第19問 空間

人間に未成熟さを感じる瞬間があった。人生は一生勉強だから、思うことをここに吐き出してやろう。大事な断りとして、これは予備校での話ではないので僕の浪活を不用意に案じることはない。

ここ暫く味わうことのなかった感覚だったが、空間を自分の占有物だと捉えて新たな訪問者を排外しようとする人間はいるのである。私はまさしくその一片を感じた。空間の主として自分が存在することを自負し、それを守ろうとする人間を確実に瞳に収めた。その人間は私より年上で、なおさら私の刃は鋭くその芯を切った。現れた断面は内実という言葉からは到底遠いものである。素直に次元の低さを感じた。学とか、そういう類ではなく人としての富の薄さとでも言えるような軽さを知覚したのである。同時に私は術の発見に苦しんだ。どうこの人間には対処すべきか、どう臨むことで自分は納得できるか。瞬間にして葛藤が巻き起こった。

初対面の人間を概念的に考えることはかなり粗雑だとは思いながらも、年上の人間に対して厳しい目を向けてきた人間として、強い違和感を感じてしまった。「人生そんなもん」と丸くまとめることは簡単だろうが、ここでグッと考えてみることにした。

自分の順応性が低いのか。期待が強すぎるのだろうか。おそらくどれも正だろう。といっても、空間の主を自認する人間に久しぶりに出会ったことが何より新鮮だった。あの人間は目が笑っていなかった。私が話すとき、どこを見てるか分からないような目で私の首あたりを見つめていた。

いい経験だった。この一言に尽きる。

第18問 マジック

ネット上の声、という言葉が最近流行っている。SNSが浸透する中で、SNSや掲示板のコメントがだんだんと力を持つようになっている。匿名であることはもはや意見を弱体化させるものではなくなっているのだろうか。匿名とは怖いもので、その存在自体が我々に結果の平等を押し付ける。どんな身分性別で、何をしている人なのかまったわからない人物のコメントが、脚光を浴びて「声」へと変貌する。私はこの薄暗い雲の中での言葉の変換に気持ち悪さを感じることを禁じえない。

しかしこれよりも恐ろしい事実がある。それは「ネット上の」という言葉である。あたかも同様の意見が多数あるようである。しかし精査すれば、それはあくまで一つのコメントの切り抜きであり、ムーブメントにはなりえないなんてことはざらである。今のメディアはこの二つの要素に寄りかかりすぎている。中立を求めるならばこそ、こうした飛躍は最も避けなければならないことの一つである。メディア全体系に対する信頼感はメディア全てに統一される規律になくてはならない。メディアが多様化する中、その芯を脆くするようなものが許されているというのは、メディアを享受する一人の個人として受け入れがたいことである。

第17問 エール

ひとまず新生活が始まるわけだが、やっぱり今後の人間関係を築く上で自分と友達にエールを送りたい。


何より、怖気ずに頑張ってほしい。

不都合なことを都合よく乗り越えていくことこそ人生の醍醐味である。

全ては順風満帆にはいかないから、第一に健康に感謝して生きよう。

その中で周りが笑顔であれば幸せである。

辛いときに支えてくれる友を大切にしよう。


実際的な話をすると、初対面の人間には優しくなってほしい。多分いくつか相手の言動が琴線に触れることがあるとは思う。けれど、それを許してやるというか、相手に条件の達成を求めてやらないでほしい。切り捨てる、のは簡単だけれどそれは即ち、逃げる、ことでもある。落ち着いて深い懐に収めてやろう。

その中で波長の合うやつを探してほしい。それは同種、ということではない。生きる哲学が似るということである。哲学が似ていれば、自分を見るような優しさで包んでやれる。


そして、耐え忍べ。

新しいものは異物である。異物には悪いものもあれば、いいものもある。いいものを掴んでみてほしい。参考書には載っていない。教えてくれる先生もいない。見知らぬ果実を噛み砕くぐらいの若さがあってもいいと思う。


