第34問 倫理の濫用

舛添氏の件について書きたくなったので書きたいと思う。

率直に言って舛添氏をやめさせることは何の意義もないと思う。彼の振る舞いについて道義的責任が強く問われているが、私はこのメディアの姿勢には疑問しか浮かばないし、呆れかえっている。ご存知の通り舛添氏は汚職でやめた猪瀬氏の後釜であり、その舛添氏さえも汚職で辞めるのは正直下手なギャグよりもつまらない。どうやらメディアを始め一部の国民は、【舛添氏をやめさせること】に責任感を感じているようが、政治とは何か、参政とは何かということが全く分かっていないようである。よく嫌韓の話で、韓国の大統領がやめた後は牢屋に入るか自殺するしかないとかいう話があるが、それと何ら変わらないのではないだろうか。人々は韓国の政治の頽廃を笑うが、日本の政治も全く同様に頽廃している。安倍政権になってやっと政権寿命が『長期化』したが、その前までは一年に一回総理が変わっていたのだ。それと全く同じ状況が都政に顕在化したのである。

これは都民だけの問題ではないのではなかろうか。日本の国民主体に政治を運営する機能が失われているということではないのか。国民は政治の客体であることが今では当然とされるが、そういう態度では「選挙権の年齢引き下げ」なぞ議論したところで何の益もない。いつまでも僕は私は関係ない、政治は難しいなどと言ってる限り我々はこの頽廃した政治から、生活から脱することはできないのではないだろうか。

メディアも多角化する中で品の低下が著しい。ネットのメディアが締め出された云々の話もあったがそれは仕方ない側面も多い。

http://m.huffpost.com/jp/entry/10448830

私はこの記事を読んで、いろいろな面でがっかりした。あなたもこの記事を読んでがっかりを感じてくれればありがたい。

この一連の騒動を経て、いつまでも国民が健全であるという幻想を捨てられない限り、我々の満足する政治は永遠に訪れないだろう。


道義的責任、言葉に強い重みがある。が、果たして我々は道義を他人に問い質せるほど道義に寄り添って生きているのか。舛添氏を「人間的に信じられない」と言っていたコメンテーターがいたけれど、果たしてその人は人間的とはどういうことか自らに問いただしたことはあるのだろうか。

普段見向きもせず踏みつける倫理をこういう場合にだけもちだそうとする人間は、不信である。倫理や徳の本質は、そうした怠惰に対してこの上なく薄情であることはまぎれもない事実であろう。