第122問 ヒロシマ・ノート

先日、部屋の掃除をしていたら、遠い昔の本当に辛かった時期、先生にもらったヒロシマ・ノートのコピーが出てきた。

先生が僕を思い、このページを渡してくれた優しさは、自分がずっと人間を信じることができている理由のひとつなのかもしれない。

たまに読み直して、思い出す。

本文とは別にプロローグを印刷してくれていて、「興味深い『序文』です」と、付箋がはられている。

そこにはこんなことが書いてあった。

被爆して、ひととおりの悲惨な目にあった家族が、健康を恢復し、人間として再生できたという物語はないのものだろうか。
被爆者はすべて原爆の後遺症で、悲劇的な死をとげなければならぬものであろうか。被爆者が死ぬとき、さきにいった健康と心理的被爆者の負い目とか、劣等感とかいったものを克服して、普通の人間の死、自然死をとげることはゆるされないかを考えた。

わたくしたちが死ねば、すべて原爆後遺症の招来した悲惨な死であり、それは原爆への呪いをこめた、原爆反対にやくだつ資料としての死であるとしか考えられないのだろうか。

たしかにわたくしたちの生は、原爆に被災したために大いにまげられ、苦しめられてことは否定できない。しかし、これは、原爆でなくとも、戦争を経過したひとたちは、程度の差はあれ、なめていることであろう。

わたくしは、とくに広島の被爆者のみの、被害者意識という、なにか甘えた感情があってはならないとみずからを戒めた。

みずから人間を恢復して、原爆をうけながら、それにもかかわらず、うけない人間とおなじく、原爆によらない死をわがものとしたいねがいをもつようになった。

改めて読んでみると、私が先生からもらったもののあまりの大きさに驚くものである。

このコピーを貰って、7,8年近くは経つだろう。

戸棚から取り出す時、このコピーは本当に綺麗なままで封筒に入っていた。

なにひとつヤケも汚れもなかった。

 

この文章は先生の言う通り、「序文」だった。

僕の人生の寿命を引き伸ばしてくれた、あるべき場所に戻す力をくれたのは、疑いもなく先生のくれたヒロシマ・ノートだった。

 

5年前の僕はこんな文章を書いていたらしい。

記憶が溶ける前に、書き残そうと思う。そして、何よりガサツだけど、人に読んでもらうことで何かしらあの町にお返しができたらと思う。

僕は広島にいた。
長い間ずっと夢見ていたことだった。先生に大江のヒロシマノートを勧められてから、ずっとずっと広島に立つことが僕の夢だった。

原爆ドームは、市街地の真横にある。市街には縦横に広電という路面電車が走っていて、本当に中心から2,3駅しか離れていない。でも原爆ドームに始まる記念公園はとても広く、資料館も慰霊碑は広い公園の中にそれぞれポツンポツンとある。

駅から降り立って、すぐに原爆ドームを見た時、体が氷のように固まった。本当に時が止まっているという感じというか、柵で囲まれて、まるで我々の時代とあの時代を切り離す柵なんじゃないかと思うような、そんなモニュメントだった。碑が立っていて、そこにはこの遺産を永久に残そうとする広島の人々の固い決心が刻まれていた。それも細い我々の使う「誓い」みたいな言葉とは、全く別物の太い繊維の「誓い」が刻まれていた。

横には川が流れていた。川。ある人にとっては、公園の景観の一部の、整備された川に過ぎないものかもしれなかったが、大江の言葉を拾っていた僕にはそれだけでは到底済まされなかった。原子爆弾が広島に落とされたあの日、熱線と暴風と放射線があの町を襲った。空襲警報も切られていた中、20万の人々はアレをもろに食らった。光が町を包んだ後、人々の服は燃え、肌はドロドロに溶けた。熱い、と叫ぶ人々が川へ飛び込んだのだった。資料館には肌が溶け、服が燃え、手を幽霊のように前にブラブラさせながら家へ帰ろうとする子供達の人形が置かれていた。川といい、人形といい、僕にはヒロシマノートを読んだ時に脳みそを貫いた、あの苦しい感覚がまた蘇った。

公園の広さ。これは本当に恐ろしかった。なぜ広い公園が建てられるのか、それは爆弾が何もかも消し去ったからだった。整備され美しい公園になった今でも、70年が過ぎた今でも、あの場所にはどこか静かな悲しさが潜んでいた気がする。

慰霊碑まで歩く。8/6、お偉い方が前に座っているあの場所である。「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」原爆ドームを瞳に収めた時と同じように僕は泣いた。奥で静かに炎が燃えていた。綺麗に花が飾られた献花台の前には人々はおらず、少し離れたところから写真を撮るばかりだった。僕は一歩踏み出して、静かに祈った。もし、この文章を読んでヒロシマへ行く人がいたら、写真を撮るより必ず先に手を合わせて欲しいと心から祈るばかりだ。戦争がどうこうとか、そういうものの前にある、純粋で透き通った、青い悲しい気持ちが僕の心を覆った。人間の死、それも一重ではなく何重にも重なる死である。最近自分の人生が厚くなって行くことを感じる最中の、多重の死は抱えきれない大きさで、僕は本当に素直に泣いて、手を合わせることしかできなかった。

資料館には様々な記憶が残されていた。ある人間が言った、「歴史はつまるところ記憶だ」という言葉を僕は思い出した。記録というより、記憶だった。数々の遺留品が展示されていて、その破れたモンペ・シャツや縮れた髪の毛の束、一つ一つに物語があった。子供達の持ち物ばかりだったけれど、彼らは爆弾投下後大怪我を負いながらみな両親のもとへ歩き、親に看取られ死んだのだった。未だ遺体の見つからない人も沢山いて、馬鹿にならない数の針が僕の心を刺すようだった。皮膚が溶け、身体中包帯に巻かれた人々の写真が飾られていた。見るのでも辛かった。大江もそのようなことを言っていたけれど、本当に人なのか、そう思ってしまうほど悲惨だった。僕はその写真を一枚一枚じっくりと見るたびに、顔をしかめた。それがあるべき姿なような気がして、一つ一つに真剣に向き合った。看病していた医師たち、家族たちはどんな気持ちだったのだろうか。どんな思いで患者と向き合ったのだろうか。ああだからこうだ、みたいに考えられる領域をとうに越えていた。

オバマの写真も飾られていた。あの地を訪れると、いかほどに大切なことだったのかがよく分かる。あの地に立つとき、人間は観念的なものは棚上げにせざるを得ない。あの地で育つ人間がなぜ受け継ぐのか、それも全部あの慰霊碑にドームに凝縮されているような気がした。そういう何よりも先立つものを、位を抱えて感取しにやって来たというのは、本当にかけがえのないものである。

長くなった。
広島はヒロシマだった。広島とされる町は、「広島」を被ったヒロシマだった。
ドームへ行く前の日にお好み焼き屋であったおじさんは開口一番に言った。
原爆ドームに行って下さい。資料館に行って下さい。広島にはそれしかありません。」
この広島こそヒロシマだったのだと思う。
鈍い目。僕にとっては慣れ親しんだ、懐かしい言葉だ。僕はこの中高の間、この鈍い目を求めてもがいた。最近、やっと少しずつ本当に少しだけ、肌に馴染んで来た。鈍い目が自分のものになる時、ヒロシマの血が自分にも流れるのかもしれないと思った。お好み焼き屋の女将さんに言われた、「故郷だと思ってまた来てね」という言葉は深く深く僕の心に刺さった。

19歳の文章という感じがするものだ。

 

 

いつの日か、ちゃんと先生にありがとうございましたって言いに行かなくちゃ。