第161問 セダクティブ

1 ロールズの正義論

今、僕はロールズの正義論についてレポートを書かなくてはいけないのだが、今日の午後に大体何を書くべきかの目処を立ててカフェから家に帰ってきてなんだか疲れ切っている。

家に返ってくると電源オフに最近はなってしまって、その癖で気持ちがたるんでしまった。

ロールズの正義論は「自由原理」と「格差原理(社会的・経済的な不平等の許容)」という2つの原則から成り立っている。

功利主義的な社会契約論を修正するカント以来の立場の承継を行うロールズの前提的な立場と、これらの2つの原理そのもの、そして原理の誤謬と修正がレポートのテーマになる。

面白いのが、ロールズの正義論は功利主義批判を内在していることにある。

最大多数の最大幸福みたいな考え方について、功利的な発想を排して、人間の道徳性を基礎として社会状態を構想していくのだ。

この道徳性は、正確に言えば、人間はありうるリスクを回避する「合理性」を有するというところに依拠していて、功利主義の掲げる合理性とはまた質的に異なるものを示す。

自分が弱者だったらひどい境遇になるのは嫌でしょう、だから社会的に最悪の場合の結果が最善となる選択肢を採用しましょう、だから機会の平等と努力によって生まれる差異が存在することは許容しながらも最低限不遇な人々を助けましょうという格差是正理論を構築する。

 

ロールズについてきちんと勉強してみると、彼は自由・平等・正義・権利といった法的に重要な概念を一つの理論に酔って紐づけた大法哲学者であり、その痕跡の偉大さは福祉国家理論の正当化という範疇を超えて存在し続けていることに気付かされるのだ。

 

そういえば驚いたのが、ためしにChatGPTにロールズの正義論について英語で喋らせたところ、かなり大筋で正しいことを言っていて、すごい段階まで人類の知性は来ているのだと感じる。

 

2 性的な事情について

こんなまじめなことを考えながら、一方最近自分は最近性的にある意味においてまた異なる段階に入ったように思う。

性についてかなり奔放さを手に入れたというか、自分の性的なリビドーの解放について肯定的に(しかし正確に言えば快楽的になのかもしれないが)捉えることができるようになったと思う。

長年自分の中にあった禁欲的な発想が大きく弛緩したと思う。

そのため、自分の性的な魅力にも比較的フラットに気づくことができ、そしてその活用がしたいとよく思うようになっている。

 

端的にいえば、自分はおそらく性豪の部類なのだと思う。

試験が終わって非常に開放的に性に向き合っているが、自分の精力の強さも性欲も人並みではないことに気づいた。

いろんな男友達と話すところ、異常だとさえ言われてしまうレベルらしい。

いわゆる絶倫というものなのだろうか。

果てても体力的な限界が来ない限りは、全く休むことなく続けることができるし、持続する。

しかも、本当に一日に何度でも果てることができるし、実際自分でも怖くなるほどだ。

自分がここまで人生で強いエネルギーを持って生きてきた理由は、もしやすると性的なエネルギーが非常に強いこともあったのかもしれない。

しかもありがたいのが、強いエネルギーが有る一方で、コントロールが比較的うまくできることにある。アクセルの馬力が強ければ、ブレーキの圧も波ではないという感じだ。

自分の中にあるこのアクセルとブレーキの高性能性に気づく中で、車で言うなら快適なドライブをすることができるとき、なんとも言えない高揚感に包まれる。

 

それがただの雰囲気の問題や、男を立てるという女のありがたい配慮の問題かもしれないが、自分のセダクティブさが異性を魅了するときに、自分は男としての自信を胸に刻む。

 

性生活の充実。これは自分にとっては、人生において極めて重要なことに気づいた。

性的な強いエネルギーをぶつけ合える女性にちゃんとそばにいてもらえることが、一つ大事なことだと最近は思う。

その意味で女性の魅力の解像度も自分の中ではますます上がる。

すなわち、性格的な魅力と身体的な魅力が個人と個人の幸せな時間を過ごすという関係性にとどまらず、セックスの良さに結びつくというのが今の自分の見解だ。

インスタグラムの華やかさみたいなものは、個人と個人のつむぐ時間の豊かさという話には関係がないし、セックスにおいてはみための問題は希釈されるから、全くといっていいほどどうでもいいものになるのだ。

女は、どれだけ楽しい時間を一緒に過ごせるか、とどれだけ自分好みのセックスができるか、この2つで自分にとって異性としての意味合いの深さが変わるのだということに一つ気づいた。

 

いままで、プライドとコンプレックスで人は絶対に幸せになることができないと強く主張してきた自分であるが、これはセックスの文脈においても全く当てはまる。

そういう瞬間においては、二人だけしかいないのであって、その空間外の人間の評価はあまりたいした問題ではない。

人の目をきにして生きている人間にとっての性生活の価値は、そうでない人間に比べて低くなるのかもしれない。なんて非人間的で貧しいのだろうか。

 

インスタグラムやSNSが華やかな人は、セックスをちゃんと楽しめない人なのではないかという仮説を立てて、今日は終わろう。