第26問 電車とネット

春らしさがだんだんと無くなって、日本が少しずつ夏に近いづいていくのを感じる。

春は暖かい季節を待つ分、少し涼しい時期が短く感じられてしまう。

さて以前ネットの匿名性に言及したかと思うが今回はそれが少し出てくるお話。復習になると思う。とはいえ話になるほどまとまってはいないから、気楽に聞いて欲しいとは思っているのだけれど。

いつもの通勤通学電車を思い出してみて欲しい。地域によるだろうけど、ギュウギュウに混んでいて暑い。本当に電車はくそったれだ。昔は人に挟まれて何も考えなくていい気楽な時間だとか思っていたけれど、あれはおかしい。どうにかならないか。平気で舌打ちをするし、寄っかかって自力で立とうとしないし、我が物顔で押してくるし、携帯は引っ込めないし。

こうした行動にある根拠を探りたい。ひとえに私はこれは、「周囲が自分を知らないという安心感」に裏打ちされていると思う。知らない人だから押せるし、蹴れるし、舌打ちできる(そんな人いないだろと反論する人は鍛錬が足りないのでここでは無視)。これを当然だと思う人もいるだろうが、当然は常に意識される感覚を指していうべきであって、「僕もそのぐらいの論理は分かります」という意思表示に使うわけではないことに注意しておこう。私自身これは当然、ではないし、論理で人間の心理を解釈しようとした結果ストンと落ちるものが出てきてしまっただけである。

さあ感じるだろうか。少なくとも私一人は思うが、【自分の電車内での振る舞いは他人に見せられない。】もしくは【見せたくない。】私はかなり電車のなかでは「防戦一方」だけれど、それでも嫌である。人の肘が当たってイライラしている姿は見せたくない。人に押されて踏ん張っている姿は見せたくない。

ここで素直に私たちは電車のなかでの倫理観を失っていることに気づくだろうか。それは「〜しよう」と心がける、プラスの倫理観ではない。「〜であろう」というゼロの倫理観、もしくは「〜されたら」というマイナスの倫理観。これら二つが「人それぞれ」という万能薬で誤魔化されてはいないだろうか。頭のいい人はもちろん気づいているだろうが、あくまで倫理観であって、道徳観ではないことに注意して欲しい。そもそもこれを「倫理観」と認めがたい人は多いのではないだろうか。高々30分〜1時間程度の会話のない人間付き合い。【別に】なんて。電車に乗っている人が自分の住む地域にいない、自分の所属する共同体に所属しない、からであって単純に【同じ電車に乗った人】というミクロ的な共同体意識は存在しないだろうか。

少し飛躍、というやつをしてみる。倫理観とはなんだろうか。ここではそれの持つ一つの性質に注目してみたい。それは即ち【監視する】という性質である。監視という言葉は狭義的に捉えがちで、自分もそうしてしまうから中々伝えづらいんだけれど、広義的に言えば、「監視して、訂正する」ことだと言って構わないだろう。訂正とは即ち、言及して、自分の手で修正しようとすることである。いけないことに対して、それを発見し、自らの手で訂正する。ということだ。この文章を読んでいる人間のほぼ100パーセントは18歳以上だろうから、「資格がない」なんていう弱音は論外である。いやそれもそうした人間からすれば「人それぞれ」なんだろう。これこそは道徳観の問題だから、低いレベルに合わせるつもりはない。

近年はどうやら「監視する」力は我々には十二分に備わっているようだ。それも訂正の領域に溢れるものもある。監視し、裏で噂をして、あぶり出していく。徐々に徐々に「浄化」して、雰囲気で飲み込んでいく。もしくは弾き出していく。場合によるが、これは大抵の人は「この方がいい」と思っている方法で、全く勇気を必要としない。それこそ人に嫌われる勇気、自分で手を下す勇気である。この雰囲気で人間の浄化を図る行いは、人間と人間の対話を消し去ってしまうことは言うまでもないだろう。対話して初めて生まれる情感、慈愛、愛情はもちろんない。