簡単に言えば、優しさと忍耐。これだと思う。


最後に、女遊びはするべきだと思う。「良い男」になろう。遊び心は人肌に触れるときにも、ふと芽生えたりするかもしれない。


ルールを遊べ。


恥ずかしいからこれで終わろう。


第16問 もっとも遠い

自分からもっとも遠い気持ちとはなんだろうか。色々わかったつもりではいるけれど、なにが素直に分からないと認められない気持ちなのだろうか。


さっきふと思ったのは、絵本を書く大人の気持ちである。教育に携わりたい気持ち。子供の心が豊かになるのを望む気持ち。だろうか。正直素直に分からない。予想の域を一切出ないから、確信が一切持てない。


今日はこれだけ思った。

突き詰めるのには時間がかかる問題だ。

第15問 今日

今日という日を書き残そう。


写真を見るとなぜかいい日だったな、と思う。そんな日である。

経験にはなり得ない体験だったが、それがいいんだと思う。

人が多かった。視線が交差していた。視線の蜘蛛の巣を掻い潜るように歩いた。これが疲れる。スパイ映画の主人公ごとく、歩く。

人の名を呼んで、写真を撮った。特に語ることはなかった。語る必要がなかったのかもしれない。ただ顔が見たい人々の顔を見れてなにより安心した。

飯は全く胃に入らない。困ったものだ。目前には華やかなドレスと紅潮した顔が並んでいる。どうしたものか。話しかけてみる。僕から引いた補助線は円周の点すべてに結ばれ、不思議な扇を描いた。むむ。

ネクタイを見ると一安心。じっくり話したい相手は興奮して歩き回っている。かえってこちらは歩数が減ってしまう。

自分も視線を出してみる。縦横無尽に焼き尽くすレーザービームのごとく。つまらん。

ふと先生の顔を思い浮かべ、向かう。いや変わらない。安心である。大人の安定感というやつを満喫した。コーヒーを飲む約束。去る。

隣の顔にも挨拶。慰められた。困った困った。仕方ない、悲しそうな顔でもしてやろう。

疲れた。口からポロポロ溢れでる相変わらず空気が読めない。疲れるものは疲れるのである。仕方ない。

静かな部屋へ。少し話す。顔が一つだと本当に楽である。すこし元気が出る。また戻る。

友に会う。空を見る。くつろぐ。

記念を残したくなった。人を呼んで集めた。ああ疲れる。でもやりたかったからいいや。

宴はひとまず終わり。

外へ歩く。ずっと話したかった顔と話す。うんうん。話しやすい。心地よい。うんうん。あっという間に着いた。

靴を履き替え、ボールをずっと転がしていた。異性というやつは、こちらが目を向けてもはじめは返してくれない。待つ。やっとキャッチボールに成功。やっと楽しくなってきた。指が痛い。たわいもないことを喋る。ペラペラ自分でも不思議なぐらい喋る。自分は相変わらず隅に置けない。

針はいつの間にか1周半していた。お金を集めて。他愛もない会話。楽しい。すごく新鮮。 

さて飯。あらお別れの通告。仕方がない。残念。うーん残念。ネクタイを1本引っ張り、旨そうな飯屋へ。

ソファはフカフカ。美味い。ネクタイは色々と俺に教えてくれた。ああ自然と笑顔。こういうのが一番好きだ。説明がめんどくさい話をする。これは疲れる。でも特別に話してやる。どうやら分かってない。骨折り損。

美味い。話はなかなかに弾む。相手は中々友に恵まれていないようだ。

ようしもう一軒。

コーヒーとケーキをご馳走してもらった。いいやつだ。色々喋りすぎた。やや後悔。でもあいつのためなら。聞けば聞くほど寂しそうである。やつは俺は好きだし、いくらでも話は聞いてやろう。

