第100問 今の自分は

風が後ろから吹いて、自分のシャンプーの香りがした。好みのシトラスの香りだ。

その後、風は足元から立ち上がって、腕につけた香水が香った。

自分の街は帰るための街で、ずっとずっといるべき場所じゃないことを今日の帰り道に気づいた。

 

宇佐美りんの「推し、燃ゆ」を電車に乗りながら読み終えて、家で読む必要がないことに安心して帰路についた。

家を出たときは、電車に乗ってどこかにいくつもりはなかったけれど、「わたしを離さないで」を4章分くらいフラペチーノを飲みながら読み進めて、ふと民事訴訟法の分厚い教科書を読みに渋谷に出かけることに決めたのだった。

渋谷のデパートにある大きな本屋にいった。デパートの入口にはいい匂いのするアルコール消毒液があって、それを手に塗る。

読みに行った教科書はおいてなくて、民法の演習書も気になっていたものはなくて、刑事訴訟法の演習書と民法の導入書をざっと立ち読みした。

帰り際、手には「わたしを離さないで」と「鏡子の家」があったから、小説は買わないつもりだったけど、宇佐美さんの小説がズラッと並んだ棚をみかけ、せっかくだから開いて読んでみた。すると、最初の数ページ読んだだけで、この本は面白いという自分の嗅覚が言うのだった。

渋谷の改札に行く途中に気づいた。

悲しいことがいっぱいあったけれど、どうしたらいいかずっと考えていた。

俺に語りかける俺がいた。

「悲しい思い出は、喜びと幸せで塗り替えていけばいいじゃないか」

正確にいうと、ふと優しい気持ちで呟いていた。

思い出を振り返り、誰かを思い出すことが辛くなるのは、思い出が悲しみに染まるからだった。

一度染み込んだ悲しみは、抜けないと思うと、明るい絵の具の蓋をあけなくなってしまっていたのだ、俺は。

他人を、誰かを大切に思う気持ちは、こういうものなのだと気づいた。

たとえ思い出が悲しいものであっても、大切で、今度また会いたいと自然に思えれば、そのときに楽しい幸せな思い出を塗り重ねていければいいのだ。

そういえば、そうやって生きてきたんだった。

言葉や思い出が、悲しみでずぶ濡れなような気がしていた。

太陽の下に干して、時間が経てば、濡れは乾く。

そのときに、また美しい色で染め上げて、塗り重ねていければいいんだ。

俺は、人を大切に、心から大切に思っているんだと感じて、安心した。

 「真夏の通り雨」にこんな歌詞がある。

思い出たちがふいに私を
乱暴に掴んで離さない

振り放そうとするから悲しかったし、手放したくない痛みで辛かった。

思い出は増えていくし、塗り重ねられていくものだった。

 

だから、帰り道はとても穏やかだった。

第99問 もう二度と

他人を傷つけようとして言葉を使っているのに気づく時、それがしかも心を許した人であった時、今までのすべてにはなんの意味があったのだろうか。

人を傷つけようと思って傷つける人は、自分が誰かにそうされたから、人を傷つけるのだろうか。

誰かがそうしてるのを真似して、人を傷つけるのだろうか、自分がしてきたことや、いってきたことを棚にあげて。

心を許してしまった自分が馬鹿だったのだろうか。信頼した自分が馬鹿だったのだろうか。

世の中の人はみんな、傷つけあうことを正当化して生きている。俺の周りの人だけは、そういう悲しい傷つけ合いから守ってあげたかった。

ずっとずっと涙が止まらない。

傷つけて息の根を止めれば、人が黙ると思ってる、人を支配できると思ってる。

人を苦しめることができると思うから、それですっとするから、人は人を。

人に傷つけられてしまった時、傷つけられたことよりも、その人が自分を傷つけようと傷つけることに泣く。
自分のことを傷つけたかったんだなと、気づいてしまうその瞬間が本当に悲しい。
信じてたものが深いほど、悲しい。

そうじゃないと思っても、そんなことはないと思っても、涙が溢れて止まらない。

第98問 とある年の暮れに

ふと君のことを思う。

 

帰りの電車で僕を見つめた君の瞳のことを思う。

君を慰めたときの君の流した涙を思う。

君を愛でたときの君の緩んだ唇を思う。

 

君と一緒にいると、自分の気持ちに気づく。

君と一緒にいられないときに、不意に高まった自分の思いが落ち着いていくのに気づく。

君のことを人間として好きになっていく自分に気づく。

 