監視が訂正を担う危険性は感じ取ってもらえただろうか。どうもネットの世界でも、監視ばかり成長するようで「叩き」だとか「炎上」はこうしたものの産物だろう。

勇敢な人はこう思うかもしれない。「ならば悪事は見つけて、私が訂正しよう」と。さてどうか。真人間はたまに扱いづらい。いい人が多いんだけど。大事な言葉は【倫理観】である。つまり共同体の一員としての自己認識である。自分にできることは何か、という問いである。それは共同体に歩み寄る、ことである。根幹である。ここからどのように茎や葉を伸ばすかは「個人の自由」である。プラスの倫理観に対してしか公は言及できない。でもこうして私の文章を読むあなたに問いかけたいのは、ゼロの倫理観、マイナスの倫理観である。

ネットの匿名性との関連性はもう説明不要だろう。私自身ネットに共同体意識を持つのは難しい。だからここで言いたいのは日頃の共同体意識なのだ。

壊れたら直してやろう、それぐらいの気概が欲しい。壊れたらさようなら、が減る世の中になれば、と一人思う。



第25問 朝日

今日はいい日だった。それはそれはいい日だった。例えるなら、本当に自分の羽が伸びるようなそういう日だった。

気の置けない、というのはすごく大事なことである。かけがえのなさを感じる。格好つけない尊さがある。

シティに住む人間にもこういうものを味わえるんだなと思うと嬉しい。現在進行形の物が過去形を使う。現在進行形をつかう。現在形を使う。「現在形」が使える友達は本当に少ない。

海に漂うような気持ちよさ。オーシャンという響きがぴったりな気持ちよさ。盃になみなみと注がれた液体が海を思い出させる。

テレビを見て、普段は笑わないものも笑ってしまう。どうしてなのかな。

強い風の音。全く入ってこられないのだ。それほど固い。堅い。 

夕方、夜、朝を生きる感覚。比較しての尊さを超える。つくづく自分は文系な人間だと思う。

こうして全ての感情を言葉にしようとするヤツは類い稀ない馬鹿だ。


第24問 大江健三郎『個人的な体験』

今日は予備校が始まり、気も引き締まった。現代文のテキスト、最後の問題はなんと「こころ」だった。気が引き締まる。

詳述はまた別の時に。

さて今回は延ばし延ばし、というか書く覚悟がなかなかにできなかった『個人的な体験』について書こう。

この文章に向き合うことは正直恐ろしい。この文章に何か意見を出すことは、それはまさに自分の本性を暴くこととなる。冷血な薄情な人間は御託を並べるかもしれないが、いやそもそもそういう類の人間は書こうとはしないだろうが、私は青春を過ごす自分が何か残さなくてはいけないという自傷的な責務を背負って、この文章に向き合おうと思う。

高2の頃『死者の奢り』で味わった文体というか、味わいはそのままであった。むしろ、確実に味わいは増している。『死者の奢り』で見られた死体から放射的に広がる肉肉しさは、この文章では頭に腫瘍を抱えた赤ん坊を光源としながらも、主人公鳥(バード)の感性を介し、彼が尋ねる火見子の単に女性らしさとは言えない面妖な艶めかしさとも相まって、複雑に絡み合いながら叙述されていく。正直学生時分の私から言わせて貰えば、わからない世界を近くで長く、そして滑りを持ちながらゆっくりと見させられる作品だった。遠い感情だった。想像がつかないといえば嘘になるが、理解できると簡単に言うことはできない、そんな感情だった。嬰児と向き合わなくてはいけない現実。殺すことは罪悪感を生み、それを認識しなくてはいけない。自分で選択しなくてはいけない。現実を知らない妻、殺そうとする義母。鳥の考えは滑りながらゆっくりゆっくり変わる。ただ悉く到達する考えはどれも優しいものではなく、胸がきゅっとするようなものばかりである。

らしくない終わり方ではあった。けれど私に強烈に印象付けられるのは晩年の大江健三郎自身によるこの作品の批評である。彼はこの作品を「若い」とひと蹴りする。彼自身が障害をもった嬰児を抱えながら、文学に携わり、いや嬰児ともに自身の作品を生み出してきた中で現れた態度だった。本当にこれは正直に「降参だ」と思った。もう到底私なんかでは敵わない厚さというか黒さというか、そうした深淵を感じた。ほんの一言に過ぎないが、一瞬にして自分はひれ伏した。オーバーに言っているように思うだろうが、事実である。それも白くないのである。黒くて薄暗い。いや暗いのである。そこへものを落としたらもう帰ってこないようなそんな暗さである。

