第56問 人を愛するということ

色々なことを見聞きしたので、すこし書こうかなと思った。あの人に読んでほしいけれど、今は無理そうか。

人を愛するというのは、どういうことなんだろうか。それは愛し合うということではない。あくまで自己本位な問題として捉えたい。

自分のことを深く理解してくれる、自分のことのように痛みを分かち合い、涙を流したり、喜びをてのひらで手の甲で感じることのできる、してくれる、そういう人間を私たちは愛するのかもしれない。それは同時的に、我々の痛みや喜びをその人に開示することも意味している。

書いているだけで切ないけれど、愛するってのはなんて厄介なことなんだろう。

自分の懐に他人を入れなくてはならない、それだけでもすごく時間がかかるのに、思いが重ならないと自分は強く傷ついてしまう。

そう思うと自分は人を愛したことは一回しかないかなと思う。それはまあ、それでいいんだけど。

あの時に感じた瞳がどれほど自分の脳裏に焼き付いたとしても、相手には何が焼き付いたのか全くわからない。目に入った大きなイヤリングも、透き通るほど白い肌にはひと塗りだけした口紅も全部自分の目にしか写ってない。相手の目に焼き付いたのはなんなんだろう。そして何を思うんだろう。

心の距離が近づくというのは凄いことだ。それだけで本当はノーベル賞を取れるレベルで、芥川賞を取れるレベルで自分の人生にとっては素晴らしいことだ。

二人で歩いた街並みをまた歩くと、その時の記憶がそのままに私たちの脳みそを切り開いてくる。

夜の日本橋も、夕方の九段下も、私にとっては少し大切な空間なのかもしれない。

一人で見た一色の海も、愛だとかそういうの抜きにして色が抜けない。

場所と人間、不可分なのか。

第55問 言葉が流れない

最近のとある政治家のニュース。

ICレコーダーが使われたそうだ。

SNSでの発言も今じゃスクリーンショットに保存されるし、消さないと消えない。

どこかにずっと残ってしまう。

 

これは写真が我々の目に焼き付いた光景と違うものを見せてくるように、我々の脳に焼きつかなかった言葉を無理やり我々の脳にこびりつけていることになる。

 

それでも私は流れるような言葉が好きだし、誰かに保存されると思って言葉を書きたくない、吐きたくない。自由でありたい。本当にそれだけ。

 

好きなだけ道徳を持ち出して、人を叩けばいい。正義を好むなら正義をふりかざせばいいと思う。政治家の質は確かに下がってるし、憂慮しなければいけない状況だと思う。私も賛同する。

 

でも我々が切り取ったシーンは決して我々に向けたものでなく、我々にとって書かれた言葉でも、我々にとって吐かれた言葉でもない。相互性として担保されてない。

 

私は人にはやり直すチャンスがあると思う。やり直せるからこそ感情的になってしまうことや、人を傷つけることは、正す価値が生まれると思う。

 

 

第54問 お前が嫌いだよ

人間にとって大切なものの優劣を考えてみると、一つの区分として人とものとことの三つに大別することができる。
今回はその「こと」に密着して物事を考えたい。
なぜこんなことをいきなり書き始めたかというと、今あるアイドルの結婚発表が物議を醸しているからだ。だから実は今回話したいことはつまるところ女の人生だ。
最近はよく女というものをよく考えている。私は男だから決して女になることはできない。これは本当に興味深いもので、ある意味同じ人間であったとしても女は男とはやはり全く別の生き物でありうるということなのだ。
近年の男女平等を叫ぶ声は、簡単に言えば「男と女は同じ人間なんだから同じものが与えられるべきで、男の優位性はあくまで慣習的なものであり無根拠だ」という立場/言明が貫徹されている。私は自分の性別を抜きにして、この言明は全く正しいものだと思う。
しかしながら実際にこの言明が論理性を保つかと言えばそれは完全にそうであるとはいうことはできない。なぜなら、男女の差異は生物学的に物理的に存在するし、男女平等を理想として教育されてきたものにしかその世界は美しく思えないからだ。
感覚の断絶として、女性の中の内在的な問題がある。つまりひとえに女性を論じたところで、女性の中には男性に付き添って生きていくことを理想にしている人はたくさんいるということだ。こういう女性は私の経験則から言えば、地方で育った人や学歴的に低い人徒たちが保つ傾向ある。これは大きな問題をはらんでいて、女性のうちで学歴のある女性は何かしら、そうした女性たちを見下す傾向にある。イメージで言えば、”unenlighted"みたいなものだろうか。女性の中である種カースト的なものを作り上げ、一義的に立ち遅れていると考えているような匂いがするのだ。
きっとおそらく当の本人たちに突き詰めるとこの考えは決して認められず、むしろそういうことを思いつく私自身の人間性批判へと転化されてしまう。だからこそこうした形で書くのだけれど、私は自分のそうした醜い考え方へのセンサーは間違っているとは思えないし、直感的に感じる論理の不自然さや脆弱性は隠すことはできない。
 