いつの間にか眠い。踏ん張ってすこし話す。

もう帰ろう。

店を出る。寒い。

騒がしい街をネクタイ2本が踊る。手の甲の脈打つ音でダンス。

希望を分かち合う。さようなら。


一人の電車。携帯を弄った。

なんか寂しいなあ。

なんか楽しかったなあ。


こんな日だった。




第14問 学生の「尊敬」

学生の未熟さについて日々考えている。最近の人間は多分すぐ、親に養ってもらっている、という金の話にすぐ移ろうとするが、今回は凡庸な話はしない。私は度々人前で学生の目上の人への尊敬について言及してきた。それも特に強い口調で。これは私が一般学生諸君に感じる、「尊敬」の薄弱さを前提としていて、それを理解しない人にとってはひどくおせっかいな説教にでも成り下がっていたのだろう。

よく学生諸君が口にする「尊敬」。私はこれはどうも尊敬であるようには思えない。というのも特に私の生きる世界には、エリートの卵たちがあふれていて、難関とされる小学校受験も突破した経験のある、自尊心で満たされたタイプの子供達で溢れていた。つまり、基本的に人を下に見る姿勢が染み付いている子たちが多いということである。それは受験期には顕著で、「〜ができない、分からない」と言うと途端に見下され、『出来ないキャラ』にされてしまう。これはとても厄介で、他者の認識は自己形成に強い影響を持って、意欲のある子たちはこの他者認識に押しつぶされてしまう。私は実際他者認識に手を貸したし、貸さなければ自分が他者認識に押しつぶされる恐怖があった。だからこそ受験期の話し相手は限られたし、それでも心から安らいで話すことは少なかった。話を戻すと、「御三家」だとか言われる学校やその辺りの学校に通う子たちは、基本的に他者は自己より下位の人間として初めは扱う。もちろん、そうではない人間がいるが、そうした人間が一人いると価値観はなぜか伝染してしまう。これは人を平等に捉えようとすることはそもそも自然に抗う理性的な行為だからそれに反発する形で、心労の少ない価値観を受容してしまうからだろう。今尚私と同年代でこの価値観に浸っている人間はおそらく一生抜け出せないだろう。本当に頭の良い人間は楽な物事の考え方は早めに選択肢に置換してしまう。物事を重く受け止めきれない時にやっとの事で、人生最高の熟慮でもって、楽観視するのではなかろうか。頭の良い人間は韜晦である。そう意味で言えば、私自身はまだまだ未熟である。

ここで一つ立ち止まる。逆に尊敬が稀有なものであればその分価値があるのではなかろうか。厳しくその「認定」には向かいたい。私には一つ傾向として、そうした「認定」作業を行うタイプの人間には、実体験の少なさが共通していると思う。学生にこの論点を持ち出すのは些か酷だが、肉の経験に欠けることはそれこそ、他の若者にエリート諸君が負けている点である。高々私たちにある肉の経験は、部活や文化祭運動会生徒会といった行事のようなもので、今となってはもはや自分の手を使い足を使い頭を使い金を稼ぐ同年の若者たちがいることを忘れてはいけない。彼らはまさしく社会に既に投げ出されていて、10歳20歳下手をすれば30,40歳離れた人々と人間関係を築いている。それも「先輩後輩」といった我々が普段何気なく使う言葉をそのままま用いた人間関係を築いている。高々5歳ぐらい上の人を知っている「先輩後輩」が少し虚しくなる瞬間である。だからこれはまた別の話として、粗末な演繹を用いて大人の定義付けをしようとする子供も増えるのだろう。

即ち、実体験に欠ける我々にとっての尊敬とは何かという話だ。そもそも、頭が良い子たちに尊敬の理由を問うた時きちんと答えられる人間はいるのだろうか。この理由を胸を張ってきちんと言えるかというのがすごく大切なのだ。上滑りの話のようで、実は大事な話をしている。物知りだから尊敬するのか。シンボルだから尊敬するのか。その尊敬に含まれる多元的要素をきちんと理解しているか。対象は尊敬に蹂躙されていないか。大人をきちんと見る目があるか。「尊敬」という言葉を安易に用いていないか。人生の目標を安易に人に話していないか。全て違う質問のようで同じ核を持った質問である。尊敬が言葉で表すことができないからこそ外堀を埋める。時間があれば、是非自分を質問攻めしてみてほしい。疲れたらやめればよい。そうすることであなたの哲学が出来上がっていくはずである。