こだわりはないけれど、幸せな形で一緒にいられたらいい。

君が僕のために、電車を乗り過ごすとき、本当は涙が出るくらい幸せだ。

 

僕が君の手を握るときや君のことを見つめるとき、同じぐらい温かいものが君を包んでいてくれることを願ってる。

君の幸せを願ってる。

第97問 2020年11月の文章

20201106 国内外の政治と遵法的正義

アメリカ大統領戦から目が離せない日々が続きます。
特定のイデオロギーの勝利のために「不正」かどうかが争われる奇妙な出来事が乱発していて、言いがかりをつければ事実は捻じ曲げることが出来てしまうのではないかとさえ思ったりしてしまいます。
少なくとも共和党にしても民主党にしても、自分たちの勝利のために「不正」か否かについての議論を展開しているような状態は非常に若者にとっては悪影響があるように思っています。というのも、ルールは特定の思想や勢力が勝つために操作されるものでは、決してないからです。
正義とは何かという議論があります。
その昔、アリストテレスによって現在の正義の原型となる分類論が展開されました。
うち、近代以降の社会において揺るがないものが遵法的正義です。
これはまず憲法により国家に課されるものでもあり、また憲法をはじめ各種法律により一人ひとりの市民にも課されるものです。
ルールはルールであるためには、「ルールは守らなくてはいけない」というルールが有るわけです。
この承前の大前提は、多くの社会でその規模や度合いを様々に破られつつあります。
ルールが破られる社会では武力や財力があるものが勝ちます。
そういう状態に社会が徐々に進む場合、小賢しく語る我々の口や筆は本当に意味がないものになってしまうわけです。

 

20201109 マイノリティとエリート

いい記事を見つけました。

comemo.nikkei.com

この小野寺拓也先生のツイートも学びでした。

いつの間にかマイノリティに賛同したり、かれらを慈しんだりすることが、強者の証になっている世の中のねじれを感じています(特に自分の周囲でも起こりつつあることだとも思っています)。
マジョリティで古い人々にどう向き合うことができるかが、社会の牽引者にまず必須のテーマであることは間接民主制的には正しいはずだけれど、民主的プロセスで選ばれたわけでもないエリートが群れになって、教科書やネット記事でみた弱者保護を語る現状は危なさを感じます。
人間の関係が同心円なら、同心円の一番近い人に慈しみをはせることができなければ、もはや我々の語る「弱者」はフィクショナルな物語になっていて、むしろ弱者についてなにか喋れるかどうかが、各々の「こいつはマナーがあるかどうか」のネガティブリストの一つのチェック項目にしかなっていないことに、悲しみを感じます。
エリートの己の優越性の証明を競争する戦いに、弱者は利用されてはならない、と強く思います。
弱者を語るのであるなら、弱者に直接向き合う経験が必要です。
ネットで読んだ、本で読んだ、彼らの生活の痛みや苦しみは、エリートの道具ではありません。それを己の「社会を知っている」という優越心の充足のために利用するのは、おかしな方向に進んでいるかもしれません。

 

20201109 リベラリズムといい未来

アメリカは、理想論では世の中は良くなるわけではないことを、実際にやって、痛みを伴って理解していくプロセスにあると見ることは出来ないでしょうか。
黒人の大統領が生まれても黒人は警察官に殺されるし、女性が副大統領になっても一朝一夕に女性の地位が向上するわけではない。
リベラリズムが空想的な理想論でここになら良い世界があるはずだ、というエリートにとってのフロンティアになっているとして、そこに実際に足を踏み込むからこそ、その大陸は痩せた土地であることを知り、「いい未来」は自分たちで結局時間をかけてその畑を耕すことでしか訪れないことを知ります。
日本のエリートはアメリカのそういう人たちがやっている姿を見て一喜一憂しているだけで、自分の信じるものが実現されるかを他の国の他人任せにしています。
いい未来を信じて、自分がその未来を作るんだ、と思わされる、そんな大統領選でした。
ちなみに自分はトランプからは、学ぶものがすごく多いなと思っています。
というのも、彼が人格が劣悪にもかかわらず、ここまで多くの人に支持されるのは、彼には声が届くからなのではないかと感じているからです。
綺麗事を言ってなあなあにされて、自分の生活は毎日苦しくなっていく、そんな人々にとっては、民主党の候補がする綺麗事ばかりの演説はきっと苛立ちしかないのでしょう。泥臭くて世界中を敵に回そうとも、自分の生活や自分の未来を守ろうと本気になってくれる人を信じるのだろうと思います。
本当は両方が両立されればいいと思うのです。でもそれが本当に難しいことなんだろうなというのは、トランプもオバマも、見ればわかります。
この折り合いがよかったことになるかどうか、決めるのはなんなのでしょうか。国を背負う人々、背負ってきた人々の不安や葛藤に思いを馳せる夜です。
バイデンの勝利は安心をくれましたが、一方トランプはアメリカに必要な人だったと思うし、色々な考え方を得るきっかけをくれる人でもありました。

