第140問 沈んだ夕陽

今日は珍しくあまり筆が進まない日だった。

理由は簡単で、憲法で覚えなくてはいけない規範があまりに長くて、気だるくてやる気が削がれてしまったのだ。

国民の選挙権が立法によって制限される場合に、かかる法律が許されるかという議論で、大切な判例がある。それをベースに落語のようにこういう文言を覚える。

憲法は、国民主権原理(前文1項、1条)に基づき、全国民の代表である両議院の議員に投票することを国民固有の権利として保障(43条1項、15条1項)し、普通選挙の原則(15条3項)及び選挙権平等の原則(44条但書)を規定して選挙権を保障しており、その趣旨を確固たるものにするため、選挙権行使の機会をも保障している。
そのため、国民の選挙権又はその行使を制限するためには、そのような制限をすることなしには選挙の公正を確保しつつ選挙権の行使を認めることが事実上不可能ないしは著しく困難といえるような、やむを得ない事由があることが必要である。

長過ぎるのだ。

これはほぼ最高裁判例の判旨そのものなのだが、「議員に投票する権利」と「選挙権」をどうやら異なる権利のように論じているようで、書いていて書いている内容がよくわからないという根本的な問題がある。

こういうしょうがないけど覚えるみたいな作業にぶち当たると、やる気が削がれるのだ。

 

何年か前の誕生日を思い出していた。

誕生日を思い出そうと思って思い出したわけではなく、ある人のことを思い出して、その日のことを思い出した。

その人はかつて僕との関係を「腐れ縁」だと言った。

腐れ縁とは「離れようとしても離れられない悪縁。なかなか断ち切れない好ましくない関係。悪縁。」をいうらしい。

腐れ縁という言葉を聞いたことがあるのは、人生ではその人ともう一人しかいなくて、ふたりとも女の子だ。

多かれ少なかれ、勝手に僕の方は気が合うなと思った人たちで、そういう言葉への敏感さや豊かさみたいなものに、本質的に僕は惹かれたのだと思う。

「言葉にこだわりを持ってるものね」と僕のことを言ってくれたのも、きっとその二人だけだろう。

当時は単純に言われて嬉しかっただけだったけど、今思うと自分のことを自分が好きな言葉遣いで話してくれたのだなと思わされる。

それはお互いの好きな言葉遣いだったのかもしれないけれど、そういう重なりが言葉にしがたいかけがえのなさを作ってくれたのだと思う。

 

腐れ縁。

確かに、お互い色々やらかし合っているけれど、なんだかんだ切れない関係かもしれない。

いい言い方というか、単純な言い方をすれば「親友」なのだろうけれど、こういう落とし込み方はお互いに、少なくともどっちかはあまりしっくりこない部分もあるのだろう。

 

10代の頃、二人で代々木公園にいた夜。

散々大学の男たちを振り回しているという、苛烈な恋愛トークを僕に聞かせた後、

嬉々とした顔で、スマホに写したクリムトの接吻を僕に見せた。

あの頃の僕はクリムトの画風が怖くて、「美しい」という彼女の気持ちを温めるだけだった。

少し大人になって、いろんな人と関係がはじまって終わって、僕はあの絵がとても好きになった。

いまでは見せかけのような美術ブームがやってきたが、昔から芸術や音楽を好きな気持ちを全力で表現してくれたあなたのことを深く信じたくなってしまう。

高校生のころ物心ついて人生ではじめてのデートで六本木の美術館に行った僕は、そういう人をどこか近しく感じてしまう性なのだ。

 

僕の20代前半に抱えていたBig Issueのひとつは、女の子たちとのすれ違いだった。

「タイミング」という言葉が、いろんな人達と関係がうまくいかない理由だったし、好意そのものがすれ違うことも多かった。

 

その腐れ縁の子にはこう言われた。

「私にはわかるの、目が違うから」

ドキッとした。妥当な答えを出さなくちゃいけないと思っていた僕を突き刺す言葉だった。

繊細な彼女だから、僕を看破してしまうのだった。

そして、そういう話を高い彼女のプライドは許さなかったのだ。

 

とある誕生日、僕はその子と海に夕陽を見に行った。

でも、海辺についた頃には夕陽はもうほとんど沈んでいた。

太陽の弧が水平線とぎりぎり重なるあの海は、すれ違いながらもくっついていた我々を現すようだった。

 

自分が抱えているのがどういう種類の思いなのか、僕にはまだまだ全然わからない。

けれど、その子には僕の人生にいてほしいと思っているのだ。