あなたの中身に無理に入っていくようなことを書いたかもしれない。これはいつものことか。ただ、新しい人間の出会いに強い不確定要素はある。不安になった時や寂しい時は、私の拙文でも読んで笑ってやってほしい。

そして自分の考えを気が向いたときでいいから、自分の手で書いてみてほしい。ただそれだけで違う気がする。

今回はこれで。



最近独りよがりな文が多いと思いますが、恥ずかしいことに私にとってはストレスの発散になっています。4月になれば大人しくはなります。でも今の私にとってはすごく大切なことなのです。ただ今だけはブログを見ているあなたが良き理解者になってくれることを祈ります。


第13問 世評

今流行りの話題と言えば、ショーン=川上氏についてだろうか。

経歴詐称は、本人やその周りの人間への影響のみならず社会にもたらす影響が非常に強いことが今回の件でよく分かる。私はよく普段JWAVEを聞くからショーン氏の事は前から知っていた。いつの日からか報道ステーションにまで出ていて、出世したなと一人で思っていたが、このニュースである。正直な話、ショーン氏のコメントは結構浅い印象があった。でも、それなりに知識はあって、人への敬意というか、礼儀正しさはきちんと備わっていて、声も聞きやすいいい声だったので別に聞いていて違和感を感じるものではなかった。報道ステーションではよく経済の話をしていた印象がある。古賀氏の騒動以降偏った意見はやはり排除される傾向にあったのか、ショーン氏のコメントは当たり障りがなく、よく他国の事例や人物名が枚挙されるような、レポートのようなコメントだった。その中立性と知識量で、フジテレビの新番組のキャスターも決まっていたのでは?と思う。

さて、これを前提として以下読み進めていただきたい。単刀直入な質問をあなたに投げかける。これは恐らくあのニュースを耳にした人間の少なくとも半分は自分に問うたものであるだろうし、特異なものでもないから期待も何も捨ててほしい。

経歴が嘘であることによりショーン氏の話す内容は変わるのか。」

答えは否である。今回ショーン氏が自ら多くの仕事を辞退した形で収まったが、そうでなかった場合どうなるのか。私は想像するだけでぞくとした濁った期待が背中を駆けるのを感じる。多分佐村河内氏の場合も似たようなもので、彼の場合我々が彼が難聴であることを「かわいそう」だと勝手に考え、勝手にCDを買い、絶賛し、現代のヴェトォヴェンに仕立てあげたのである。冷静になって考えてみれば、もはや文化は金額で測れられてしまう現代において、彼はただ単にセルフプロデュースに成功しただけである。ショーン氏について当てはめて言えば、そもそも我々日本人やすなわち視聴者といわれる人々は本来彼にあるとされた学歴や経歴に立脚される考え方、人の有様を知らないというなんとも恥ずかしい現実に向き合わねばならない。即ち、経歴のもたらす具体的な人間像を我々人間は誰一人知らずして、それに重きを置いた人間選びをしているということをしている事実である。あなたはこの愚鈍な矛盾をどこか流してしまおうとしていないか。そして、そうした矛盾に慣れた人間になっていないか。「世の中そういうもの」なんて言わないでほしい。世の中を語る資格にはそうした人間にあるとは思えない。規格の定まった教育にそのまま従い、量産的価値観が染み込んでいるのである。自分の抱える矛盾に一般性を求め、それをうやむやにしたまま間違いを犯してしまった人間を迫害する。ネットの世界で幾千、幾万もの暴言が漂っている。常軌を逸している。匿名性は迫害の正当性を担保するものでは決してない。匿名性に胡座をかいてはいけない。

私が言いたい事は経歴の脆弱性ではない。人間判断の内実はもはやすっからかんだということである。それこそ「簡素」な情報が多すぎる。殺人事件が起こっても、犯人の年齢性別、被害者との関係、専門家のありきたりな意見。それから我々が考えられることは?粗悪な鉛筆で引いた事物の輪郭。少しこすれば消えてしまう。ショーン氏の経歴が空白なのと同じぐらい我々の人間を見る瞳の奥は空白である。