 

20201115 運命のせいなのか誰かのせいなのか

人やものごとの受け止め方について考えてみませんか。
これはどういうことかというと、簡潔に言えば、ものごとの原因において恣意性を探すのか不可抗力を探すのかという指向性の違いについての話です。
良いこと悪いこと両方について、それが一体accuseできるかという視点が人の物事を受け入れる能力に差をもたらすのではないかということを考えています。
不可抗力に依るものであると捉える傾向にある人は、ものごとを受け入れる/受忍する力が比較的高くなり、恣意性に依るものであると捉える傾向にある人は、そうした力が比較的低くなる傾向にあるのではないでしょうか。
同じ事象について個々人の捉え方が異なることは僕らの生活の前提ですが、その事象の原因についていざ考えるときに、「誰かのせい」なのかそれとも「どうしようもない」なのかで捉え方は異なります。近時よくいう「自分のせい」という考え方は、自己内省的な姿勢についての話で「どうしようもない」に含まれるものとここでは解したいと思います。(すなわち、前提としてこの話においては、自分の言うことなすことはすべてコントロールできるという考え方は誤りであり、自分の言うことなすことは、己の人格の発露のあらゆる態様にすぎず、人格の発露において人間は限られた人格の領域の中でしか物事が出来ないということを了解されたいのです。領域の中でコントローラブルであることと、領域の外にはみ出てどんな人格にでも変われることとは同義ではないということが私の話の根本のところにあります。)
たとえ話をすれば、少しわかりやすくなるでしょうか。家族が病気で死んでしまうことは、ほとんどの人は不可抗力に依るものと捉えられるでしょう。でも、家においていた大切な本がなくなってしまったら、親が片付けたんじゃないだろうかとか、呼んだ友達が持って帰ってしまったのではないかと誰かのせいに依るものと捉える人も出てくるでしょう。試験の点数が悪かったら、運が悪かったなと思う人もいれば、採点する先生が誤ってひどい点数をつけたのではないかと疑う人もいるでしょう。
この姿勢の違いは、人の物事を受け入れる能力に大きく差をもたらすように思います。
不可抗力に依るものだと大局観を持つ人にとって見れば、現実に起こった事実は変えられないものだから、事実を受け入れるしか選択肢はなくなり、その後にどのように生きていくのかがMain Issueになるわけです。
一方で、恣意性に依るものだと事実と外部の他者の恣意の関係を探る人にとって見れば、現実に起こった事実は誰かによってもたらされたものだから、その事実は事実を作り出した人間に責任を見出すことができるし、その責任を追求し、現実に起こった事実を修正したりなかったことにできるはずだから、そうした過去の是正や修正がMain Issueになるわけです。
この不可抗力と恣意性の探求において、人間は事例ごとに対応が変わることは言うまでもありません。
それぞれのグラデーションが、それぞれの人間の中で異なるわけです。
なんでこんなことを思うに至ったかといえば、いろいろなことを見て聞いて、ものごとを受け入れる力が人々の中で衰えつつあるのではないかという仮説がふと立ち上がったからです。政治にしてもSNSにしても、負けとか間違いとか、そういったものにここまで多くの人が苦心し執着し、その修正に躍起になってしまうのがすごく悲しいなあと最近思います。自分にとって、人間としてわかりあえない違いのひとつかもしれません。

 

