第131問 救急車

朝目が覚めると、8時半。

今日は9時からお台場にいなくてはいけなかったのに、大変な寝坊をしてしまった。

昨日飲んだ日本酒があまりに美味しくて、飲みすぎてしまってこんなことになってしまった。

半分寝ぼけた目で寝坊の連絡をした。

午後からに予定を変更して、ベランダに布団を干した。

 

部屋から出ると、母親がうずくまっていた。

お腹が痛いのだという。

それを見て嫌な気持ちになった。

わざわざ俺の部屋の前でそんなふうにしていなくていいのに、弱い自分を俺に見せつけてまた構ってもらおうとしているんだな、と冷めた気持ちになった。

腹が痛くてどうして人の部屋の前で座り込んでいる必要があるんのだろう。

自分のベッドで寝たり、こたつに入ったりするのが普通だろうに。

あらっぽい言い方をすれば、自分が感じてきた母親の嫌な部分を煮詰めたものを感じるのだった。

 

それからこたつで休むように言って様子を見ていたところ、そこから1,2時間ずっと痛そうにしている。

「救急車を呼んだほうがいいかもしれない」とまで言うので、少し様子を見ながら、急いでシャワーを浴びて病院につれていくことにした。

親は「救急車、救急車」と言うが、会話する余裕もあるので、駅前の大きな病院にタクシーで行くことにした。

 

僕は本当に救急車というものが嫌いだ。

嫌いと言っても、町中で見て不快になるとかそういうことじゃなく、自分の家に来るのが嫌なのだ。

高校一年生の夏を思い出す。救急車がうちに来てから、自分の人生は長いこと暗闇に入ったからだ。

救急車にのっている人は全く悪くないし、むしろ社会の公益のために働く素敵な人達だろう。

ただ、救急車は人を病院に運んでいるようにみえて、あれは不幸を家に運んできているようにしか思えない。

論理的に考えておかしなことを考えているのは十分にわかっているが、こういう感覚がすごく自分の深いところにあるのだ。

 

だから、タクシーで移動できるならそれがいいのだ。

しかも、駅前の病院に救急車が運んできてくれるのならいいけれど、全然違う駅の病院に運ばれたり、市区外の病院にでも運ばれたらとても面倒だ。

通いづらい病院に行かれて、手術して入院することになったら、家族はとても大変なのだ。

 

それで結局最寄り駅のそばの大きな病院に親を連れて行った。

ひどくお腹が痛そうにしているのを看護師さんが見て、ピンと来たような感じだった。

そのあとしばらく待たされて大きな治療室に親は運ばれていった。

 

待っている間、とても嫌な気分だった。

自分の人生がまた悪く転がるんじゃないのかと、とても不安になった。

家族が病に倒れることのしんどさは、自分にとっては大きなトラウマになっている。

家族のことをケアできるのが良い家族だよね、みたいな理想の話にはとどまらない、悲しさやしんどさが毎日を覆うのだ。そして経済的な不安にかられて過ごす。

端的に言って家族が重い病気になるのは、悲しすぎて、当事者的すぎて最悪なのだ。

それでもって、他人はなんの救いにもならないことを嫌ほど実感する。

 

自分でコントロールできないものに、自分の人生をめちゃくちゃにされる感覚は、それを味わったことのある人ではないと決してわからない。

アンコントローラブルなものに人生を壊されて立ち直った後でも、普通の人生を生きてきたのだという顔をして生きねばならない。

ねばならない、というような義務ではないとは言われるだろうけれど、一度競争社会に足を踏み入れれば、自分がどんな逆境の中で生きてきたかを勘案してもらえるような優しいものではないのだ。

自分の答案用紙を採点する人には、一緒に働いて自分の成果物を評価する人には、自分がどんなマイナスをゼロにして、それをさらにプラスにしてきたのか、そしてどれだけ悲しみに人生が包まれて、それを幸せに変えてきたのかも、わかったものではない。

恋愛だってそうだ。

それは人によるけれど、自分がその日あなたを笑顔にできるようになるまでどんな日々を送ったかも想像がつかないのだろう、とよく思う。

こちらとしても、別にあなたが幸せならそれでいいけれど、あなたが幸せなことを幸せに思えるように、そして幸せにできるように、そう願えるようになるまでにあった如何程のものをあなたは想像できるの、とは思わざるを得ないことがあるのだ。

そういう中で、あの男はこうしてくれた、その男はこうだったというような感覚で向き合われると、俺をわざわざ近い距離で評価しようとする姿に気づくと、もう言葉にすることもなく、自分は関係を終わりにしたくなるのだ。

 

だから、結果が大事という言葉もすきじゃない。

たしかに結果は大事なのだが。誰しもが同じ場所から徒競走をスタートしているのだと無邪気に信じている人が、結果でもって人を評価ができると思っているのだろうと感じる部分がある。

家族が健康で、経済的にも不自由のない人が、「自分はすごいんだ」というような顔をしているのを見ると、とてもネガティブな気持ちが自分の中に湧いて出てくる。

特にロースクールにはそういう人ばかりで、だから居心地が悪いのだろうと思う。

 

属性に身を委ねた弱者論も嫌だ。

その人が弱者かどうかは、その人生の中で実際にどのような不利益を被って、悲しみの中で生きてきたのかが肝要だ。

なんの不自由もなく生きてきたエリートが、自分は地方の出身だから弱者だ、とか、自分は女だから弱者だとか、といい加減なことを言っているのを見ると本当にしんどくなる。

弱者かどうかは、具体的な事実をもとに決まるのだ。

 

不幸がいざ間近にせまると、言葉にできないくらい、どうにもできないものへの拒否感情や憎悪が湧き上がってくるのだな、と文章を書いていて思った。

こういう負の感情を、ポジティブなものにちゃんと変換して毎日生きれてこれた自分は、本当に立派だなと独りぼっちで思う。そんなことを言ってくれる人は、いないもの。

 

話は逸れたけれど、結局母親は尿管結石だった。

それは痛がるわけだ。

手術もいらなかったし、点滴をして、薬をもらって家に帰った。

薬で石が溶けるらしい。医学はすごい。

「あー、俺の人生はまた終わるのかな」と思って、本当に覚悟した。

それが取り越し苦労に終わってくれた。

良かった。。。。

 

これ以上試練はうんざりです、神様。

もう僕のことは試さなくていいはずだ。

もっと日和見で生きている人たちを試してあげてほしい。

しばらくは僕の家に近寄らないで。

神様。あなたがもしいるなら、あなたのすべきことは僕ら家族を幸せにすることだ。

 

今日は、しばらく頭が混乱して、勉強も手がつかなった。

この文章を書いたら少し、やろうかな。

明日からもいつもの日々が続きますように。

日々の幸せをちゃんと感じて生きていこう。