごとにわけたりして、ものごとの理解を補助したり効率化してくれる点が魅力です。
コンサルティングカンパニーでのサービスの一つの柱にも、このグルーピング技術はあると思います。
事例が散らばって対処できなくなっている顧客に対して適切な理解を促すために、フレームワークを使ってものごとを概括的に示すことで鳥瞰的な視点を提供できます。
一方で分類論にはやはり限界があり、学問の初学者や部外者には話がわかりやすくなっても、事実と向き合う最前線に行くならば、こうした分類論を一つの視点としなくてはなりません。特に対人間のものであればあるほどこれは避けられないものだと思います。医者の仕事や法曹、宗教家、カウンセラーとか占い師、コンサルティング会社でもそうでしょう。
ただ、公的サービスはそうは行かない部分があります。大量のケースを廉価でさばかなくてはいけないという社会的要請のもとでは、条件にあてはまったものについて効果が発生するというシステマティックな対応が対人間においてもなされます。そのルールの運用において行政官はプロフェッショナルと言えると思います。
最近、素敵な公共サービスについて知りました。イギリスの事例なのですが、EHCプランというものです。特別な教育的ニーズや障害のある子どもについて、行政がひとりひとりの教育支援プランを立てて、オーダーメイドで社会での生活がゆくゆくはできるように教育・保健・福祉を一本化したケアサービスを作っているのだそうです。日本の障碍者支援は、古くはすべて家族の負担とされ、座敷にずっとそうした人を閉じ込めるような家庭も少なくなかったようです。以降、家族の負担を減らそうということでできあがっていった病院や支援施設も、結局は彼ら彼女らの閉じ込められる場所が変わっただけという現実があります。イギリスの福祉行政は、障碍者でも社会が活躍できる場所を作らなくてはいけないという使命のもとこうしたことをおこなっているのだそうです。
日本では福祉行政は完全に縦割りで、管轄の違う行政やNPOが各々のコミュニケーションで障碍者支援をおこなっており、こうしたオーダーメイドな支援とは程遠い現状です。すこしづつ状況は良くなっているそうですが、イギリスの事例は非常に参考になるなあと勝手に思っていました。
便利な分類論やシステム構築は、汎用性が高いわけではないとふと改めて思うことになりました。

20201121 守られる

news.yahoo.co.jp

彼のつくる作品はなぜかみんなに愛されていた。
図書館で彼の作品の展覧会があったりして、友達と「これのなにがいいんだ」とかごちゃごちゃ言いいながら、悪態をついて鑑賞したのを覚えてる。
この引用元の本を買ってその日に読んだけど、こんなに美しい文章を書くんだからそれはかなわないなと素直に思わされるのでした。
この部分、すべての麻布生を慰めて強く共感させると思う。6年間自分たちは守られていたし、それからもずっと守ってもらっているなと思う。
心の芯から彼の文章に込める感謝に共鳴します。

いま思えば、もし傍から見たら突飛な一連の自分の行動が特異なことだと自分が認識させられていたとしたら、そのこと自体が、自分が自分であるために特別なことをしなければいけないという根拠になってしまっていたと思うんです。それが徹底的に回避されたことで、誰に必要とされるわけでもなくありのままにある自分の姿でそこにいられたことを、時を超えていま理解できます。その感覚的体験によるベースがあって、あらゆる事象、ひと、経験をありのままに感覚する「私」があっていいんだよと、いまでも麻布から言い続けてもらえている気がするんです。
麻布に入ったから自分がこうなったという感覚はありませんが、麻布で守られた自分がいて、いまでも励まされ続けているという感覚はあります。

 

20201126 Quotes from "THIS IS US"

・余命数ヶ月を宣告されたWilliamに、他の登場人物が、「死にゆく(dying)ってどんな感じなの?」と聞いたときの彼の言葉

It feels like all these beautiful pieces of life are flying around me and I’m trying to catch them. When my granddaughter falls asleep in my lap, I try to catch the feeling of her breathing against me. And when I make my son laugh, I try to catch the sound of him laughing. How it rolls up from his chest. But the pieces are moving faster now, and I can’t catch them all. I can feel them slipping through my fingertips. And soon where there used to be my granddaughter breathing and my son laughing, there will be… nothing. I know it feels like you have all the time in the world. But you don’t. So, stop playing it so cool. Catch the moments of your life. Catch them while you’re young and quick. Because sooner than you know it, you’ll be old. And slow. And there’ll be no more of them to catch. And when a nice boy who adores you offers you pie, say thank you.

・そのWilliamが死を迎えるその寸前に、息子Randallに言い残した言葉

You deserve it. You deserve the beautiful life you’ve made. You deserve everything, Randall. My beautiful boy. My son. I haven’t had a happy life. Bad breaks. Bad choices. A life of almosts and could-haves. Some would call it sad, but I don’t. ‘Cause the two best things in my life were the person in the very beginning and the person at the very end. That’s a pretty good thing to be able to say, I think.

 

20201126 実益的なものと象徴的なもの

行動や言葉が実益的であることと、象徴的であること、これらはときに相反する評価を招きます。
もっぱら最近では実益的な部分での評価の仕方を私達は生活の中で目撃して、自分のものにし、それを外部の世界にあてがいます。
私達はそうすると自分は理性的であることを感じ、どこか安心するように思います。
しかしながら、こと社会運動においては、象徴的な意味もまた歴史になるということは非常に興味深いことのように思います。
つまり象徴的な運動は、実益的であるということは難しくても、歴史においては結果になるということなのです。
これは社会運動だけの話なのか、他のことに言えるのかは正直さっぱりわかりません。
ただ社会運動に限るとも限らないとも断言できないことに、気づいたことが私にとっての大きな収穫でした。

democracyuprising.com