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第51問 旅を終えて

一人旅を終えた。長いようで本当にあっという間だった。

分かったことがある。それはある程度自分は成長してきているということである。幹が確実に太くなったのだという実感がした。浪人という一年がくれた、私へのプレゼントだろう。

漫然に、何となくに、じゃなくて本源的に感じた。

ゲストハウスに訪れて、色々な人と知り合い、話した。町に親しみ、巡り歩き、たくさんのものを食べた。

旅人という身分はいいもんで、どこへ行っても歓迎される。幸せだった。

東京は改めて冷めているなあと思った。都心は物が、者が集まる。これは奢りに繋がってしまうのだろう。至上の感覚というか。ないモノがない、という誤った感覚が脳みそにこびりついているんだと感じる。

旅先の人々はとても謙虚だった。有り様をそのままに受け入れ、知らないことは知らない有様だった。振る舞いには純粋さが溢れ、それは言葉を通じて、笑顔を通じて、目を通じて、私のような旅人を受け入れた。

深呼吸が奥まで出来る、といって分かるだろうか。空気の汚さがひっかからない感じなのだ。ありきたりのようだ。夜の街中に溢れていたおじさんたちの陽気な笑顔と笑い声は、本当に幸せだった。大人をもう一度信じられるかもしれない、そう思えた。東京の下を向いた、早歩きの大人は可哀想だ。あまりに可哀想だ。

旅の終わりは寂しさで溢れる。でも何故かまた旅はやってくるという喜びは、私の背中をトンと軽く押してくれた気がする。

私の旅と交わった人々、私に旅を教えてくれた人々に心から感謝しています。

終わったら読みたい本

谷崎潤一郎 春琴抄

島崎藤村 夜明け前

安部公房 砂の女

三島由紀夫 豊饒の海

夏目漱石 明暗

志賀直哉 暗夜行路

二葉亭四迷 浮雲

坪内逍遥 小説真髄

谷崎潤一郎 細雪

武田泰淳 富士

中上健次 枯木灘

大江健三郎 レインツリーを聴く女たち

ドストエフスキー 罪と罰

マーガレットミッチェル 風と共に去りぬ

プーシキン 大尉の娘

アーネストヘミングウェイ 老人と海

チャールズデキンズ 大いなる遺産



福田歓一 近代の政治思想

丸山真男 日本の思想

三好行雄 森鴎外夏目漱石

佐々木毅 政治の精神


はあかっこつけた。

こういう自分は死ぬほど嫌いだが、こういう自分は自分から切り離せない。

時に友を失い、友を引き寄せるのだろうな。

醜さを美しさにしていきたいものだ。




第50問 鶏と卵

有名な話。鶏とその卵はいったいどちらが先なのかという命題であるが、似たような話。

12月は1月の前なのか。それとも11月の後なのか。これはとても難しい問題である。

いや最近ひたすらに思うのは、自分は何者なのかということである。本名によって定義されている。ふむ。けれど、名前はイコールじゃないし、そもそも私はそういうことならばイコールを今この世で一番気にくわないと思っている人間である。

例えば、考えてみる。

受験生。決して的を射ることがない正解といった感じである。

男。これは開成高校の人が書きそうな答えだ、そのままの意味で。

息子。うん、やるなといった感じ。俺はこの人と仲良くなれる可能性を少し感じる。OB。胸が苦しい感じで、なんとも言いようがない。誇りも感じさせないような、鋭いというか、縫い針先で刺される、そういうイメージだ。つまり鋭い訳ではない。


自分なりに答え、というかタネがストンと落ちてるからもう書くのがしんどいので、もう書くことがないけれど、私はなんとなく分かったような気がしている。

これは共通項を探すのではなくて、自分を模索する行為自体どういうものなのか、自分を語る上で自分の脳みそに浮かぶのはなんなのか、と漠然と考えるとなんとなく出てくるようなものかもしれない。

最後に受験生としての今の私について少しだけ言っておこう。

最近は模範的受験生なんてのは捨てて、模範的な18歳に近づこうとしている。受験生である前に俺は18歳なんだとようやく気付いた。とはいえ、寒い空気に触れると反射的に筆が動く、といった感じだ。


