第102問 忘れられないことについて

近頃の自分というのは、忘れるのを手伝うことに身を燃やしている。

忘れられない思い出というのは誰しにもある。

それが悲しい思い出であれば、自分の心を痛め続けてしまうものである。

一方で、楽しい思い出であると、それは過去に執着してしまう惨めな自分を照らし出してしまう。あたかも現在の自分に向かって、あのときの自分が一番幸せだった、今の自分の幸せはあのときには到底及ばない、といったふうな具合に、常に過去の自分が「本当の自分」「最高の自分」として顔を覗かせるのだ。

どうしてこのようなことになってしまうのか、ということさえ思ったりするけれど、人それぞれには事情があり、そうなるまでの過程やコンテクストというものが存在するのが常である。瞬間を切り取るような精神分析によっては、本当のところには手が届かない。

どうも、過去というものは立ちふさがるものである。過去に思いを巡らせてしまう人種は、いつまでたっても現在を味わい切ることができなくなってしまうように思う。

自分について、思い返してみると、過ぎ去ったものの多さに驚愕する部分がある。

過ぎ去った痛みの多さ、過ぎ去った女の多さ。

 

いつまでも女が忘れられないような男、いつまでも男が忘れられないような女というのはどういうことなのだろうか。人によっては、そんな投げかけをするような人生だからいけないのだ、なんてお叱りをくださるような方もいるだろう。

でも、そうはいっても、家族について失望と絶望を繰り返してきた身からすれば、たかだか他人の恋人に思いを引きちぎられるような感覚はなかなか完全には理解したとは言えないものなのだ。

恋人が忘れられない自分が好き、ということなのかもしれない。どう考えても、今日明日その恋人にあなたは会いたいわけではないでしょう、と。その恋人を今抱きたいわけじゃないでしょう、と。その恋人に今あなたは抱かれたいわけではないでしょう、と。

そんなことを言っても通じないのが虚しいところである。

自分の過去の物語の殻に閉じこもってしまっては、いかほどまでに今の世界が鮮やかか感じることも難しいのだ。

 

忘れられない女は、私にも確かに何人かいるだろう。その女達が私にとって特別な理由もわかる。尊い時間を刻んだものだと思う。しかし、私には到底彼女たちをもう一度抱きしめる力はない。

そういう思い出を振り返り、自慰にふけるようなことはまったくないのだ。

 

なぜそこまで忘れられないのだろう。なぜそこまで離れられないのであろう。恋愛がもっとも自分の胸を打つような中毒になるような刺激だったのだろうか。

誰かに羨ましがれるような恋愛をして、今の自分こそが一番過去の自分を羨ましく思うのだろうか。

どうしてそのようなことになってしまうのだろうか。生きる幸せを感受する感性の問題なのだろうか。あなたが過去にしがみつくのを感じるたびに、私の心は一歩づつ離れていくのだ。あなたには気付かれないように、少しづつ少しづつ遠くへ逃げるのだ。

でも、いかに今私達の前に横たわる生が幸せか、自分になら教えてあげられるかもしれない。

今の病を抱えるあなたには、なかなか納得できない言葉を私はかけるだろう。

でもそれが、数カ月後、数年後にはっきりと分かるときが、かならずややってくると、私は信じようと思う。