20201118 分類論と個別具体

なにかしら学問をやっていると絶対逃れられないものとして、分類論・類型論があると思います。
具体的事象を特定の性質ごとにわけたりして、ものごとの理解を補助したり効率化してくれる点が魅力です。
コンサルティングカンパニーでのサービスの一つの柱にも、このグルーピング技術はあると思います。
事例が散らばって対処できなくなっている顧客に対して適切な理解を促すために、フレームワークを使ってものごとを概括的に示すことで鳥瞰的な視点を提供できます。
一方で分類論にはやはり限界があり、学問の初学者や部外者には話がわかりやすくなっても、事実と向き合う最前線に行くならば、こうした分類論を一つの視点としなくてはなりません。特に対人間のものであればあるほどこれは避けられないものだと思います。医者の仕事や法曹、宗教家、カウンセラーとか占い師、コンサルティング会社でもそうでしょう。
ただ、公的サービスはそうは行かない部分があります。大量のケースを廉価でさばかなくてはいけないという社会的要請のもとでは、条件にあてはまったものについて効果が発生するというシステマティックな対応が対人間においてもなされます。そのルールの運用において行政官はプロフェッショナルと言えると思います。
最近、素敵な公共サービスについて知りました。イギリスの事例なのですが、EHCプランというものです。特別な教育的ニーズや障害のある子どもについて、行政がひとりひとりの教育支援プランを立てて、オーダーメイドで社会での生活がゆくゆくはできるように教育・保健・福祉を一本化したケアサービスを作っているのだそうです。日本の障碍者支援は、古くはすべて家族の負担とされ、座敷にずっとそうした人を閉じ込めるような家庭も少なくなかったようです。以降、家族の負担を減らそうということでできあがっていった病院や支援施設も、結局は彼ら彼女らの閉じ込められる場所が変わっただけという現実があります。イギリスの福祉行政は、障碍者でも社会が活躍できる場所を作らなくてはいけないという使命のもとこうしたことをおこなっているのだそうです。
日本では福祉行政は完全に縦割りで、管轄の違う行政やNPOが各々のコミュニケーションで障碍者支援をおこなっており、こうしたオーダーメイドな支援とは程遠い現状です。すこしづつ状況は良くなっているそうですが、イギリスの事例は非常に参考になるなあと勝手に思っていました。
便利な分類論やシステム構築は、汎用性が高いわけではないとふと改めて思うことになりました。

20201121 守られる

news.yahoo.co.jp

彼のつくる作品はなぜかみんなに愛されていた。
図書館で彼の作品の展覧会があったりして、友達と「これのなにがいいんだ」とかごちゃごちゃ言いいながら、悪態をついて鑑賞したのを覚えてる。
この引用元の本を買ってその日に読んだけど、こんなに美しい文章を書くんだからそれはかなわないなと素直に思わされるのでした。
この部分、すべての麻布生を慰めて強く共感させると思う。6年間自分たちは守られていたし、それからもずっと守ってもらっているなと思う。
心の芯から彼の文章に込める感謝に共鳴します。

いま思えば、もし傍から見たら突飛な一連の自分の行動が特異なことだと自分が認識させられていたとしたら、そのこと自体が、自分が自分であるために特別なことをしなければいけないという根拠になってしまっていたと思うんです。それが徹底的に回避されたことで、誰に必要とされるわけでもなくありのままにある自分の姿でそこにいられたことを、時を超えていま理解できます。その感覚的体験によるベースがあって、あらゆる事象、ひと、経験をありのままに感覚する「私」があっていいんだよと、いまでも麻布から言い続けてもらえている気がするんです。
麻布に入ったから自分がこうなったという感覚はありませんが、麻布で守られた自分がいて、いまでも励まされ続けているという感覚はあります。

 

20201126 Quotes from "THIS IS US"

・余命数ヶ月を宣告されたWilliamに、他の登場人物が、「死にゆく(dying)ってどんな感じなの?」と聞いたときの彼の言葉

It feels like all these beautiful pieces of life are flying around me and I’m trying to catch them. When my granddaughter falls asleep in my lap, I try to catch the feeling of her breathing against me. And when I make my son laugh, I try to catch the sound of him laughing. How it rolls up from his chest. But the pieces are moving faster now, and I can’t catch them all. I can feel them slipping through my fingertips. And soon where there used to be my granddaughter breathing and my son laughing, there will be… nothing. I know it feels like you have all the time in the world. But you don’t. So, stop playing it so cool. Catch the moments of your life. Catch them while you’re young and quick. Because sooner than you know it, you’ll be old. And slow. And there’ll be no more of them to catch. And when a nice boy who adores you offers you pie, say thank you.

