第144問 自律の幻想/愛

久しぶりに会う友達たちと、昼下がりからお酒を飲むことにした。

ふたりとももう社会人4年目に突入していて、僕はもはや学生身分を開き直って楽しむことができた。

社会人を長くやっている同世代は、「勉強を続けるのは偉いよ」と社交辞令をするのが通例であり、それをありがたく受け取った。

当の社会人たちは学生という身分はもうなることはない、という過去の話として語るものだが、自分は学生という身分は人生でながければ長いほどいい人生になるという確信があるから、せわしなく平日働き、虚しさを埋めるように土日に"遊ぶ"社会人よりは、金はないけども今の身分はよっぽど幸せだと感じている。

 

さて、そこでもまた僕は女の子の愚痴を聞くことになる。

なぜ女の子たちは僕に悩みを語りだすのだろう。世の女は恋愛のことばかり考えているようだ。

 

その彼女は、1ヶ月前くらいに3年半付き合った彼氏と別れたらしい。

「3年半」と語気を強める彼女は、自分の中であまりにtypicalで面白かった。

お互いの仕事が忙しくなり精神的にそれぞれ追い込まれていた時期。

彼氏は彼女に側にいてほしがったが、彼女の方はひとりでリフレッシュをしたくて一人でNYに2週間の旅行にでかけた。

つらいときに求めるものの違いによって、大きく二人はすれ違ったようだった。

 

彼女は「彼は自立している人が好きって言っていたのに」と愚痴をこぼしていた。

NYに飛び立ち、ひとりでバカンスを楽しんだ自分を受け入れてくれず、かえって側にいてくれないことを咎める彼氏が、自分のパートナーとして"適格”ではなかったという感じだった。

 

彼女の言うことは一聴に値する部分がある。

というのも、男がいう「自立した人が好き」というのは、往々にして「自分に迷惑がかからない人が好き」という意味に過ぎず、一人でふらふら歩いて生きていることがいいという意味ではないからだ。

男に依存しがちな女は、たしかに一般的には厄介だ。

何をするにしても報告だとか連絡だとか、そういうものを求められても困ってしまうからだ。

これは男女逆だってそうだろう。

また、「自立した人が好き」とわざわざ男が言うときは、目の前の女が自分自身で「自立した自分」を大事にしているときであり、ある種恋心のアピールに過ぎない面もある。

結局はその女の顔面だとか雰囲気だとか、そういう感覚的な好意について、性格が好きだという話に、自分自身の中でもすり替えていて、彼女のような一見見た目で耳目を集めがちな女は内面を褒めればいいと短絡的に思っている部分が大きいのだ。

 

ただ一方で、そういう女性が自認する「自立した」の意味は、僕は眉唾である。

言葉を選ばずに言えば、第三者的に言えば、それはただの「自分勝手」の都合の良い言い換えに過ぎない。

「自立した自分」を受け入れて欲しいという思いが本題であり、それは色々と「自分勝手な自分」でも許してくれる人を求めているというのが本質なのだ。

もっと言えば、自分より私のことを優先して欲しい、ということだ。

 

そういうところまで自分なりに理解して、僕は彼女に「すれ違ってしまったね」と声をかけた。

 

ここでは本心を書きたい。

そういう人たちに対して、僕が本当に思っていること。

僕は、こういう人たちをあまりに多く知りすぎて、独りよがりさに嫌悪感さえ覚えるようにもなった。

ただ、今の自分として、それはその人の主人公性の押しつけに忌避感情を得ていたに過ぎず、自分が本当の主人公であることを自覚すると、そういう押しつけからするっと逃れ、冷静に思うことがある。

僕は、誰かのパートナーになる以上、相手の幸せを増やし、悲しさや寂しさを少なくさせる一定程度の責任があると思う。

なぜ友達という関係を超えて、パートナーになるのか。

それは、わかりやすい話だけ持ち出すならば、体を重ねるための理由付けなのかもしれない。

でも、それは誰とだってできるのだ。恋人としかしないというのはあくまで個人個人のルールの話であり、それはしかも時と場合によって個人の中で無視されることも多い。

 

パートナーになるというのは、相手の人生においてなにかの役割を担うという簡素な誓いなのだと思う。

だから結婚は、恋愛の先にあるのかもしれない。

 

人の恋人になるというのは、人の幸せを増やし、人の寂しさを癒やす約束をするようなものだと思う。

守れないときもあると思う。それで良いと思う。

でも、それでも「あなたにとってそういう存在でありたい」とどうにかもがくべきなのじゃないだろうか。

 

恋は、自分の思い。

愛は、相手への思いやり。

恋愛が恋から愛に変わるとき、それは相手の幸せを願う切実な思いと、相手を幸せにしようとする勇気が育つときなのだろう。

 

若いみんなは愛を知らぬのだ。

みんなが恋愛と呼ぶのは、もっぱら恋だ。

僕がずっと求めているのは愛であり、恋ではなかった。

 

愛を知っている人々がいる。

その人達は、みな誰かに愛を注がれた人たちだ。

愛は、愛を注がれないと分からない、やっかいなものだ。

僕は、親に大切に愛を注がれて育ったのだと思う。

紆余曲折と癒えない痛みをもってしても、揺るがないだろう。

 

やっと僕なりにひとつの答えが出たと思う。

 

愛を知らぬ、恋する人たち。

自律した自己像が幻想であることに、いつになったら気づくだろうか。

「自律」は、宇多田ヒカルに言わせてみれば、多くの他者への容赦ない依存であり、分散である。僕も全くそうだと思う。

自律はたくましさなどでは決してなく、自分の弱さを根本的に引き受けることなのだ。

弱い自分を受け入れ、愛を注いでくれる人。

そんな人がみんなのそばにいてくれたらいい。