第24問 大江健三郎『個人的な体験』

今日は予備校が始まり、気も引き締まった。現代文のテキスト、最後の問題はなんと「こころ」だった。気が引き締まる。

詳述はまた別の時に。

さて今回は延ばし延ばし、というか書く覚悟がなかなかにできなかった『個人的な体験』について書こう。

この文章に向き合うことは正直恐ろしい。この文章に何か意見を出すことは、それはまさに自分の本性を暴くこととなる。冷血な薄情な人間は御託を並べるかもしれないが、いやそもそもそういう類の人間は書こうとはしないだろうが、私は青春を過ごす自分が何か残さなくてはいけないという自傷的な責務を背負って、この文章に向き合おうと思う。

高2の頃『死者の奢り』で味わった文体というか、味わいはそのままであった。むしろ、確実に味わいは増している。『死者の奢り』で見られた死体から放射的に広がる肉肉しさは、この文章では頭に腫瘍を抱えた赤ん坊を光源としながらも、主人公鳥(バード)の感性を介し、彼が尋ねる火見子の単に女性らしさとは言えない面妖な艶めかしさとも相まって、複雑に絡み合いながら叙述されていく。正直学生時分の私から言わせて貰えば、わからない世界を近くで長く、そして滑りを持ちながらゆっくりと見させられる作品だった。遠い感情だった。想像がつかないといえば嘘になるが、理解できると簡単に言うことはできない、そんな感情だった。嬰児と向き合わなくてはいけない現実。殺すことは罪悪感を生み、それを認識しなくてはいけない。自分で選択しなくてはいけない。現実を知らない妻、殺そうとする義母。鳥の考えは滑りながらゆっくりゆっくり変わる。ただ悉く到達する考えはどれも優しいものではなく、胸がきゅっとするようなものばかりである。

らしくない終わり方ではあった。けれど私に強烈に印象付けられるのは晩年の大江健三郎自身によるこの作品の批評である。彼はこの作品を「若い」とひと蹴りする。彼自身が障害をもった嬰児を抱えながら、文学に携わり、いや嬰児ともに自身の作品を生み出してきた中で現れた態度だった。本当にこれは正直に「降参だ」と思った。もう到底私なんかでは敵わない厚さというか黒さというか、そうした深淵を感じた。ほんの一言に過ぎないが、一瞬にして自分はひれ伏した。オーバーに言っているように思うだろうが、事実である。それも白くないのである。黒くて薄暗い。いや暗いのである。そこへものを落としたらもう帰ってこないようなそんな暗さである。

内容は「問答」で鳥が変容する姿がおおいのは印象的だった。問答で、現代性は十分に表せるのだなと思った。

作中度々現れるアフリカ。これは私はイマイチ理解できなかった。是非この書評を読んだ方は、アフリカについてのあなたの意見を聞かせて欲しい。納得のいく理解はできていない。


むう、ちょっとこれ以上は書けなさそうだ。またいつかもう一度読んで、加筆しよう。あらすじは全く書いていないからすごく不親切だと思うけれど、ネットにはいくらでもそういうものは転がっていると思うから、各自よろしくといったところだ。


今日は下手をすればもう一つ書けそうだ。

ひとまずこれで。


第23問 泉

このブログを始めた時から薄々気づいていたことだが、ここに自分の思いを開けっぴろげに書くことはまったくの浪費である。

なにかきちんと貯めてきた何かを消費しているようなそんな感覚である。加えて、脳みそをひりだして書いた文章たちがどんどん薄情になっていく。自分の手を離れ、読む人それぞれに解釈される。

そう思うと、本を書く人間というのは大きな泉を持っているんだろうなと思う。無論蛇口が粗悪なら大したことはないけれど、数多くある名著はいい蛇口である。

自分の考えの発露ほど怖いものはない。自分が大事にしてるニュアンスは正直、それを聞く人の半分も理解できないだろう。その真実は私をどっと疲れさせる。

強烈な無力感…

本当の知性とはわからない人にわかるように説明すること、というのはいたって真実かもしれない。

長い文章もここで書く分には映えるが、人にそんなものはいやでも送りたくない。ため息が出る。相手もうんざりだろうが、すごいもったいない気持ちにもなる。

小説が廃れる理由もわかるような気がする。長いものは嫌なんだよな。でも私はそうじゃないと思う。うん。でも分からないんだよな。

けれどそういう人間は得てして努力を怠っているだろう。私は一応努力はする人間だから、もうそれだけできっと生来的な齟齬なんだろう。


人間とは本当に多種多様である。自分の身の回りだけでそう思うのだから、世の中の人間の数がどれ程多いのかと考えると嫌になる。多数決とか、今の自分には虚しく感じる。虚しい。 