・そのWilliamが死を迎えるその寸前に、息子Randallに言い残した言葉

You deserve it. You deserve the beautiful life you’ve made. You deserve everything, Randall. My beautiful boy. My son. I haven’t had a happy life. Bad breaks. Bad choices. A life of almosts and could-haves. Some would call it sad, but I don’t. ‘Cause the two best things in my life were the person in the very beginning and the person at the very end. That’s a pretty good thing to be able to say, I think.

 

20201126 実益的なものと象徴的なもの

行動や言葉が実益的であることと、象徴的であること、これらはときに相反する評価を招きます。
もっぱら最近では実益的な部分での評価の仕方を私達は生活の中で目撃して、自分のものにし、それを外部の世界にあてがいます。
私達はそうすると自分は理性的であることを感じ、どこか安心するように思います。
しかしながら、こと社会運動においては、象徴的な意味もまた歴史になるということは非常に興味深いことのように思います。
つまり象徴的な運動は、実益的であるということは難しくても、歴史においては結果になるということなのです。
これは社会運動だけの話なのか、他のことに言えるのかは正直さっぱりわかりません。
ただ社会運動に限るとも限らないとも断言できないことに、気づいたことが私にとっての大きな収穫でした。

democracyuprising.com

 

第96問 2020年10月の文章

遠野遥『破局

主人公は慶應法学部の3年生。
曖昧ななにかが素直に現れていて、古臭いスノビズムとかエリート主義との距離感のとり方が今の慶應生っぽい。
主人公は、腹の奥そこで隠し持ってる自負心と、社交的であろうとする適応化欲求が脳の多くを占めている。
誰かに自分がよく語られるのを待ち遠しく生きている感じ。
反対側にいると憎らしくてたまらないが、そっち側に行くと何ら気にならなくなる不思議。
自負心は、例えば「やってない」と言いながら堅実に授業には出席してテストの勉強もしっかりやったり、恋愛にはかなり前向きで性欲の充足を大切にしているところとかに顕在化する。
就活とかで結局こういう自負心の発散ができなくて少なくない人が苦しむんだけど、結局学歴でなんだかんだなってしまう現実にあっけなく流れていく。
論理的であることを途中で辞める感じと言うか、論理的になりきれないし、そのバランスに自己愛を産んでいる。
そして、規範から開放されきれないし、でも開放を望んですらいない。
慶應生がわからない、言われてみれば知らない、という方。是非書店で手にとって見てください。
以下冒頭20ページの試し読みのリンクです。

web.kawade.co.jp

 

この作品は人間のある意味軽薄とも思える欲の発散について、なんの修飾もなく、淡々と書いているところが一つの軸になっている。
よく欲について考える。遠野さんは、おそらくこの欲の歯車は威風堂々とぐるぐる回っているのではなく、安物細工のような歯車が回っているに過ぎないとある意味嘲笑的に捉えているのだろう。
食欲(特に肉)、性欲、優越心。とくに優越心は、肉体的な優越もそうだし、知性的な優越もそう。筋トレをすること、国家試験の勉強をすること、女を抱くこと、肉を食らうこと、先輩や指導者に気に入られること。
信念が歯車となって人を動かすのではなく、欲を満たすためにただ機械のように生きている。
そうしてそういう欲のまま生きる人間の破局を、あっさりと書いてしまうのが彼のやりたかったことの一つなのではないだろうか。

 

遠藤周作砂の城

序盤において。
主人公泰子が16歳を迎えた日、赤ん坊の頃死んだ母が16歳になった泰子のために書き残して、その日まで父が大切に保管し封の切られなかった手紙を読む。
その最後の一節。

この手紙で母さんは何をあなたに言いたかったのでしょう。母さんがもし、ひょっとして、あなたの十六歳まで生きられなかったら、このことだけは泰子ちゃん、信じて頂戴。この世のなかには人が何と言おうと、美しいもの、けだかいものがあって、母さんのような時代に生きた者にはそれが生きる上でどんなに尊いかが、しみじみとわかったのです。あなたはこれから、どのような人生を送るかしれませんが、その美しいものと、けだかいものへの憧れだけは失わないでほしいの。

戦争の時代に泰子の母はちょうど16歳を迎え、泰子が16歳になった時に読むことになる手紙に、自分の16歳の頃の思い出を書き残した。
戦争に振り回され多くのものを失った世代は僕らの前にはいて、「どうにもならないもの」を社会全体で慰めた時代は確かにあったのだと思う。
遠藤や三島は戦争の時代に若者だった世代だけど、彼らが乗り越えてきたものは何なのか、そして彼らから手渡されて現代に残されているものは何なのだろうか。
この文章を小説として、後世に残した遠藤の気持ちを考えると、なにか胸がしめつけられるような気持ちになった。
僕らは歴史の中にしかいないのだと思うと、なぜか涙があふれた。