さてさて本題に戻ると、お金をつぎ込んでくれていたファンの前で結婚を発表したアイドルさん。これがボコボコにネットで叩かれている。
女性の生き様。これは本当に語っても語り尽くすことはなくて、上で述べるだけでもまだまだまだまだ足りない深遠さを持っている。だから一側面からの批判や批評は本当に切り取れる世界が狭いということを肝に命じたい。
でも深遠だからこそ、一つわかるのは、それは自由でいいということじゃないだろうか。
アイドルという職業、特に彼女のいたところでは恋愛は認められていない、というのはあったかもしれない。
でも、実際に、冷静に考えてみて、そういうのはおかしいし、本当は看板に過ぎないということは手に取るようになわからないだろうか。
嘘を嘘だと思って楽しむ余裕というか、創作物、あくまで「偶像」に過ぎないアイドルへの理解が、欠けてしまうのはとても残念だ。高校生が、応援していたアイドルが結婚してしまうことに落胆する気持ちはわかるし、裏切られたとなるのも話わからなくもない。
でも世論全体が、年齢的な部分を超えてそういう風になってしまうのはどうにも目が当てられない。
彼女のどんな生き方も、彼女が選択したのだから認めてあげよう、そうなって欲しかった。
電車で漫画を読む大人、ゲームが好きな大人は昨今たくさんいるけれど、それは多様性があっていいな、と思いつつ、結局そういう多様性によっかかったまま成長しない人が中には出てきてしまう。成長って何?と突っ込まれたら何も言えないけれど、せめていうなら、成長した人、成長してる人にしかわからないものということになるのかもしれない。
多様性、私はお前が好きだけど、たまに本当にお前のことが嫌いになるよ。お前は都合が良すぎる。

第53問 過渡期

今の私ははっきり言って過渡期だ。爆発的に自分の中の何かが変わろうとしているのを感じる。獰猛な何かが蠢いている。

人間に対する拒絶感がバカになっている感じである。器の口を無理やり広げられている。色んなものが自分の体の中に入り込んでくる。漠然とした寂しさが人肌を求めている。

今日は体調が悪くて、一日中自分を落ち着いて眺めている。勉強しなくてはいけない、という焦りが私の心の時計をとても早めている。焦ると疲れる。無駄だな、とか効率が悪い、とかそんな言葉が1日に何回も出てくる。うんざりだ。

それにしてもさみしい。なんなんだろうか、この寂しさは。ラインの通知がたくさん溜まるようになった。昔はそんな人を見ると凄いなあと思っていたけれど、今はなんだか疲れる。どれほど親しい奴でもなぜか満たされない。どれほど素敵な女の子でも満たされない。つまりはきちんと会って、言葉を交わして目を見ないと、何も私の心の中の器には入ってこないということだ。

ある人について考えている。その人は自分にとってなんなんだろう。最近殊更に思うことは、ある人間に対して友達だとか、親友だとか、そういうレッテル貼りをするのはとても心が疲れるということだ。A君は私にとってA君であり、BさんはBさんである。ただ一緒に時間を過ごしたい、そんな気持ちなんだと思う。心を通わせて、安心する時間が欲しい。自分は若いけれど、ガツガツ競り合う若さはない気がする。ゆっくりじっくり太く湧き上がるなにがしかの力で生きているのだと感じる。

