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第39問 一般とのズレ

変人タイプの友達と話す時のことである。

そういう時私たちはいかにして馬鹿げた事を話すかということに躍起になって、どうしようもない議論をする。もはやそれは議論ではなく、井戸端会議とか巷説にすらもならないような、本当にどうしようもない話をするのである。

題目とは関係ない話だが、最近facebookで大学に通っている友達の投稿を見ても、あまり感動しなくなってしまった。魅力は相変わらず感じるし、去年受かっていればという後悔は未だ健在なのだが、彼らの投稿に対し、これは「誰の焼き直しなのか」ということを考えてしまうようになった。別にクリエイティブな活動に目覚めたとかそういうのではなく、例えば友達と並んで撮った写真を見ても、彼や彼女の本質を探ってきた自分とすれば、その友達に羅列する人々の兌換性にうんざりしてしまうのだ。けれども、皆は私を浪人生だと思って蔑ろにする目で見てくるわけで、私は彼らが望む通りいいねのボタンを押すのである。

別に今話したいのは、高校時代は最高だとかそういう話ではないのだ。もはや高校時代も精査の対象であるのだ。他者の経験の行き過ぎた相対化なのである。これは一方向には済まない。自分の記憶や想いすらもどこか相対化されてしまう。だから「またあいつは胡座をかいて人を批判する」と私を批判する人は全く見当違いであることをここで断っておく。

一般的な感覚というのは難しい言葉だ。これは「共感覚」を含めば、「常識」も含む。「共通の理想」も含む。一般的であるというのは本当に難しいことだなとつくづく思う。でも尚更、奇天烈であることも難しいのである。


最近気になったネットニュース。

http://m.huffpost.com/jp/entry/11637776?ncid=fcbklnkjphpmg00000001

感性的な話をすれば、強烈な記事だけれど、その分どこか読者のこちらは冷めてしまうところがある。核心を突いていて、現実世界に対する高度な解釈を必要とするこういう意見は、今の社会においては共感を煽れない。せいぜい立派だな程度で終わってしまって、目的は達成できない。ズレがあるのだ、本当に正しいものと今の社会が必要とするものの間には。今の社会は昔の社会と何ら変わらず強力な同調圧力を何者かによりかけられている。同調圧力は英語で"peer pressure"というらしい。それはどうでもいいけれど、何となく正しいものが、その圧力で歪になっているなとは感じてしまう。なんかまた同じことを言っている気がするなあ。




明日には忘れてしまうようなことを並べてしまった。夏の終わり。貫徹性がぼやけてしまったかな。でも有意義な夏だった。毎日に意味を感じた。何もしない日も何日もあったけれど、それでも頭を空っぽにしてやれるようになった自分は本当に成長したと思う。自分の肯定が出来るようになってきたことは大きな躍進だと思う。そんな中で頭のいい友達たちと話していけば、自分は本当に唯一無二なんだなと改めて感じるのである。

大学生活は楽しみだけれど怖くもある。自分が自分でなくなるような日々が待っているような気がする。今日霞んだように見える貫徹性が、そうした時に煌めくように私は日々私の暖炉に火を焚べる。臥薪嘗胆。


優しい読みやすい文章も書いてやりたい。

大義名分を忘れて、娯楽にもなれるような文章をかけるようになることは自分にとって財産になるかもしれない。