 

谷崎潤一郎春琴抄

友達いわく「谷崎の中で一番よい」とのことで読んだんだけど、The 耽美派という感じだ。最後にくっついていた西村孝次の解説のおかげでもやもや感が晴れたように思う。
色んなものを削ぎ落とした一つの究極の形なのかもしれない。
飾りや修飾で美しく彩られる物語もいいが、本質の本身で勝負してくる感じもまた素晴らしいなと思う。飾りがいらない美しさ。

 

20201017 久保田利伸のサブスク解禁

昨日、久保田利伸がサブスク解禁して以降興奮冷めやらない。
一気に新曲が聞けるようになった、みたいな感覚になってずっと幸せだった。
久保田利伸だけで、自分流のPlaylistを作ろうと思う。
久保田利伸の楽曲は、楽しむのにいくつかコツがある。
というのも、久保田は20代で日本でR&Bブームの火付け役として大成功してから、アメリカNYに拠点を30代以降移していく。この拠点の変更は、彼を圧倒的に高めるんだけど、日本で愛された歌謡曲チックなR&Bから完全本格派になっていくきっかけなのだ。
ただ、久保田利伸が青春ど真ん中で育った人々にとっての久保田利伸って、どっちかというと日本にいたころの粗削りでいわば「古い」「歌謡曲チック」な、歌唄いなんです。そういう人たちが今も昔も彼のファンのボリュームゾーンで、変化し成長していく彼を暖かく見守り応援し続けてきて、今がある。
SpotifyとかApple Musicのプレイリストに出てくる久保田利伸の有名ソングは、実はこの歌謡曲っぽい古くていいバブリーなものがほとんどで、これは今久保田を知りましたっていう人からすると、「古い人で愛されていたんだな〜」という感想を第一に与えることになるだろうと思う。
ただ、久保田は今に至るまでずっと進化し続けていて、その進化の至る現在近くの楽曲を、新しく聴き始める人達には聞いてほしい、というのが僕の本音なのだ。
だから、ちょっと古きよき歌(おじさんおばさんたちにとっての青春だった歌)はメジャーどころのプレイリストに譲って、僕が久保田利伸ファンになるまでに踏み抜いてしまった地雷のような歌でPlaylistを作って、それを若いリスナーのみんなには聞いてほしい。
ちなみに、LA・LA・LA LOVE SONGはちょうど彼がアメリカでの生活がかなり本格化していた時期にできた歌。日本とは違う場所で独特の感性のもとで育てた歌が史上最高に売れてしまうんだから不思議だ。

 

朝井リョウ『何者』

その流れのまま『何者』も読み終えた。
本当に途中読むのが辛かった。
人を嘲笑する観察者の感覚をあまりに知りすぎるというか。「観察」という行為のある意味での軽薄さは、突きつけられると辛い。
SNSで誰にみられているのかを気にしたり、他人の投稿で誰がそれにいいねをしているのか気にしたり、人のことを嘲笑的に見たり。SNSと結びついた現代の若者の病みたいなものがはっきりと描かれている。昔浪人してたころ、親友と「引くこと」と「嘲笑」がなんでここまで僕らのコミュニケーションにはびこっているのだろうと、永遠と夜中話していたことを思い出した。
自分自身もその沼に嵌りながら、最近この嘲笑の癖からやっと半分ぐらい足を洗えたのではないか、とか思っていたけれど、のこりの半分がまだあることだったり、それをしていた過去の自分だったり、周りの人だったりのことを連想せざるを得なくて、ほんとうに辛かった。
この作品の救いは、人と人の衝突が現れることだった。
もやもやとみんなが腹の底で抱える周囲の人への蔑視とか嘲笑が、喧嘩の場面で消化されていく。もがくしかないじゃないの、という叫びが優しくさえ思える。朝井さんが叫んでいるようなそんな気持ちさえする。

 