自由なはずなのにさみしい。そんなことを感じる時期だ。それは一緒に眠る女が欲しいのか、夜まで語り合う男に会いたいのか全く峻別がつかない。

つい最近まで自分のことを分析しきっていたような気がしていたが、どうも自分自身すら私はきちんと掴み取れないようである。

無常。

第52問 個別具体への諦念

大学生活が始まり、殊更に感じるのは人間というのは多様であるように見えるということだ。本当に千差万別というのは文字通りで、真実なように感じられる。ただ高校時代の彼や彼らが時に昔の面影を残し、時に踏み潰すのをこの目で耳で感じる時、その多様性という言葉の如何に空虚なことかを感じる訳である。役職や学ぶことが多く増え、人に様々な要素が重なることでそれは多様と呼ばれるのかもしれない。しかしながら当の本人たちはその生態系は専ら自覚していない様子である。つまり、あらゆる共同体において彼らが何らかの立ち位置を争って奪い合って、見せつけ合っていることは事実で、自分の多様ぶりの発露なんてものは彼らの頭の片隅にもないのである。しかし大学は色々な人がいる、なんていうのがありきたりの言葉として溢れかえっている。では、生態系の多様性は愚かな人間には感じ取れないほど微細で美しい、精緻なものなのだろうか。私には到底そうは思われない。人間というものを彼らが分かっていれば、その言葉には一瞥の価値があるやもしれないが、私の見る限り私を含め、人間という観念の正体がわからないからこそ、多様性という煙の中に言葉を、人間を隠すのだと思う。諦めの中に、諦めが故に多様性という言葉を我々が好んで使うことを素直に認めなくてはいけない。ある種のダンディズムとして、挨拶として、合図として、多様性は用いられる時に、その諦めは裏側で輝く。しかし、多すぎる人間に口ずさまれる時、どうしようもなく素敵に吹き抜ける風は失われてしまうのだ。

第51問 旅を終えて

一人旅を終えた。長いようで本当にあっという間だった。

分かったことがある。それはある程度自分は成長してきているということである。幹が確実に太くなったのだという実感がした。浪人という一年がくれた、私へのプレゼントだろう。

漫然に、何となくに、じゃなくて本源的に感じた。

ゲストハウスに訪れて、色々な人と知り合い、話した。町に親しみ、巡り歩き、たくさんのものを食べた。

旅人という身分はいいもんで、どこへ行っても歓迎される。幸せだった。

東京は改めて冷めているなあと思った。都心は物が、者が集まる。これは奢りに繋がってしまうのだろう。至上の感覚というか。ないモノがない、という誤った感覚が脳みそにこびりついているんだと感じる。

旅先の人々はとても謙虚だった。有り様をそのままに受け入れ、知らないことは知らない有様だった。振る舞いには純粋さが溢れ、それは言葉を通じて、笑顔を通じて、目を通じて、私のような旅人を受け入れた。

深呼吸が奥まで出来る、といって分かるだろうか。空気の汚さがひっかからない感じなのだ。ありきたりのようだ。夜の街中に溢れていたおじさんたちの陽気な笑顔と笑い声は、本当に幸せだった。大人をもう一度信じられるかもしれない、そう思えた。東京の下を向いた、早歩きの大人は可哀想だ。あまりに可哀想だ。

旅の終わりは寂しさで溢れる。でも何故かまた旅はやってくるという喜びは、私の背中をトンと軽く押してくれた気がする。

私の旅と交わった人々、私に旅を教えてくれた人々に心から感謝しています。

終わったら読みたい本

谷崎潤一郎 春琴抄

島崎藤村 夜明け前

安部公房 砂の女

三島由紀夫 豊饒の海

夏目漱石 明暗

志賀直哉 暗夜行路

二葉亭四迷 浮雲

坪内逍遥 小説真髄

谷崎潤一郎 細雪

武田泰淳 富士

中上健次 枯木灘

大江健三郎 レインツリーを聴く女たち

ドストエフスキー 罪と罰

マーガレットミッチェル 風と共に去りぬ

プーシキン 大尉の娘

アーネストヘミングウェイ 老人と海

チャールズデキンズ 大いなる遺産



福田歓一 近代の政治思想

丸山真男 日本の思想

三好行雄 森鴎外夏目漱石

佐々木毅 政治の精神


はあかっこつけた。

こういう自分は死ぬほど嫌いだが、こういう自分は自分から切り離せない。

時に友を失い、友を引き寄せるのだろうな。

醜さを美しさにしていきたいものだ。