第152問 愛の復活/東北に横たわるもの

3日間に渡る東北旅行が終わろうとしている。

僕は今盛岡駅でパソコンを開き、楽しかった時間を振り返っている。

 

この東北旅行は、もともと僕の後輩の女の子が飲みの場で提案してくれて、僕と親友が彼女の出身地である秋田に行くという話から始まった。

ところが、話は転じて親友の彼女も秋田に行くということになり、僕については一日早く青森に着弾し、三人で青森観光をしてから秋田・男鹿に行こうということになったのだった。

 

ただどうしたことだろう、青森を旅行中突然後輩から電話がやってきて、38度の熱があるというのだ。どうしたものだろう、と思った。

彼女は前々から聞いていた話では、8月第一週はロスに行く予定で、実際インスタグラムによればロサンゼルス旅行を大満喫していたようだった。

コロナにかかったのかは分からないけれど、電話口ではだいぶ体調が悪そうで、これでこちらにやってくるのは無理だろう、と直線で彼女の参加はキャンセルとなった。

 

もともと、意味の分からない旅行ではあってその意味の分からなさが楽しみであったから、彼女の不参加は少しさみしいニュースではあった。

けれど、2日目に大雨が降って、岩木山神社を親友と彼女が相合い傘をして参拝している姿を後ろから見たとき、僕は後輩の彼女がいなくてよかったと思っていた。

 

親友は一つ前か二つ前の恋愛で深く傷ついていた。

それは、僕からすればある種の辛い現実との対峙であったと思っている。

自分や彼を含めた仲間たちは皆そうだったと思うのだけれど、3,4年前の僕らは熱にうなされていた。

それは青春病ともいえるようなもので、自分たちにはなんでもできる、何かをなしたげたいというエナジーがそこにあった。

今となっても残るそのエナジーは、当時の僕たちの額で燃えるように盛っていたのだ。

しかし、そういう勢いみたいなものは、いつしか勢いでしかないことに多かれ少なかれ気付かされる。

例えば、学生同士の付き合いが、学生と社会人といった付き合いに変化するとき、社会人で世間を知った気持ちになった若者は、学生のことをさめざめしく思うのだ。

これは彼に限った話ではなく、僕の周りで4,5人観測した現象だ。

 

そのときに現れるすれ違いは容赦がない。

身分の違いからくる違和感という話は、それに違和感を感じないはずの人だと思って、卒業をしても一緒にいる選択をしたにもかかわらず、どうしていこうかと話し合ったにもかかわらず、その違いがどうも気になってしまうような人だったという事実が現れるからだ。

結局のところ、なんでもかんでも乗り越えられる愛ではなかったという現実を知るのだ。

 

そんな彼のそばに僕はずっといられたと、今でも自負がある。

彼はもしかしたらそう思わないかもしれない。

でも、彼がその当時の彼女を失ってしまう最後の最後まで、彼を支え続けることができたと思っている。

だからこそ、彼の背負った喪失感は僕にとってひどく痛ましいものだった。

 

 

この3日間、彼が僕に見せたのは、復活だった。

彼女と戯れて、心を開く彼の姿は僕にとって強い安心を感じるものだった。

別に比較するものなどではないけれど、インスタグラムで目にする愛のどれよりもナチュラルで安心感の深い愛が染み渡っていたように思う。

だから、僕は今、新幹線に乗って彼の姿を思い出し、彼が復活して安心して生きている姿は脳裏によぎって、心からほっとして涙が流れた。

愛に傷ついた者がたくましく立ち上がる姿は何よりも美しいと思った。

たくましく生き、何度も立ち上がる者が、美しい人生を生き、愛の通った物語を紡ぐのだと学んだ。

 

彼自身が過去に縛られているからこそ、今の幸せがあるのに間違いはない。

忘れ去ることができないものが誰にだってあるのだ。

僕自身が何度もこのブログで焼き直す物語は、まさにそういうものだと思っている。

通り過ぎた過去すら自分の体内にあるんだ、としっかりと立つ人間が美しいのだ。

 

これは、心のなかで決別した友人への反論だ。

あの日、美術館のカフェで、別の友人について語るように、「過去の話ばかりをしてはいけない」と言った彼女に対して。

忘れられない思い出があるのは、まともに生きている人間からすればむしろ当たり前で、誰かにとって忘れられない存在であることや、忘れられない誰かがいることは非常に幸せなのだ。

それが名残惜しさでも、後悔でも、今でも続く思いであっても、過去を愛する思いにできるとき、人間は美しい死に際を迎えることができるし、今日明日命を絶つことなく生きていけるのだと思う。

もっといい人生を生きたいと思う気持ちは、過去こそが与えてくれるものなのだ。

過去が消し去りたいような思い出ばかりの人間なら、わかりあえない。

他者に責任を押し付け、思い出を自分自身で汚す人間には絶対にわからないものだと思う。

 

恋愛にとどまらないのだ。

人の心に治らない傷が残ることは生きていれば多々ある。

そういう傷を優しく撫でるような人間でいたいのだ。

皮膚をタトゥーで塗り消せばいいという、いい加減さはそこにはない。

そして、あの日の自分から、遠い遠いところへ走って逃げるんだ。

 

 

東北地方、私が堪能したのは青森・秋田・岩手であってけれど、そこには多くのものが横たわっていた。

何より美味しいご飯、優しい人々、美しい景色、酔いを誘う美酒。

僕は、二人に連れられて、かけがえのない経験をさせていただいた。

自分ひとりで生きていては、決してたどり着くことのできない場所があるのだと、ずっと思った。

 

親友の彼女が運転する姿に、僕は心打たれていた。

僕の前の彼女も、車を運転してくれる優しい人だった。

「何も特別なことじゃないよ」と、彼の彼女も僕の前の彼女も言うから、どこか重なった。

僕はあの子を愛おしく思って、抱きしめた日を思わざるを得なかった。

不器用な僕らのような人間に、なんの気無しに愛を注いでくれるような彼女たちのような存在は、本当に素晴らしいのだ。

 

試験のせわしなさと、試験や就活に際して触れすぎたネットのいい加減な"現実主義"がどれほどまでに、僕に害悪をもたらしているのか目覚めるように感じた数日だった。

人を信じ、愛すること。

それが、これから僕が本当にしたいことだ。

 

いい人生を歩みたいのだ。

今は北上駅。まだ盛岡からそんなに経っていないけれど、外はすっかり真っ暗になった。

今年の夏を、僕は心から愛している。