一学期ももう終わりに近づいている。
近頃の夕焼けを私は見ていない。去年も今年も太陽が橙色になって、その日最後の輝きを見せるその瞬間を見ていない。
筆を動かし、頭を巡らしている間に真上にあった太陽はいつの間にか姿を隠す。
どうにも自分の気が狂いそうになる瞬間はそうした瞬間だと思う。当然を再度自覚する瞬間はとても鋭くて、ヤワな私の心臓を見事に切り裂いていくのだ。
太陽は普遍そのもので、その輝きもまた普遍である。
人間は普遍に欠ける。何かあれば考えをかえ、常に食い違う自分を連続させて生きる。変わらないことは人間にとって遠ざけるべきことなのか。愛するべきことなのか。
昨日会った友達の心の変化というのは手に取るように分かる。他人が自分をどのように思うのかは、ある程度見て考えれば分かるようなものだ。
その逆で長い間会わない友達が変わらないとき、私はその友達を自分の友達でよかったと強く思う。変わらないとは本当に変わらないことではなくて、また寄りかかれることなのである。
これを読む人には私はあたかも選ぶ側としての傲慢さを感じ取るだろうが、人間は引き合う生き物ということは考えてやってもいい。同じ調を持つものは不思議と惹かれあい、そうでないものは近寄っても不思議と弾き合う。異なる調が重なり、不協和音を奏でても演奏する私もそれを遠くから聞く他人も面白いとはなかなか思えない。
新しいことはとても大切だったが、もう探る時期なのである。そこで垣間見える心が幼かったり、皺のない丸みを帯びた心臓だったらそれだけで融けることは難しくなる。
他人から見れば私はそこまで貴重なものでないものであることは分かる。私にとって遠い他人が貴重でないように。
心臓を掌で覆うことは困難を伴う。直に心臓に触れれば、生ぬるい、赤い鮮血が掌にこびりつく。血の匂いを嗅ぎ、吐くだろう。
触れなければ何もない。それが普通の生き方で、「自立」するということなんだろう。
考えない葦が立っていたところで、私は何の興味も惹かれない。