第126問 クリスマス前の荒れ模様

今年のクリスマスのあたりは、しずかで落ち着いたものになると思っていた。

自分には勉強があるし、特に恋愛に対するモチベーションがあるわけでもない。

毎年なんだか不安定になるけれど、クリスマスとか記念日とかに対する変な執着心もすっかりなくなったな、なんてことを思っていた。

昔からの友達に会い、一年どうだった?と話をする時間を年末の楽しみにしていた。

でも、なんだかんだ、数日のところ毎日刺激が流れ、とても疲れ切っている。

ゆっくり眠りたいし、お金ももうあまり使いたくない。

のに、なんだか色々あって疲れている。

 

大きな要因は、女友達と久しぶりに会ったことがあるだろう。

長年の付き合い。お互いのことをよく知り、色々あった友達だ。

色々あって、友達でやっていこう、とそういうことになっていた。

しかし、会って話してみると、どうやら同棲していた彼氏と別れたのだという話からはじまるのだった。

 

端折って言えば、僕らが一度友達以上の関係になろうとするときと、その彼氏が彼女のそばにいるときは多くの時間被っていて、その中で僕は彼女を受け入れることができなかったし、彼女もまた彼を最終的に選んだのだった。

語りきれないことばかりだが、そういう紆余曲折において、近づいたり遠くなったりするなかで一番心地よい距離はどこかを、互いに「友達」という役割の中で探すことになっているのだ。

きっと、彼を失ったことは彼女にとって大きかったのだろう。

友達でやり直したはずのものがいくつか振り出しにもどってしまうようなコミュニケーションになってしまった。

 

遠回しに、僕は彼女に好きだと言われた。

遠回しに、というのは、何年か前、「〇〇くんは、✕✕な人だよね。」と大事なシーンにおいて言われていて、きっとお互いその時のことを覚えているだろうに、久しぶりにあったこの間、「私は✕✕な人が好きなんだ」と伝えられたのだ。

僕は別れた彼もまた、そういう人だったのだろう、と彼を懐かしむ話として、彼女に相槌を打ったけれど、彼女とさよならして、あの発言について考え、深く病んでしまった。

 

のうのうとツーショットをインスタグラムに上げたが、あの言葉がもしかしたらそういう意味だったのかもしれないと思うと、それを後悔した。

いっしょに会う時間、お互いを「友達」と言い張り合って、それで結局「好き」と言われてしまう。すれ違いの深さに悲しくなった。

きっと彼女からすれば、人として好きだ、という意味の話だなどと切り返されるだろうが、もうそういうことになるだろうことも、言葉にし難い悲しさの一つだろう。

お互いの言葉のどれを信じればいいか、もはや分からなくなった我々が、どうしたら楽しく自生をともにできるか分からなくなってしまった。「ともにできる」というのは、恋愛的な一緒になるという意味ではなく、大切に思い合う人間同士、生きていくぐらいのニュアンスの話だ。

私は、月曜・火曜と、思いをこのブログに書き出してみた。

だが、自分自身の書く文章も、悲しかった。

どうしようもなさが、もうどうしようもない、という感じで辛かった。

 

インスタグラムに写真をあげたせいで、クラスメイトからも彼女のことを聞かれ、あれこれ説明して、それもしんどかった。

クラスメイトもクラスメイトで、「なぜお前がそんな波乱の恋愛人生を送っているんだ」という感じで、変な感じで話を聞いているのも癪に障るが、それが俺なのだから現実として認めてもらうしかほかない。いつものことだけれど。

 

あの一瞬は楽しかったが、それ以外の時間のしんどさがひどい。

一緒にいない時間が楽しいのが大事、みたいなことを、昔誰かに聞いた気がする。

しんどい関係性かどうかは、そういうときにわかるのだな、と思わされた。

 

いつか、僕らにとっての正解がわかればいいなと思う。

もう二度と会わないのか、たまに会う関係として話す内容を考えるか、もう一緒になってしまうか。

ただ少なくとも、今の自分にはそういったことを考える余力さえない。

 

 

昨日は、とある授業の打ち上げで、飲み会に参加した。

そうしたら、その机が、去年思い切りすれ違った女の子と同じ机だったのだ。

そう、しんどいのだ。

 

しかも僕以外の、その彼女を含む4人は、同じクラスの人たちで、僕だけが違うクラスという感じだ。

5,6割が僕の知らない話題で、それで盛り上がっていて、居心地が悪かった。

どうやらその彼女は、クラスメイトの誰かと恋愛的にトラブったのだという話も少しこぼれてきて、またこの人は同じことを繰り返しているのか、と呆れた。

彼女にとってそういうのはパターンになっているのだ。

近すぎるコミュニケーションで、少なくない人を誤解させてきた、と悩んだ(ふり)を当時もしていた。

相手が「自分のことを好きなのかもしれないな」と思わせるコミュニケーションをわざととって、勘違いさせて、「それはあなたの勘違いよ」とやるのが彼女の十八番らしい。

 

当時、僕との一件もそのパターンに追いやろうとしていたみたいだったが...。

本人がどう落とし込んでいるかはわからないし、それを知りたいとも思わない。

ただ、僕らが二人でしていたことは、勘違いという言葉でどうにかなるようなことではないし、もう、彼女自身が現実としっかり向き合うことができるかという、ただ、それだけの話なのだ。

 

でも、僕にもパターンがある。彼女を非難することはできない。

自分のは、端的にいえば「私はあなたの優しさを利用してしまっていた」みたいなパターンだ。

言われるたびに、なぜ自分が利用する側だと認識するのだろう、とよく思う。

 

色々経て、自分はお互いが主人公だとちゃんと理解し合える人と一緒にいたいと思うようになった。

 

変わらない、変わろうとしない彼女を見て、僕らは根本的に違う人間なんだと思った。

同じ机にいた男の子は、ホームレスとか貧しい人をバカにするような人だったし、僕がちょっと笑えずにいたら、その隣の友達が「そういう人たちで笑いを作ることとその人達をバカにすることは違う」とその彼をフォローするために言い訳していた。

こういう会話をこの子は受け入れるんだということも、なんだか残念だった。

 

なんだか笑い声はして、楽しい気がするけど、楽しくないテーブルだった。

全部どうでもいい感じだった。

 

他には、事務所訪問に行って、なんだか気に入られて。

その日の夜には一つの授業のレポートを提出して。

その女の子のいる飲み会で、遠い席だったけど、ずっと目があって、前から気になってた女の子と飲みに行く約束をして。

今週は、疲れた。

それでその事務所にインターンの書類を出さなくちゃで。

 

今週は疲れた。

クリスマスが静かにやってきますように。

 

静かな、静かなクリスマス。