第49問 共感

最近思った、個人間で一番大切なものである。

音楽も文芸もメールも会話もラインも授業も、共感はかけがえなく大切かもしれない。

共感できればできるほど、その人はいつの間にか大切になってるし、できなければできないほどいつの間にか距離ができてしまう。

不思議なものである。

だから私は孤独な人間には共感というわずかなエッセンスがあればだいぶ変わるのかもしれないと思うのである。

共感されること、これは中々に大切なことになるだろう。でも共感されてもらったら次は、共感することが大事で、好きなアーティストの音楽をじっくりひたひたに聞いてみたりして、心をスロージャムに浸すのだ。

今日の朝日はお気に入りの朝日だった。それぐらい良い朝日だった。

誰かがいつしか言っていた想像って、共感の一つだなと遅れて納得した。

第48問 ノルウェイの森

3ヶ月前ぐらいに書いた書評を捨てたいのでここに書いておく。

ノルウェイの森は現代的な小説として我々にとらえられ、村上春樹は現代的な作家として語られてきた。今日ノルウェイの森を読んだ私には確かに村上春樹の現代性をかんじられた。もしくは、近代性、かもしれない。感じたことを書けば、この文章には人間への密着がないように思う。小説を読む上で私が感じてきた主体の重なりみたいなものがないのである。主人公の「僕」は決して私にはなり得ない。述べられる「僕」の感情はあくまで頭のいい他人が彼を、彼の感情を想像したものであるような気がするのだ。だからある意味で「感情」は分かりやすく、飲み込みやすい。それはわれわれ読者が著者即ち村上春樹の視点を借りるような、そういう体験を得るからである。この文章には素直な吐露がない。たびたび登場人物達は素直であること、正直であることが肝要であると訴える。でも私には直子もレイコも皆目素直であるようには思えない。レイコは何故悉く嘘をつくのだろうか。直子は何故本当の全てを言葉にしないのだろうか。二人とも確かに自分の過去についてはとても素直である。他人であるならば顔をしかめるような辛い過去を、「素直」であるがために何気なしに「僕」に、もしくはわれわれ読者に告白するのである。これは小林緑についても同じことが言えるだろう。(ただし彼女が患者ではないように直子やレイコのようには扱うべきではないのだろう)彼女達は決して今の自分に素直でありえない。これは直子が療養する前、自分の思いをきちんと言葉にできなかった状況が簡潔に彼女達の、ある意味での不誠実さを証明してくれる。もし真に彼女達が今に対しても素直であるならば、村上は我々に彼の思う素直さを訴えているのかもしれない。人間が漠然と他人に抱く不信感を解消する方法として、過去に潔くなり、直子のように不安と感謝を述べることが、非現実的ながらもそれしかない選択肢として示されているのではないかと思う。

一つ私が気持ち悪く感じるところを上げよう。それは作品の美しさを人間の肉体的な性質的な美に委ねようとするところである。あれほどまで人間を交渉させながら、結局は俗的な男女の違い、交わりに完結してしまうのが納得できない。もっと言うならば、肉体の美しさとは結局「モノ」的な美しさなように思えて、人間の葛藤、それも病院に入るまでのあの鋭利な戦いを、柔らかいものに包み込んでしまう。倒錯に思える。

第47問 分かりやすい自己紹介

自己紹介は初対面の人と会った時に、自分が何者なのかを相手に簡潔にわかってもらうためにするものだ。でも、それは大概名前を言ったり、出身の学校を言ったりするだけで終わってしまう。もっとも分かりやすい自己紹介とはなんなのだろうか。

一つには、好きなミュージシャンを聞くのはいい選択肢だろう。私なんかはきっとそういう時、メタル系とかバンド系を聞く人がいるとそっと距離を取ってしまうのだろう。だってそういう人たちは夢見がちだし、現実と夢がすっかり離れてしまっていて、そこが繋がってないと、歌の歌詞だとかそういった類のものからその人のなりを感じ取ることはとても難しい。あとは単純にそういう歌が好きじゃない、というのもある。

