第147問 まとも

昨日の夜に友達と新宿で飲んでから、今日は気だるく起きた。

なぜか全然勉強に手がつかなくて、というか手をつけたいとすら思わなくて。

ここ1,2週間追い込みすぎたなと思って、むしろ落ち着いた。

必要なことをやっていればいいんだと逆に冷静なのかもしれない。

 

夕方、コンビニにコーヒーを買いに行って飲んで歩いていたその帰り道。

中年の夫婦がとても大きな声で喧嘩をしていた。

奥さんがコンビニの前で重い荷物を持って街ぼうけを食らっていたらしい。

ちょうど僕がその前を通る時に、旦那さんが車で迎えに来て、彼が車から降りるやいなや大声で怒鳴ったのだ。

「ずっと重い荷物を持って待ってて、手が痛いの。なんで『大丈夫?』の一言さえ言えないの?」

住宅街にとんでもない大きな金切り声が響き渡って、そそくさとその前を逃げて歩いた後、200mくらい離れても聞こえてきた。

もう家につきそうだったけれど、なんだか嫌な気持ちになって、家についた。

 

今日は、キャンドルジュンという広末涼子の旦那の会見をなぜか見ていた。

不倫をしたのは妻なのに、会見を開いて、何を喋るんだろう。

そう思って興味深く見たのかもしれない。

試験勉強に疲れていると、ぼうっとしていると現実逃避をしているのだ。

 

この男の人の風貌は少し変わっていて体は入れ墨だらけで、少しおかしな人なのかもしれないと思っていた自分がいたが、どうやらそれは間違いで、彼はまったくまともな一人の男だった。

まともな男が思うことを淡々と話す姿は、賛否両論らしい。

彼はモラハラという人がいると友だちが言っていて、そうなの?と思って少し調べたら、本当にそうだった。

「あの記者会見をよかったと思う人はモラハラの気質がある」

「この人はモラハラ

みたいな言葉が確かに飛び交っていた。

 

試験勉強に疲れているところもあると思う。

でも、なぜかふと思ってしまった。

まともな人間は損をするのだなあと。

 

彼は妻が精神的におかしい人だということも含めてまるごと受け入れて、家族の生活を営んでいたようだった。

ただ、まともな人間にしかわからない、「こいつはまともじゃない」という感覚を言葉にしたり、表現することは禁忌なのだ。

まともじゃない人間は、自分がまともじゃないことに、思う以上にコンプレックスを抱えている。まともじゃない自分を、それっぽい言葉で塗りたくって、優れた正しい人間のように見せようと、ずっとしているから。

他責と恥の上塗りを繰り返す人生を送っている人間は、まともな人間の周りに少ないから、まともな人間にはその実態がわからない。

だが、公の場で表現を介して人格の開示をすると、こういうイデオロギーの衝突というか、自分の人生の正義をかけた戦いのようなものを仕掛けられてしまうのだ。

まともではない人間は、まともな人間を見ると、「本当はこいつはまともじゃないんだ、もっと醜い人間のはずなんだ」と暴きたくなるし、壊したくなってしまうし、損をさせたくなってしまうのだと、思った。

 

「あの記者会見をよかったと思う人はモラハラの気質がある」

言ってること、結構めちゃくちゃだ。

自分はよかったとかそういうことは思わないけれど、情報伝達を経て、何かを感じる人たちに対して、その感じ方を否定して、人格的な欠落があると決めつける方が怖い。

 

 

まともに生きていくのは、ほどほどにしてやめなきゃなと思った。

今日、ふと思った。

なりふり構わず生きていった方が結局いいのだと感じた。

まともな自分を失わないことは大事ではあるとは思うけれど。

でも、まともなやつだと他人に思われて生きるのはクソだなと、ふと思ってしまった。

 

僕はまともであるのをやめよう、と今日決めた。思った。

まともさを、徐々に徐々に心の奥にしまって、生きていこうと思った。

 

まともな人の周りではまともでいたいけれど、そうでないやつの前とかそうなのかそうでないのかわからないやつの前では、まともに生きる必要なんて。

 

でも、たとえばキャンドルジュンみたな人間が損をしないように、得するようにしてやりたいなと思った。

まともな人間は多いほうがいいと思うから。

まともなやつが、理不尽な思いをしないように、そういうやつに力をくれてやりたいし、金をくれてやりたい。

そういう世の中に、俺が生きている間に近づけたいと、ふと思ったのだ。