加えて自分は人を惹きつけるような文章が書けている自覚もない。今はただ書くことしかできない。


人間には奥行きがあるといわれるが、それは泉の奥行きのことかもしれない。今私は泉の奥へ進んできているのだろう。奥だから流れる水流も弱いのだろう。水源があることは確かなんだが、どうも今は確かめようとは思わない。色々なものがきっとこの先に進むと、普通ではなくなる。葛藤する人間らしさ、若さ、みたいなものの行き止まりかもしれない。これを超えると心はなかなか激しく動かなくなってしまうだろう。パッションは大切にしたい。


今日は殴り書きがしたい。そんな気分だから、夜にでもまた何か書けたらいいな。



第22問 ご飯

最近、ご飯がとても美味しく感じる。これは多分とてもいい精神的兆候であると思う。特に友達と食べるご飯はとても美味しい。

けれど食が細くなっている。昔食べた量の半分も食べられない。

受験のストレスとか、身の上の悩み、などもあるのかなあ。調べてみたら恋をするとご飯が食べられなくなるらしい。でもどうやらそれは女性特有の症状らしいから、違うかもしれない。

小3ぐらいまでは給食を残すレベルだったことを思い出した。

ひとまず、運動もきちんとしよう、と思った。色んなものが発散できるだろう。

第21問 ありのままで

自分の周りの学生たちは綺麗事を嫌う人が多かったようである。小まめな挨拶から、困っている人を助けてあげようと思う気持ち、濁りない将来を語らうこと。ありがとう、を言わなくても良い空間。人を助ける行為が「立派」にならない空間。こうした徳の欠けた人間形成が行われる裏腹、本人たちは「自分は自分のしたいことをする『ありのままの自分』である」と胡座をかいている。だから親切をすることに気持ち悪さを感じてしまう。「ありのまま」であることが彼らの自我に直結するのである。「手を加えられない」自我こそが素晴らしいなのだと思っている。

はたしてそうなのか。この疑問は様々に解釈できる。【ありのままはまさしく「ありのまま」なのか】【無為自然である自分はまさしく「無為自然なのか」】【ありのままの自我は素晴らしいのか】端的に言えば、こうした態度は欺瞞であり、抜け穴だらけである。

彼らにそもそも徳の意識がないことはもちろん、自己の形成の意識もすっかり欠けている。自己の人格を修繕する意義が分からなくなっている。だから平気で冷笑する。平気で「客観的」なんて言葉を使う。彼らの客観視とは即ち、自分の気になるところについて他人を厳しく見ることに過ぎない。客観の対象に自己は入らないし、入れたとしても無理矢理な理屈をこねて『クリア』してしまう。これは私が気兼ねなく話せる友達に話すことであるが、「人格は高校時代までに大筋が決まってしまう」。含みのある言い方で、逃げていると思うかもしれないけれど、この含みは救いでもある。なぜこうした言い方をするかは少し考えれば今の君たちならわかるだろう。大学が始まった時、「素の自分」を出す奴がいるだろうか。普通、友達選びをする上でこの人は人を傷つける人かどうか、空気を読める人かどうか、といった相手の良識の判断に勤しむはずである。自分の人格をもろにぶつける相手はいなくなってしまう。そうすれば、刀の刃は使われなくなる。人を切ることも、人を切って自分や友達や家族を守ることはできなくなる。高校時代はそう、大切な時代だったのである。失敗も「バカ」で笑い飛ばすことができた、「バカ」で笑い飛ばしてもらえた、許してもらえた。多くの人々はそんな失敗も恐れ、自己を隠した。「当たり障りのない」人格こそ至高とされた。大学生活が本当の意味で大学生活になるのは時間を要する。慣れ、というやつである。その頃に刃を抜いたとして、自分と向き合って同じ様に刃を抜いてくれるやつはいるのだろうか。不確定である。高校の同級生はもはや敵でもなくなってしまう。語らいあうことはできるかもしれないが、それまで「成長」を意識せずに会話してきたものは冷静に、それこそ客観的に「成長」とされる。メタが純な世界に入り込む。今までの様にはいかない複雑さ。これに対応できる人間は、少ない。