嫌いな人を紹介するのは?これは随分白けた自己紹介になりそうだけれど、これで地雷は片付けられる。「この人無理!」が大流行りしてる今の世の中では、理に適った自己紹介だろう。話が逸れるけれど、私はそういう「無理」みたいなものの見方が嫌いだ。治しようのない病だと思う。自己を相当な高さにまで引き上げているのかなという印象を受ける。そういうフィルターほど悲しいものはない。人の特徴をプラス、マイナスで足しあわせてるようでは多様性なんて言葉は使いこなせるようにはならないと思うのだ。主観の絶対領域みたいなものは他人からすれば、それはあくまで他人の考え方に過ぎなくなってしまう。他人は他人で好きにやる、みたいな考え方もあるにはあるが粗悪な自己も生まれてきてしまう。

他には何があるかな。例えそれが充実した自己紹介でも、我々の感性がそれに追いつかなければ、何の意味もないけれど。

第46問 流行り

蚊帳の外から人間を客観視することが最近正しいこととして人々に受け入られていることに、私は素直に違和感を持つ。
確かに学問をする上では必要不可欠なものの見方だけれど、それを日常生活の対人関係に持ち込むのは温かみに欠けてしまう。
テレビのコメンテーターのような、ネットの「正論」のような他人行儀はインテリジェンスとは少し違うものかもしれない。
誰にでも同じ話をしている人は、多分この相手のグラデーションをイマイチ理解していない。まるでツイッターのフォロワー、フェイスブックの友達、のように人間を線を引いて考えているのかもしれない。
ツイッターなんかとてもそういう意味で有用だなあ。半匿名で、フォロワー全員に一度に同じ話ができるわけであって、目を見るときの怖さとか、そういう類のものからは完全に解放されている。そこで「正論」を語ることは多分とても快楽の伴うことなんだろう。「正論」の温床とでも言おうか。感情的なツイートが炎上してしまうのも、いわゆるネットリテラシーがないから、という実は意味不明な論理だったり。
ここでネットを包括的に述べること自体、そういうものをよくわかってる方々はナンセンスだと思ってるかもしれないな。なんとも恥ずかしい。
出来立てホヤホヤの思想の場を今支配している動きは即ち「正論」で、うまいことを言ったものが勝つ空間になっているのだろう。
それでは、私がこの場でこうして意見を表明することはどんな意味を持つのだろうか。少なくとも書いてる側からすれば、常にそういう正論と戦ってきた気がしている。だから、飽きれられたり、理解されないことが多かったのかなと思う。でも別に興ざめな意見でもないかなとも思っている。だからある意味、そういう秩序みたいなものの抜け道みたいなものなのかもしれない。
ツイートって正直フォローしている限り、見ることを承認してみているわけで、「全世界に発信」みたいな論理は少し飛躍があるように思ってしまう。しかし、リツイートとかネットニュースなんてのはこの意見の欠点を突いてきて、痛いわけである。だからまあ完全に、プライベートなネット空間に自分の責任でもって引き込ませることで多少自由なことも言えるようになるのかな。
百何文字かで収める工夫なんかも、こういうブログでは一切いらなくて、逆に「鋭い意見」なんかも別に書かなくていいわけである。だらだらと書きながらも要所要所で、話を締める、っていうのも大事な力なのかなと思う。その分、普段の要約的なコミュニケーションに慣れている人たちにとっては理解しづらいものになってしまうのは難点ではあるけれど。
簡潔さみたいなものも、客観性のコインの裏表にある感じがして、今のところ好きなものじゃない。「要するに〜」は、なかなか言われる方はイラっとするが、きっときちんと纏まった言い方をしない人が悪い、というのが今の言論の風潮からすると正しい意見になる。
本当は正論みたいなものが出すぎると、集団的な感情でものを考える力が衰えるんじゃないか、みたいなことを書こうと思ったんだけれど、「アレ」に似てることが気づいて止めた。(まあわかる人にはわかるよね、今度話す機会があれば当ててみて)
要するに、私からのひとまずのメッセージはネット社会には形式がないのだから、形式的な意見発信をしすぎるのはよくないんじゃない?ということだ。

今回はいろいろな意味で面白いことが書けたような気がする。