20201024 岡村さんの結婚

本当に嬉しかった。
彼は、巷で話題のバチェロレッテのメインMCを矢部さんとシェリーさんとやってるんですが、ポジションは恋愛をわかっていないおじさんキャラ。
矢部さんは中学時代からの生粋のモテ男だから、本当に男と女の気持ちをよくわかっていて、話しててめちゃくちゃ安定感があります。本当にバチェロレッテのMC向いてると思います。
岡村さんはそれだけじゃなんだかつまらない部分をちゃんと補ってくれる、隙間のような役割をトークの中で果たしてくれていて、彼が話すと空気が緩んでみんな笑顔になる感じがいいです。この方はチャーミングだなあと改めて思いました。
シェリーさんは、女性の立場としていろんなことを話してくれるんですけど、若干自分の価値観を大事にしすぎてる感じというか。岡村さんを残念な男性という目で見る感じが、気になるなあというか。あんまり人の考え方に対して、いい悪いとか当たってる当たってないというのを気にしすぎないほうが、それを見てる方も見やすいのになあとか思ったりしました。
こういうキャラではある岡村さんですが、問題が起こって彼をずっと支え続けた女性と結婚されました。
これって単なるいい話とかそういう話で終わるのももったいないように思うぐらい、多くのレッスンがあるように僕には思えて。
人の過ちを赦すことの大切さ。他者が悪だというものを自分が悪だと思うかは本当は別の話で、自分がその人をどう思うかは、自分がその人をどれだけ知ってるか、そういう部分で考えていきたいと改めて思わされるものです。他者がなぜ悪だというのだろうというのがついつい関心の軸になりがちですが、自分の知るその人が、どんな人だったのかが結局大事なのかなとか。結論、その人について他者の評価に合わせるように、自分の評価がひっくり返るようにも変わるようなら、実はその人と自分は何もわかりあえていなかったし、自分はその人のことを全然知らなかったと証明することさえあるかもしれません。
人の痛みに寄り添う尊さ。身綺麗で瑕のない球だけを己の身の回りに並べたところで、しょうがないと言うか。きれいな面が自分に向いているだけなのかもしれない、という己の認識を大事にしたいし、痛みを分かち合うことに一つ人間が一緒に生きる意味があるんじゃないかなと思ったりします。病や過ちは、そばにいると自分にも移るようなそういう気がするものですが、じゃあ席一つ分離れて座れば自分は本当に幸せなのか、ということは考える価値のある話だと思っていて。清廉な自分でいることがなぜ幸せなのかはちゃんと考えるべき問題だと思います。すごい人には多かれ少なかれ指す陰がある、という事実は人生20 年ちょっと生きてきてしみじみ思ってきたことかもしれません。
人を助ける勇気をもつ強さ。他人の目を気にしていたら絶対にできないことです。あんな人と一緒にいるの?とか、あんな人と結婚したの?と何も知らない人はささやくことでしょう。多くの人が、こういうことに常に怯えているように思います。人を支えたり、助けたりすることは本当に勇気のいることだと思います。人を支える人生、助けるような人生は、楽なものでは決してないと思います。わかりやすい幸せでも決してないです。こうやって本当に人を支えている人々の存在は、安々と語られないし、閉じられた世界にあるからこそ、本当に助けられる人にとって助けになるような気持ちもします。そういうものを閉じられた世界の中で与え与えられて味わうことのできる場所にいられるのか、優しさのそばに生きていけるのかは、僕にとっては自分の幸せを決める大事な部分でもあるように思います。
そして、愛は尊いです。愛している人と一緒に生きることができることも、人生の幸せの一つに違いないと思います。

 

20201031 表現の自由と「自己実現」の話

憲法21条1項では、表現の自由憲法の保障の対象とする旨を定めています。
ルールはルールだ、ですまないのが法学です。
なぜ表現の自由は守られるべき権利として、憲法に明記されたのか、そこが気になるところです。
現在の学説のうちの通説は、表現の自由は、自己実現と自己統治に資するから、というところに絞られているのが現状です。
自己実現における価値は、すなわち対外的に自分の思想や思いを表現することが、個人個人にとって人格の発展につながることに見いだされます。
自己統治の価値は、実はここでいう自己とは社会構成員的な自己を指すのですが、国民が表現活動を通じて民主主義を活発化させ、政治的意思決定に関与することに見いだされます。
特に憲法裁判上においてはですが、後者の自己統治の価値については異論なく判決文等で用いられています。
一方で、自己実現の価値について、これは非常にあやふやな話とも解せます。
すなわち①自己実現とは結局なんなのか、そして②なぜ自己実現表現の自由につながることになるのか。
特に一点目の自己実現とはなんなのか、という点は非常に頭を悩ませるところです。こういうところに、哲学と法学の干渉点が現れます。
この俺の疑問について、以下のブログが答えを一つ提供してくれました。