内容は「問答」で鳥が変容する姿がおおいのは印象的だった。問答で、現代性は十分に表せるのだなと思った。

作中度々現れるアフリカ。これは私はイマイチ理解できなかった。是非この書評を読んだ方は、アフリカについてのあなたの意見を聞かせて欲しい。納得のいく理解はできていない。


むう、ちょっとこれ以上は書けなさそうだ。またいつかもう一度読んで、加筆しよう。あらすじは全く書いていないからすごく不親切だと思うけれど、ネットにはいくらでもそういうものは転がっていると思うから、各自よろしくといったところだ。


今日は下手をすればもう一つ書けそうだ。

ひとまずこれで。


第23問 泉

このブログを始めた時から薄々気づいていたことだが、ここに自分の思いを開けっぴろげに書くことはまったくの浪費である。

なにかきちんと貯めてきた何かを消費しているようなそんな感覚である。加えて、脳みそをひりだして書いた文章たちがどんどん薄情になっていく。自分の手を離れ、読む人それぞれに解釈される。

そう思うと、本を書く人間というのは大きな泉を持っているんだろうなと思う。無論蛇口が粗悪なら大したことはないけれど、数多くある名著はいい蛇口である。

自分の考えの発露ほど怖いものはない。自分が大事にしてるニュアンスは正直、それを聞く人の半分も理解できないだろう。その真実は私をどっと疲れさせる。

強烈な無力感…

本当の知性とはわからない人にわかるように説明すること、というのはいたって真実かもしれない。

長い文章もここで書く分には映えるが、人にそんなものはいやでも送りたくない。ため息が出る。相手もうんざりだろうが、すごいもったいない気持ちにもなる。

小説が廃れる理由もわかるような気がする。長いものは嫌なんだよな。でも私はそうじゃないと思う。うん。でも分からないんだよな。

けれどそういう人間は得てして努力を怠っているだろう。私は一応努力はする人間だから、もうそれだけできっと生来的な齟齬なんだろう。


人間とは本当に多種多様である。自分の身の回りだけでそう思うのだから、世の中の人間の数がどれ程多いのかと考えると嫌になる。多数決とか、今の自分には虚しく感じる。虚しい。 

加えて自分は人を惹きつけるような文章が書けている自覚もない。今はただ書くことしかできない。


人間には奥行きがあるといわれるが、それは泉の奥行きのことかもしれない。今私は泉の奥へ進んできているのだろう。奥だから流れる水流も弱いのだろう。水源があることは確かなんだが、どうも今は確かめようとは思わない。色々なものがきっとこの先に進むと、普通ではなくなる。葛藤する人間らしさ、若さ、みたいなものの行き止まりかもしれない。これを超えると心はなかなか激しく動かなくなってしまうだろう。パッションは大切にしたい。


今日は殴り書きがしたい。そんな気分だから、夜にでもまた何か書けたらいいな。



第22問 ご飯

最近、ご飯がとても美味しく感じる。これは多分とてもいい精神的兆候であると思う。特に友達と食べるご飯はとても美味しい。

けれど食が細くなっている。昔食べた量の半分も食べられない。

受験のストレスとか、身の上の悩み、などもあるのかなあ。調べてみたら恋をするとご飯が食べられなくなるらしい。でもどうやらそれは女性特有の症状らしいから、違うかもしれない。

小3ぐらいまでは給食を残すレベルだったことを思い出した。

ひとまず、運動もきちんとしよう、と思った。色んなものが発散できるだろう。

第21問 ありのままで

自分の周りの学生たちは綺麗事を嫌う人が多かったようである。小まめな挨拶から、困っている人を助けてあげようと思う気持ち、濁りない将来を語らうこと。ありがとう、を言わなくても良い空間。人を助ける行為が「立派」にならない空間。こうした徳の欠けた人間形成が行われる裏腹、本人たちは「自分は自分のしたいことをする『ありのままの自分』である」と胡座をかいている。だから親切をすることに気持ち悪さを感じてしまう。「ありのまま」であることが彼らの自我に直結するのである。「手を加えられない」自我こそが素晴らしいなのだと思っている。