含みとは何か。それは大人になってから治すことができる、という可能性である。しかしこれはとても過酷である。ほぼ100パーセント悲劇が伴うだろう。それも生や死といった人間の根源的な話題に触れる悲劇だろう。自己の安住が壊され、強烈な喪失感虚無感孤独感無力感に襲われた時にやっと可能性はでてくるのである。そこで刀を折られるだろう。精錬したつもりの刀は悉く折られ、使い物にならないことを知るだろう。その時にやっと新しい刀が手に入るのである。でも分かるだろうがその刀をどう裁くかは我々次第なのである。だから「可能性」なのだ。


そしてやっと、綺麗事の大切さに気づくかもしれないのである。

第20問 心臓

心のある場所としてよく心臓の場所が持ち出される。心は心臓のようにハート型で描かれ、赤い色で塗りつぶされる。

心臓。私はこの言葉だけで切ない気持ちになる。赤い心臓。

赤は様々な感情を表す。怒り、愛、嫉妬。その色を思い、手を心臓に当てる。脈を感じる。狂おしい。

これは自己愛なのだろうか。いや違う。脈を打ち、血液を体全体に送り、私を生かすこの心臓。どうして気持ちが、心がここにあるのだと思うのだろう。

手のぬくもりは血を通って、心臓へ伝わる。

裏切りは私の血を凍らせ、脈をうつ心臓を止める。

心臓は愛おしい。赤い色。私が生きる色。

心臓は強い。赤い血。私を生かす色。

私が眠る時も動き続ける。だから私は生きる。私は眠る。

私が起きる時も動き続ける。だから私は人を目に収める。自分を感じる。脈。

言葉にできない気持ちを心臓は温めてくれる。言葉にしなくともよくしてくれる。言葉にしないからこそ大切な気持ち。血に淀む。透き通る。

言葉にしてはならない言葉をそうしてしまう時、私は心臓を裏切った気持ちになる。

心臓の鼓動は私の内にしか響かない。

寂しい。苦しい。

自分が生きていることを再び感じるのである。


寝よう。忘れられるかもしれない。

第19問 空間

人間に未成熟さを感じる瞬間があった。人生は一生勉強だから、思うことをここに吐き出してやろう。大事な断りとして、これは予備校での話ではないので僕の浪活を不用意に案じることはない。

ここ暫く味わうことのなかった感覚だったが、空間を自分の占有物だと捉えて新たな訪問者を排外しようとする人間はいるのである。私はまさしくその一片を感じた。空間の主として自分が存在することを自負し、それを守ろうとする人間を確実に瞳に収めた。その人間は私より年上で、なおさら私の刃は鋭くその芯を切った。現れた断面は内実という言葉からは到底遠いものである。素直に次元の低さを感じた。学とか、そういう類ではなく人としての富の薄さとでも言えるような軽さを知覚したのである。同時に私は術の発見に苦しんだ。どうこの人間には対処すべきか、どう臨むことで自分は納得できるか。瞬間にして葛藤が巻き起こった。

初対面の人間を概念的に考えることはかなり粗雑だとは思いながらも、年上の人間に対して厳しい目を向けてきた人間として、強い違和感を感じてしまった。「人生そんなもん」と丸くまとめることは簡単だろうが、ここでグッと考えてみることにした。

自分の順応性が低いのか。期待が強すぎるのだろうか。おそらくどれも正だろう。といっても、空間の主を自認する人間に久しぶりに出会ったことが何より新鮮だった。あの人間は目が笑っていなかった。私が話すとき、どこを見てるか分からないような目で私の首あたりを見つめていた。

いい経験だった。この一言に尽きる。

第18問 マジック

ネット上の声、という言葉が最近流行っている。SNSが浸透する中で、SNSや掲示板のコメントがだんだんと力を持つようになっている。匿名であることはもはや意見を弱体化させるものではなくなっているのだろうか。匿名とは怖いもので、その存在自体が我々に結果の平等を押し付ける。どんな身分性別で、何をしている人なのかまったわからない人物のコメントが、脚光を浴びて「声」へと変貌する。私はこの薄暗い雲の中での言葉の変換に気持ち悪さを感じることを禁じえない。

しかしこれよりも恐ろしい事実がある。それは「ネット上の」という言葉である。あたかも同様の意見が多数あるようである。しかし精査すれば、それはあくまで一つのコメントの切り抜きであり、ムーブメントにはなりえないなんてことはざらである。今のメディアはこの二つの要素に寄りかかりすぎている。中立を求めるならばこそ、こうした飛躍は最も避けなければならないことの一つである。メディア全体系に対する信頼感はメディア全てに統一される規律になくてはならない。メディアが多様化する中、その芯を脆くするようなものが許されているというのは、メディアを享受する一人の個人として受け入れがたいことである。