https://www.azusawa.jp/legalmind/r20050717.html

「私」、 「一人の個人」 という切実な存在を、社会という関係の中においたときにはじめて、 個人は個人になれる、という自己実現に関するせつない思い、不可欠な思考を読者にもっていただきたい
自己実現といい、個人の尊厳といい、抽象的なことばとして観念している限り、それは空虚な砂をかむようなことばである。 しかし、この言葉を一人ひとり、私、あなた、恋人、妻、母、子、の人生という実存にまでひきおろしたときそれは、 実に切実な意味を持つのである。
その切実な存在が、人生の次の一歩にすすもうとするとき、その存在は、 一挙に精神的跳躍をとげ、表現したいという思いにかられ、ディスクール(談話)で、電話という通信で、 手紙で、メールで、ビラで、新聞の記事で、テレビで、ラジオで、他の人に働きかける。
その精神的営為は、個人に至高の価値をおく社会にあっては、 国家によって一指も触れさせてはならないものだ。 (※後記 国際人権規約自由権規約) 一九条をぜひ参照せよ)
生きるということと同じほどに、伝える、という行為は、おかされてはならない価値をもつ。 自己実現とは、一刻一刻を社会的関係の中に生きる人間について、そのまま動的な存在としてとらえた表現なのだと思う。
このように、憲法は人間を自己実現に向けて存在する個人としてとらえる。 そして、そのような人間観にたち、憲法学は、至高の価値をもつ個人の尊厳を守る見地から、 表現の自由の根拠付けを行った。これが自己実現の価値に裏付けられた表現の自由である。

この文章をまとめると、表現活動は他者との関係を築く精神的営為であり、他者に何かを伝えて生きることが自己の生を豊かにするという意味の自己実現に資していて、この権利・自由は決して壊されてはいけないのだという話になります。
自己実現」というと、よく僕らはマズローの欲求階層を持ち出しがちです。が、本質的には結局の所理解が足りていないということを、歴史が教えてくれたりするものです。あの階層で言われるいわゆる「自己実現」は、空集合的な人間状態であるのかもしれません。
自己実現というのは、承認や欲望との関係で本来は語られるものではないことを、知ってもらえたら嬉しいです。

 

 

第95問 難題

難しい話。

どれだけ自分として素直なつもりでも、他の人間からみればまるで嘘のようにみえるのはなぜだろう。

嘘をついていないときに、嘘をついていないと証明するのはどれほどむずかしいのだろう。

昔々、貼り付けにされたり、正座している足に石をのっけられたりした人々はどれほど悲しかったんだろうか。真実しか話していないのに、嘘だと言われてしまったら、仕方がない。

 

そういうときは、家で一人で悲しくなるだけだ。

第94問 海流

漁をするときというのは、一つの船だけを出す時もあれば、仲間内で複数の船を出したりすることもある。

もしくは沖に出てみたら漁場に船がいて、お互い見つめ合いながら漁をするなんてこともあるかもしれない。

君は漁場で出会った船だった。

同じ港から出てきたわけではないのに、どこか似ていて、毎度その漁場で顔を合わせるたびにどこか似ていることに気づいた。いつの間にや朝や夕も共に漁をするようになった。

もしものためにと、鎖でお互いの船を繋いだ。もしもというのは、すでにお互い船に乗って経験して知っていた、もしものことである。そのもしもは海に船を沈めてしまったり、転覆させたり、ボロボロにしてしまったりする。

海はいつも優しいわけではなく、大漁の日は笑顔で港に帰れても、しけの日は船さえ出せない。海が荒れる日は、共に船を繋いで持ち堪えることで、晴れ間まで待つこともできた。そういう日々がむしろ多かった。なるほど、そういう時は元気のある方の船が晴れ間まで片方を連れて行き、お互い船が壊れてしまうのを防ぐわけである。

青ざめるほど暗い空の日に、海は荒れた。黒々とした波が船を襲うわけである。君はすっかりボロボロになった。引き連れて晴れ間に向かって舵を取ろうと、鎖を引いた。

鎖は、音を立てて切れた。

途端に君の船はボロボロで朽ちていることに気づいた。海流に流されて行くのをただ見つめるだけだ。

君の船はこんなにも脆く情けないものだったのかと、失望の念が止まらなかった。