第151問 潮時

少し前、親友と話していてこんな相談をされた。

いつしか自分の彼女に、自分にあったいい出来事の話をできなくなった。

海外で経験してきたこと、勉強する中で学んだことを伝えることができなくなって、自分の幸せを分かち合うことができないように感じるようになった、と。

 

ステージの移り変わりや、人生の景色として見えているものの違いが、大きなすれ違いを招くことは多々ある。

しかし、本質的にそこで起こっているのは単なるすれ違いなのだろうか。

 

私が思うのは、果たしてそうではないということだ。

人と人がすれ違うとき、それは恋愛関係に限らず、家族でも友人関係においてもであるが、その時本当は自分が思っていた人と違うことをはっきりと自覚するのではないだろうか。

 

自分にも最近そういうことがあった。

その友達は自分と似ている人なのかなと思っていた。でも、本当のところそうではないのだなと気づいた。

そして、自分がとても呑気で、色々と勘違いをしていたことにはっきりと気づいた。

前もそういう失望に近いものを感じたけれど、そのときは多分その人がそこらへんの女と違いがないことが認められない中であった、異性として自分の中でユニークに思う部分の喪失だったと思う。

彼女がなんら普通の女であり、むしろ自分は彼女のような女こそ嫌いなのだという失望だった。

 

今度のは、人としても色々違うのだというそういう失望だった。

受け入れがたかった。

 

親友の相談する目は、あのときとても冷たい目をしていた。

どうにかして私は彼に温かみを与えようと必死だった。

 

今日の私の目は、同じような温度を帯びているように思う。

勝手に作り上げて信じていたその友達を失って、ひとりでこの暑い東京で冷えた汗を拭った。

 

今夜は、東京を出て青森へ向かう。

ニューヨークにいる友達とラインした。

どうやら物価が高いし、チップも払わないとだし、出費が激しくて懲り懲りのようだった。

私の気持ちを言葉少なに丁寧に聞いてくれた。

人生の中で拠り所や頼れるものは、本当に少ないことを僕らは話した。

 

失ったものの大きさを受け入れられず、僕は敗走するしかないのだ。

ねぶたも舞い終わった青森に行ってすることも無かろうが、日本を離れる友人とその彼女に会いに行く。

 

ずっと来ないと思っていた時間は、どうやらやってくるのだ。

涙を拭く時間すらないことが寂しく心に募る。