はたしてそうなのか。この疑問は様々に解釈できる。【ありのままはまさしく「ありのまま」なのか】【無為自然である自分はまさしく「無為自然なのか」】【ありのままの自我は素晴らしいのか】端的に言えば、こうした態度は欺瞞であり、抜け穴だらけである。

彼らにそもそも徳の意識がないことはもちろん、自己の形成の意識もすっかり欠けている。自己の人格を修繕する意義が分からなくなっている。だから平気で冷笑する。平気で「客観的」なんて言葉を使う。彼らの客観視とは即ち、自分の気になるところについて他人を厳しく見ることに過ぎない。客観の対象に自己は入らないし、入れたとしても無理矢理な理屈をこねて『クリア』してしまう。これは私が気兼ねなく話せる友達に話すことであるが、「人格は高校時代までに大筋が決まってしまう」。含みのある言い方で、逃げていると思うかもしれないけれど、この含みは救いでもある。なぜこうした言い方をするかは少し考えれば今の君たちならわかるだろう。大学が始まった時、「素の自分」を出す奴がいるだろうか。普通、友達選びをする上でこの人は人を傷つける人かどうか、空気を読める人かどうか、といった相手の良識の判断に勤しむはずである。自分の人格をもろにぶつける相手はいなくなってしまう。そうすれば、刀の刃は使われなくなる。人を切ることも、人を切って自分や友達や家族を守ることはできなくなる。高校時代はそう、大切な時代だったのである。失敗も「バカ」で笑い飛ばすことができた、「バカ」で笑い飛ばしてもらえた、許してもらえた。多くの人々はそんな失敗も恐れ、自己を隠した。「当たり障りのない」人格こそ至高とされた。大学生活が本当の意味で大学生活になるのは時間を要する。慣れ、というやつである。その頃に刃を抜いたとして、自分と向き合って同じ様に刃を抜いてくれるやつはいるのだろうか。不確定である。高校の同級生はもはや敵でもなくなってしまう。語らいあうことはできるかもしれないが、それまで「成長」を意識せずに会話してきたものは冷静に、それこそ客観的に「成長」とされる。メタが純な世界に入り込む。今までの様にはいかない複雑さ。これに対応できる人間は、少ない。

含みとは何か。それは大人になってから治すことができる、という可能性である。しかしこれはとても過酷である。ほぼ100パーセント悲劇が伴うだろう。それも生や死といった人間の根源的な話題に触れる悲劇だろう。自己の安住が壊され、強烈な喪失感虚無感孤独感無力感に襲われた時にやっと可能性はでてくるのである。そこで刀を折られるだろう。精錬したつもりの刀は悉く折られ、使い物にならないことを知るだろう。その時にやっと新しい刀が手に入るのである。でも分かるだろうがその刀をどう裁くかは我々次第なのである。だから「可能性」なのだ。


そしてやっと、綺麗事の大切さに気づくかもしれないのである。

第20問 心臓

心のある場所としてよく心臓の場所が持ち出される。心は心臓のようにハート型で描かれ、赤い色で塗りつぶされる。

心臓。私はこの言葉だけで切ない気持ちになる。赤い心臓。

赤は様々な感情を表す。怒り、愛、嫉妬。その色を思い、手を心臓に当てる。脈を感じる。狂おしい。

これは自己愛なのだろうか。いや違う。脈を打ち、血液を体全体に送り、私を生かすこの心臓。どうして気持ちが、心がここにあるのだと思うのだろう。

手のぬくもりは血を通って、心臓へ伝わる。

裏切りは私の血を凍らせ、脈をうつ心臓を止める。

心臓は愛おしい。赤い色。私が生きる色。

心臓は強い。赤い血。私を生かす色。

私が眠る時も動き続ける。だから私は生きる。私は眠る。

私が起きる時も動き続ける。だから私は人を目に収める。自分を感じる。脈。

言葉にできない気持ちを心臓は温めてくれる。言葉にしなくともよくしてくれる。言葉にしないからこそ大切な気持ち。血に淀む。透き通る。

言葉にしてはならない言葉をそうしてしまう時、私は心臓を裏切った気持ちになる。

心臓の鼓動は私の内にしか響かない。

寂しい。苦しい。

自分が生きていることを再び感じるのである。


寝よう。忘れられるかもしれない。